こうして自分のことを言語化することに向き合うと、自分を表現することをしないままここまで来てしまった過去を悔いて手が止まる。
この国は栄養をないがしろにしてるんじゃないかと感じる瞬間がどうしてもある。
恋愛って恋とは、愛とは、それらふたつの違いとは何かを知るためにもしてるんだろうなぁ、なんて思う。
いつか好きということが薄れて醒めてしまう時が来ちゃうんだけど、その時きっと私は醒めることを納得しちゃうんだろうな。今はまだ失くす怖さの方が勝っているけども。
時々ですが気分転換のために、その時期のお香を部屋に焚く。今時分だと梅をイメージしたお香。写真の左が京都で買った白梅香、右が鎌倉で買った紅梅香。 紅梅は昼、白梅は夜のイメージが勝手にあるのでそのように使い分けてる。 香りはどちらかと言うと白梅香の方が好みだけど紙箱のデザインや白木の箱に入ってるあたりは紅梅香の方が好み。結局どっちも好き。
自分を差し置くのをやめました
友人と言うのか仲間と言うのか、とても不思議な関係の方が自身の今の渾名を辞めて新しい渾名で頑張っていくと宣言してました。 その方が今までの渾名にとても愛着を持っていたことを知っているだけに、一体何があったんだろうかとドキドキしながら記事を読みました。文字から意気込みというか覚悟を感じました。新たな門出に賛成ですし、祝福したいと思ってます。 それと同時に今の私が名前の縛りをあまり感じていないということに気づきました。うつ病をまだ放置していた頃は弱い自分を隠すために渾名によってそ
久しぶりの投稿になっちゃったな。大切にしたいと思ってた小さな気づきは頭をすり抜けていってしまったよ。
愛されるのがとてつもなく恐ろしいと感じるのです。
かといって自分のせいだ、とどこまでも自分を責めていても埒が明かないものですが。 一昨年から去年にかけてはとにかく全てが辛く苦しかった。脳疲労の兆候でセロトニンが上手く出ず、ネガティブな感情に引き摺られていたのでしょう、との主治医の見立てです。 とにかく辛くて苦しくてどうにもならなかった時分に私は何とかして辛い苦しいを一旦置きたくて、逃げたくて他者のせいにしていた。何人かにはかっこ悪い、ダサいと忠告を受けた。それどころではなかった私はもうしばらくそこから暴走してしまった。以
たまにすごく無気力になる時がある。何もしたくないとすら思えないくらいの無気力。そんな時は最低限やらなきゃいけないことだけやって、大人しくしておくことにしている。いくら負けず嫌いでもこれだけは真っ向から勝負してはいけない。
他人の作った料理を食べるのが好きなんです。今まで自分が作ったことない料理も「こういう料理(食材の組み合わせ、調理方法、切り方、味付け)があるんだ」って新しい発見があって好きだけど、自分が作ったことあるなしに関係なくその人の人となりが滲み出てるから好きなんだなぁと。 先日のきっかけ食堂で以前出した料理を今回も出しました。違うのは料理を担当する人のみ。いざ食べてみたら味が違った。もちろん美味しかったし味もその料理として成立してました。ほんの少しの差。その差の中にその人の感性とい
大根には糖質、脂質、タンパク質を分解する酵素が含まれている。だから大量に生の大根をせん切りにすれば指先が荒れる。 つい2日前まで指先が荒れすぎてスマホの指紋認証はおろか入力にも支障をきたし、iPadをタッチペンで操作しながらカバーについてたキーボードで文字を入力していた。今年の目標は手を洗ったら必ずハンドクリームを塗るにしてもいいなと思う程度には手が荒れていた。保湿大事。これは大学1年生の時の話だ。今でも大根を見れば何を思いながらせん切りにしていたのか思い出せるほど強烈なでき
料理をする人はアンカーにしかなれないわけではない。 料理する人はどんなに頑張ってもリレーでいうところのアンカーにしかなれない。食材を作った人を始め、色んな人のストーリーを背負って私の元まで来てくれた食材を児童や生徒というゴールにいかに美味しく正しい(栄養)給与量でストーリーを伝えられるかにかかってる。 と実習先で先生に言われてなんか違うよなと思ったが言語化できず、ずっと頭の中にモヤモヤと先生の言葉が居座っていた。 実際食べてもらうって難しいことだ。相手に美味しそうだな、食