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今日もただ平気な“フリ”して生きている

「ねぇ、もんちゃんってどこが悪いの?何の病気だか知ってる?どこも悪そうに見えないのに」
これは私の知らないところで言われていた私の病気に対する言葉だ。

◆◆◆

28歳のある梅雨の日、私は難病を患っていると宣告された。

生まれてからずっと健康優良児だったのにここ最近、体調が優れない。すぐに疲れてしまい、毎日帰るとぐったりしてしまう。気合が足りてないのだろうか。自分の中では十分頑張っているのだけど。それとも運動不足で体力が衰えてきたのか。もうアラサーだしな。その程度にしか考えていなかった。
しかし体調不良が続いたため精密検査を受けた結果、難病だと突然に告げられた。

最初に浮かんだ言葉は正直に言うと“ホッとした”だった。
『なんだ病気だったのか。足りなかったのは気合じゃなくて休むことだったのか』と分かったら、これ以上自分の中に原因を探さなくていいと思えて安心出来た。

そう思っていたのも束の間で、体調が悪化し働けない状況になってしまった。自分じゃないみたいに思うように動かない体、食事もまともに取れない。その度に『やっぱり私は病気なんだ』と痛いほど現実を突きつけられて、悲しみや絶望感に襲われた。
28歳。まだ人生これからと言う時にまさか自分が病気になるなんてこれっぽっちも想像していなかった。自分の人生の中から希望がどこか遠くへ行ってしまったように思えて夜が明けるまで枕を濡らした。

社会復帰できたのはそれから数ヶ月後のことだった。しばらくの間は時短勤務をさせてもらえることになった。上司や周りの同僚も状況を理解して下さり、沢山のご協力のもとまた働けるようになった。

仕事にも慣れて、体調もやっと安定してきた矢先のことだった。

◆◆◆

「ねぇ、もんちゃんってどこが悪いの?何の病気だか知ってる?どこも悪そうに見えないけど」

その言葉は病気と同じように突如、私の元にやってきた。
同じ部署で働くAさんはどうやら私が病気には見えないのに、一体なんの病気なのかが気になるらしい。
Aさんが色んな人に聞き回っていると優しい誰かが教えてくれた。話を聞いている間、段々顔が引き攣ってくるのが分かる。マスクをしていて、良かった。

陰でそんな風に噂されていたことのショック。知らないでいた方が幸せだったのに、欲しくなかった親切心に対する苛立ち。他の人も直接言わないだけで本心ではそう思っているのではないか…と芽生える不安。
一つではない様々な感情に心が乱れる。

見た目には見えない体の痛みや怠さ、外からは分かりにくくても病気のせいで髪の毛が抜けることにショックを抱えていた。それでも現実を受け止めて必死に前を向こうとしていた。かつては当たり前だった毎日を今は一日一日過ごせることを噛みしめて、感謝しながら過ごそうとしていた。
本当はみんなと同じように働きたいし、行きたい所もやりたいこともまだ沢山ある。私だって好きで病気になった訳じゃないのに。そう思ったら悔しくて悔しくて涙が止まらなくなった。

Aさんと顔を合わせるのも職場に行くのも怖くなったが、それでも会社に行く。その中で気付いたことがあった。


“みんな心に傷や悲しみを抱えながら、ただ平気なフリをして毎日過ごしているだけなんじゃないか”


外から見ているだけでは気付けないことは沢山ある。
見た目が元気そうだから、笑っているから、傷ついているようには見えない、病気には見えない、元気そう
どれもあくまでも他人からどう見えるかであって、本人が実際どう感じているのかとはイコールにはならないということを忘れてはいけない。

骨を折ってギブスをしているなど、世の中見た目ですぐに分かるものばかりではない。私のように見ただけでは分からなくても実は病気と闘っていたり、見えない悲しみを心に抱えている人はきっと世の中に沢山いるはずだ。

他人には迷惑をかけまいと至って普通に、または明るく振舞っていても心の中で実は泣いているかもしれない。外からは見えない悩みを抱えているのかもしれない。

電車で隣に座っている見知らぬ人も、会社で毎日顔を合わせるあの人もそうかもしれない。いつも元気いっぱいのあの人も。みんなみんな、『大人だから』とか自分に言い聞かせて、平気な“フリ”を今日もしているだけなのかもしれない。

そう気付けた時、心に誓った。
自分の主観や見た目だけで人の状況を決して決めつけないこと
誰かに手を差し伸べてあげれる人であること


1人でも多くの人がそうなれたらと思うのと同時に、多くの人が心の内を打ち明けられる人や機会に恵まれる社会であって欲しいと切に願う。