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沖縄の涙(なだ)の木、うむまあぎー

 沖縄本島北部、今帰仁の今泊にある県指定天然記念物のコバテイシの古木を撮影しに那覇から出かけた。沖縄の詩人山之口獏が詩に書いている謎の木『うむまあ木』に長年なぜか引っかかっている私としては、この古木はどうしても一度は見ておかなければならないものだった。
 傍から見ればどうでもいいことなのだろうが、最近若干ではあるが現実逃避的傾向の出てきたヒンスー(貧乏)シンガーソングライターの私にとっては、普段自然との触れ合いがない分ストレス発散には効果的だし、それに何よりも安価だ(※見るだけならタダ!)。
 それにもう一つ理由があって、コバテイシにこだわるのば、山之口獏がその詩で書いているうむまあ木が、コバテイシであるかどうかと言う疑念があったからだ。この古木を見に行けばその疑念が解けるかもしれない、と実に安直な考えだった。
 しかし、どうでもいいと言えば確かにどうでもいいこのささやかな疑念を明かにするためなら、私は沖縄本島はもちろん離島にでも何だったらニライカナイにでも行くつもりであった(※帰ってこれるなら)。
 参考に次の詩をご覧いただきたい。

(略)
 琉球には うむまあ木といふ木がある
 木としての器量はよくないが詩人みたいな木なんだ
 いつも墓場に立つてゐて
 そこに來ては泣きくづれる
 かなしい聲や涙で育つといふ
 うむまあ木といふ風變りな木もある
     (山之口獏『世はさまざま』より)

 かなしい声や涙で育つ…。これを読んであなたは胸が締め付けられる思いがしないだろうか。サラリと書いているが、この詩人の一言がやられたことはないけれど強烈なハンマーの一撃のように私を打ちのめしたのだ。
 「いつも墓場に立っていて」
 ということでお墓に利用されることの多い立木として、うむまあ木はコバテイシ(方言でクワ—ディーサー、和名をモモタマナ)である可能性が高い。ところがコバテイシのことは知っていてもうむまあ木のことを直接的に知る人が、本島南部と北部で聞いた限りでは今のところ一人としていないのである。
 知っている人はいつも、山之口獏の詩を通して間接的にしか知らない。いったい詩に出てくる木はどこにあるのだろう?ごの木は、実は山之口獏の創作した木なのではないか?と私は疑いを持ったほどだ。これこそ謎だ。
 
 那覇から途中沖縄そばを食べる時間を入れて、およそ1時間半。高速に乗って渋滞に悩まされることなく、スムーズに今泊までやってきた。連れの者が先ほど食べた沖縄そばが不味かったとブーブー言っている。なんでも、あれはほぼラーメンだということで、大和風こだわり麺がお気に召さなかったらしい。今頃言っても遅いって、と内心呟く私。
 でも確かに麺が沖縄そばの概念からかけ離れていたなあ、と思いはする。これも最近の風潮だから美味しくないなら食べに行かなければいいだけの話で、多様性ということで致し方ないか。しかしこうやって本物がどんどん消えていくんだろうなあ、まあ結果として美味しければいいんだけど、などととしみじみ…。
 さて、今泊の目的の公民館はと。ちょい昔なら目的地を探して右往左往するところであるが、今はスマホのナビ情報という仕組みはよくわからないけど結果は重宝します、という不思議な魔法の道具があるので難なく目的地に到着。
 でもあっけなく着きすぎて逆に不満が残る。以前は目的地を探し回ることによって、周辺の様子とかを自然と掴むことができたのに、今は一直線で到着するものだから情報が点になってしまう。情報量が多いようで結局少ないのだ。これは贅沢な悩みか。
 ともかく公民館に着いた。目的のコバテイシ=うむまあ木も目の前にある。葉と同色の実が葉の間にいっぱいついている、思ったより老木で木の根元が枯れて腐ってぽっかり穴の開いた状態になっている。本当に七歳児がすっぽり入るくらいのがらんどうの状態で、かろうじて皮一枚でどうにか上部と繋がっているという感じなのである。一部コンクリートで内部から補強をしてある。これでよく葉に養分を送れるなと思うくらいだ。

県指定天然記念物今泊のコバテイシ

 公民館の職員の方に話を聞くと(※取材したつもり)、
 「この木は地域の人からはフパルシという名前で呼ばれているんですよ。うむまあ木なんて聞いたことがないですね」
 とのことだった。祭りの日や行事の時などには、このフパルシの前で踊ったり催し物をしたりするそうだ。この木がこの地域の文化の中心であることがわかった。
 うろおぼえだが、古くは『は』行は『ぱ』行だったと聞いたことがある。そうすると、フパルシはコバテイシやうむまあ木よりも古い呼び名ということになる。間違っていたらごめんなさいだけど。
 十八世紀に編纂された歴史書『球陽』には『枯葉手樹』という記述が見られる。それより古く十六世紀から十七世紀にかけて編纂された沖縄の古謡集『おもろそうし』には『てし』として記述されている。とするとコバテイシはもとを辿れば『枯葉(こば)手樹』となり、さらに辿れば『古葉(ふぱ)るし』となりはしないか…。そう簡単に解釈されたら誰も苦労しないけど。
 十分写真を撮ったので帰り路についた。
 これが調査なんかい!
 と我ながら大した収穫のない取材に情けない気持ちを抱きつつ車を走らせていると、途中拝所兼公園のような小さな一画を見つけた。そこにも立派なうむまあ木の木が一本そびえ立っていたのでこれも撮影した。鬱蒼とした葉を茂らせたうむまあ木のある神聖な場所でありながら、子供たちの遊ぶ公園をも兼ねているという、いかにも日常に浸食された田舎の小さな公園だった。
 さきほど食べた沖縄そばのことを思い出した。これもあの沖縄そばと同じように次第に昔の形を失って、やがて新しい形を取っていくか、あるいは完全に消去されていくのだろうな、と無責任な通過者の感傷を抱いたりした。
 だったらお前がなんとかしろよって?。

 海洋博公園にもうむまあ木がたくさん植えてあるとのことだったので、これも途中寄り道して撮らせていただいた。しかし職員の方にうむまあ木について聞いたところ、そのような木は知らないとのことだった。やはりそうか。でもおかしい。 

爽やかな木陰を作るコバテイシ


 しかしそもそもうむまあ木って、いったいどんな意味があるのだろう?
 私の乏しい沖縄語の知識を絞っていうと、「うむ」は「思う」「願う」で、「うむまー」は「思う人」、すなわち「うむまあぎー」は、「思い人の木」「願い人の木」と単純に訳せられると思う。
 ところで、ここまで引っ張っておいてなんだが、いきなり結論を言わせてもらうと、このうむまあ木がコバテイシであるのは実は明らかである。そのヒントは山之口獏の詩に隠されている。すなわち、彼の詩から、

 ①お墓によく立っている木であること。
 ②悲しい声や涙を受け取って育つ木であること。

 この二点がポイントであることがわかる。②はもちろん比喩的な意味だ。まずお墓によく立っている木ということで調べてみると、前述のようにコバテイシがまず第一の候補に、続いてガジュマル、ソウシジュ、テリハボクなどがあげられる。しかし、なんといってもお墓と言えばコバテイシが多く利用されている。
 コバテイシは家の前に植えるのは不吉と言って嫌がられることもあるようだ。
 次いで悲しい声や涙で育つ、ということ。これもお墓によく立っているという事から説明できる。しかしそればかりではない。これは、葉が紅葉し、枯れて散ることの比喩ではないだろうか。
 なぜなら、涙は塩を含んでいる。塩を含んだ水を吸うと葉はすぐ枯れてしまう。ゆえに「かなしい聲や涙で育つ」というのは、紅葉しやがて枯れて葉を散らす、ということと同じではないか?
 紅葉し葉を散らすのは落葉樹である。ガジュマル、ソウシジュ、テリハボクは高木常緑樹である。コバテイシだけが、高木落葉樹なのだ。
 するとうむまあ木とは必然的にコバテイシのこととなる。

 しかし沖縄の人はなぜうむまあ木という悲しい名前の木を創造したのだろう?この木の成り立ちはいったいどういうものなのか?
 私なりに思うのであるが、むかし島の人たちは、今の生活からは考えられないほどの貧しい生活をしていた。毎年島を襲う台風や干ばつ、課せられる重い年貢に餓死者もでるほどだったという。西欧や日本のように神像や仏像のような祈りを捧げる対象もなく、苦しい思いや悲しみをうむまあ木という名の裸の木一本に託すことで精神的、物理的危機を乗り越えなければならなかった。そしてうむまあ木は、それらを受け取った証として紅葉し葉を散らしたのだ。
 
 うむまあ木の葉は、大人の手のひらほどのサイズである。その葉が重なることで、沖縄の暑い日差しから人々を守る日除けとなる。たとえば本島南部にある平和祈念公園のうむまあ木は、戦没者の名を刻んだ二百基あまりの石碑に覆いかぶさるようにして、参拝客に爽やかな木陰を作ってくれている。参拝客はうむまあ木に守られるようにして、石碑に祈りをささげているのだ。

沖縄県平和祈念公園平和の礎


 うむまあ木という呼び名については、いずれ、どこかの地域で呼ばれていた名前として明らかにされるかもしれない。あるいは一部で言われている、んまぎー、うむやあぎー等という類似した呼び名に変わってくるかもしれない。
 いずれにせよ、うむまあ木は涙(なだ)の木だ。そこにはもっと隠された意味や歴史があるに違いない。そのことを忘れてうむまあ木が涙の木からただのコバテイシになったとき、私たちは大切な何かを失うことになるだろう。それはどうでもいい取るに足らないものに思えるかもしれないけれど、そこには間違いなく祖先たちの息遣い、血の通った体温が感じられる。たとえその名前が悲惨な過去を思い出させるため、意識的に消し去られようとされたものであったとしても。