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合わせなくていい

よし、言えた。

社会人になって4年目の夏が終わろうとしているその日、意を決して上司に伝えました。

「どうしても、この会社を辞めたいです」

大学生のとき、エントリーシートを書くのは得意でした。色々な会社を見てみたいのと、内定が出るか心配なこともあって、本当に100社以上にエントリーシートを書きました。

まだ紙媒体で提出するのが主流の時代だったこともあり、練習か本命か分からなくなるほどに、枚数を重ねた覚えがあります。

その中で、ようやく内定がもらえた会社は誰もが名前を知っているような物流会社でした。

入ってみれば体育会系の、バリバリの根性論で毎日回しているような、あれ?昭和に戻ったか、というくらい古びた社風の会社でした。(今は違うと思います)

当然、元気のいい若者はいいように使われて、それが教育だとか伝統だとか言われて、当時は言葉が無かった「ブラック企業」の姿そのままに働いていました。年休が使えないし、普通の休日も少なくなるのに、出勤簿上はきちんと週休二日というのを手書きしていたのだから闇が深い。

このままじゃダメだ、と思っていたら初めてのギックリ腰的なものに襲われ、1週間動けなくなってしまったのです。

もうだめだ。会社に殺されてしまう。死にたくない。

社内の人は、全般的にいいひとが多くて、時々狂ったように怒るおじさんたちがいて、なかでも所長だった人の存在が大きく、印象に残る人物でした。(打ち明けたのとは別の人)

ナントカ空手の有段者で、世界でも有数のランカーであるという彼は、怒るととてつもなく怖かったのです。当時、僕の上にはもう一人係長がいましたが、その係長が絵に描いたようなポンコツで、ふつう僕は他人をポンコツだなんて思わないのだけど、わかり易く書くとしたらポンコツとしか言いようがないくらいに仕事ができない。

その係長がしくじるたびに、怒号が飛び、社内の雰囲気は劇的に悪くなりました。しりぬぐいに、当時新入社員だった僕が飛び出していって、相手に謝りに行くのです。電話よりもメールよりも、直接会って頭を下げて、話しを聞いて対応する。顔立ちが年齢よりも上に見えることもあり、新入社員の初々しさを隠して(たぶん初めからない)、仕事が出来る風の若者を装いながら、謝り続けたのです。

もう係長に手を出させない方が、トラブルが減るのではないか・・と考えるのは当然の流れでした。実際に、自分で処理するようになったら、忙しいタイミングで怒りの電話が入るといったことが無くなり、でも自分はどんどん忙しくなって、毎日普通の時間に帰れなくなってしまったのです。ホームで立ったまま寝てしまい、終電を逃したことが何度もありました。

どの事務所も同じもんかと思って同期に話してみると、全然違っていて、上司に恵まれてないのかと思っていました。

その怖い上司が怒ると、口癖のように「頭が悪いやつしかいないんだから、息してる間は働けよ」と怒鳴り立てました。

我慢していれば、異動してしまう人間関係だけれど、こういう人間を野放しというか、寧ろ迎合している会社にこそ問題があるのではないかと思い、その上司が異動したら辞めようと決めたのです。

転職したい、というよりも会社に合っていないから、まずは会社を辞めたい、誰にも相談しないまま考えを深めていきました。

意思を告げた日から、電話やメール、会議が終わったあとなど、何人か声をかけてくれました。中には懸命に慰留してくれる方もいて、なぜか謝られたりしました。

そうじゃない、あなたが悪いのではなくて、僕にはこの会社が合っていなかったのです。

いよいよ会社を辞める日になって、怖かった所長から電話がありました。

「オレの時には辞められなかったよな。でも、新入社員にしては優秀な部下だった。それは間違いないから、がんばれよ。」

ため息に似た思いが口から溢れてしまいました。それを隠すように、「あぁ、りがとうございます」と答えるのが精一杯だったのです。

会社をやめた日、父からは「3年か。5年分くらい働いたんじゃないか、おつかれさま。大変だったね。」と言ってもらえました。自身の定年よりも先に、会社を辞めるという親不孝な子を笑い飛ばしてくれたのです。

後年、"リーマンショック"と名のつく不況が日本に暗い影を落としたあのとき、僕は無職でした。


#8月31日の夜に

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