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リンゴの皮【小説】


 りんごの皮をむく。半分は昨日食べていた。手に持っているりんごはラップにくるまれ冷蔵庫で眠っていたため、みずみずしさは損なわれていなかった。半分のりんごをその半分に切った。まっぷたつに割れたりんごが左の掌の上で左右に傾き、その内側を見せる。実の表面の白さは掌に隠された昨日の表面とは違って見えた。

 靖子は白い皿にほんのり黄色い実を四切れ並べてキッチンのテーブルに置いた。食器棚の引き出しから取り出したフォークを突き刺し口に運ぶ。

 仕事をしようと思い立ってから二ヵ月が過ぎようとしていた。すでに三度の面接に出かけたが雇ってもらえなかった。

 どうせ働くのなら接客業にしよう。色々な人を見てみたい。できれば多くの人と話をしたい。正社員でなくても構わない。アルバイトで十分だった。花屋、輸入雑貨屋、ケーキ屋もいいかも知れないと勢い込んだが手に取った求人誌には望むような募集はほとんどなかった。

 ホテルの結婚式場のアシスタント、歯科医院の受付、小さな経理会社の事務。

 二件は郵送で履歴書が返送されてきて、一件は留守番電話に不採用のメッセージが録音されていた。

 靖子がりんごの最後の一切れに手を伸ばした時、別の皿においてある
りんごの皮をいつの間にか起きてきたヒロシが食べ始めた。

「皮だけを食べるって変ね」

 靖子の言葉に首をかしげる。そもそも彼の本当の名前は知らない。ただ思い浮かんだ名前がヒロシだっただけだが、彼も嫌がる様子はない。

 ヒロシとは昨日出合ったばかりだ。

 

 昨日の昼前、駅から取ってきた新しい無料求人雑誌を広げてみると靖子を不採用にしたホテルの募集がまだ掲載されていた。そのまま、丸めた求人雑誌をゴミ箱に投げて捨てた。

 半分しか食べられなかったりんごにラップをかけて冷蔵庫に入れてから玄関へ向かった。春先に履こうと買っていたショートブーツを取り出して
足を入れたが、左足の踵が引っかかり上手く入らない。普段は使わない靴箆を使い押し込んだ。勢いをつけてドアを開けた。

 目的はなかったが、家の中で過ごす気がしなかった。

 長男は四年前に親に相談もせずに地方の大学に特待生として入学し、今年その土地の銀行に入社した。四年間で家に帰ってきたのはほんの数回だけだった。二歳違いの次男は家から二時間かけて大学に通っていたが、大学の近くでアルバイトをしたいと言い出し、三回生になると同時に、卒業した先輩が住んでいたアパートを家具つきのまま引き継ぐと言って出て行った。夫は中国へ単身赴任中だ。三年の期間といわれていたがもう五年にもなる。

 ひとりになった家で同じ時間に目覚める。ひとり分の洗濯をして、ひとり分の食事を作る。埃は見えなくても掃除機はかける。それでも午後には気持ちが萎えてしまう。

 家族がばらばらになり、ひとり家に残ったのは靖子だったが、家庭から放り出された気持ちになっていた。

 普段はバスに乗る道を歩いた。薄いグレーの春コートに首に巻いたオレンジ色の花柄のストールが丁度いい気候だった。

 靖子たちが家を購入したころ見えていた山は住宅地として侵食されて今は見る影もない。

 自宅近くのバス停を通り過ぎ、比較的短い間隔で設置されている次の停留所でバスに乗ろうと決めて歩き始めたとき、右手の住宅地の端に少し小高くなっているオレンジ色の屋根を見つけた。あきらかに他の家とは違う雰囲気を放っている。

 靖子は屋根のある方向へ路地を一本中に入り込み進んだ。十分も歩かないうちにそれはすぐに見つかった。セイヨウナンテンの木で囲まれた庭の奥にこぢんまりとした店が見えた。道路を一つ挟んで向かい側には専用の駐車場も用意されていた。

 建物の壁は、クリーム色で土を重ね塗りしたような自然の風情をかもし出していた。こげ茶色の木枠には中の様子が歪んで見えるような手作り風のガラスがはめ込まれている。

 庭には、白い丸いテーブルと、金属で出来たこれも白い椅子が四セット用意されている。

 蔓性の植物がまとわりついているアーチの前に靖子は立った。

 一定区画の住宅地に駐車場の分だけ光がたくさん当たりオレンジの屋根を浮かび上がらせていた。

 透明な風が流れている。

 靖子はこの店を見たことがあったが入った記憶はない。何処で見たのかが思い出せず、頭の片隅にモヤを置いたまま足を進めた。

 アーチの内側には小さな焼き板に白く浮き出たペンキで「カフェ ビエント」と記されていた。庭から続く敷石はミントグリーンで彩られドアに辿り着いている。ドアの前には数種類の花が寄せ植えされていた。その寄せ植えの横に手書きの求人の張り紙が遠慮がちに置かれていた。それは見落とされても仕方ないような存在だった。

 ドアを開けると、窓から差し込む優しい日差しがくつろぎの雰囲気を作っていた。

 靖子は店内の空気を吸ったとたん、この場面を思い出した。

 先日、自宅のポストに投函されたタウン誌に紹介の記事を掲載していたカフェである。評判の店で食べ歩きを専門とするブログでも人気急上昇中だと書かれていた。

「いらっしゃいませ」

 透き通った声が迎えてくれた。

 白のブラウスに黒いジャンパースカートの上から白いエプロンをつけているウエイトレスが空いているテーブルへ案内しようと出迎えてくれる。頭の後ろを高めに、一つにまとめているポニーテールの髪がテンポよく弾んでいる。小花柄のシュシュがシックな制服に合っていた。

 店内は満席ではなかったが多くの客がいた。幾人かでテーブルを囲んでいて、ひとりだけで食事をしている客はいなかった。

 入り口より右側は大きなガラス窓から入り込む陽の光を受けて、店の内側と外側の境界が混ざり合わさって見えた。その左側に白いタイルから一線を引くように黒い木材の三段の階段があり、そこから板張りのフロアーになっていた。無垢材の長方形のテーブルと、木で作られた椅子が置かれている。階段上段に観葉植物があり、そこから奥に影の空間を作り上げるために太陽の光を全て吸収しているように見える。その木はオレンジ色の植木鉢から幾本もの枝を無造作にのばしていて、枝の先には縁取りのある緑の細い葉が競い合うように、さらに先へとのびる。

 靖子からは少し遠い場所にあるが、先日行ったホームセンターの園芸コーナーで見かけた植物と同じものだとわかった。「ソングオブインディアン」という名前は「歌い踊っているかのようにごきげんに枝を曲げながら元気に成長します」と店員からのメッセージカードが添えられていたのでよく覚えている。

 微笑ましいメッセージを思い出し、靖子の気持ちは高まった。

 先に歩くウエイトレスの背中に声をかけた。

「求人の紙を見たのですが」

 少しのタイミングがずれて、ウエイトレスが振り向いた。彼女は少し口を開けかけたがそれを閉じた。それから、靖子のいたところまで戻って「こちらへ」と、案内しようとしていた方とは反対の方向に手を差し出した。その先は淡いグリーンのパステルカラーの布で仕切られていて客からの目隠しとなっていた。ウエイトレスはキッチンの向かいに置かれたテーブルの椅子に座るように靖子に促したあと、キッチンの奥へと入って行った。

 数分後、黒いスーツを着た若い男が靖子の向かい側に立った。

 お待たせしましたと静かな声で頭を下げた。男は立ったままで椅子に座ろうとはしない。

「求人の案内を見てこられたと聞きましたが……」

 靖子も椅子を後ろに引いて立ち上がった。

「はい、入り口に置いてあった紙を偶然に見ました。突然だとは思ったのですが、まだお決まりで無ければと思いまして」

「申し訳ございませんが、今回募集しているのはホールの仕事で、キッチンのほうではないんです」

「キッチン?」

 靖子は難しい言葉ではない説明なのに、男の言いたいことが理解できず問い返していた。

「はい、キッチンは足りていますが、ホールのほうの手が足りなくなりまして」そういって男は店内の客がいるほうに掌を差し出した。

「ウエイトレスさんの仕事はないのでしょうか」靖子は答える。

 男の目が一瞬開いた。

「それは、申し訳ありませんでした。もう少々お待ち下さい」

 男は奥に入り、すぐに出てきた。

「大変失礼いたしました。こちらの紙にお名前と連絡先をお書き下さい。後ほどご連絡いたします」

 差し出された白紙の紙に一緒に渡された黒のボールペンで名前と家の電話番号を記入した。

 男に珈琲でもいかがですかといわれたが、辞退し、店を後にした。

 アルバイトの申込をしにきた女に、できすぎというほどの丁寧な対応に、さすがに人気のある店だと感心するが店を出た後も違和感が残り胸の中につかえるものがあった。

 バス道に戻りそのまま歩き出した後も頭の中で何が引っかかるのかを探り当てようとしていた。次のバス停を通り過ぎたことにも気づかなかった。

―オバサン、しけた顔してるね

 靖子は自分の横に擦り寄ってきた彼に驚き、初めて自分のことだと分かった。靖子は無言で足を運んだ。

―まぁ、まず採用は無理だな

 靖子の足が止まる。

―あなた、私をつけてきたの?

 今度は相手が無言で足を運ぶ。

―オバサン何歳だよ

―あなたになんか教えない

―大体分かるけどね

―それなら聞かないで

―ああいうところは若い子じゃないとね。それくらい分かれよ

 靖子は足を止めた。店の男がホールと言って客席のほうを指し示したのはウエイトレスの仕事のことだと今更のように気づいた。

 靖子を見てキッチンは要らないホールが要るのだと説明したというのだ。最初からウエイトレスとしては使えないということだったのかと分かると胸のつかえていたものが降りた気がした。

 店の男は、勤務時間や時間給の説明など一切しなかった。ものの三分ほどで不採用と決まってしまったのだ。

 別の塊が心の中に出来上がっていた。

―私にだってあれくらいのことは出来るわ

―それでも見た目は大事さ

―若い子じゃなきゃ、仕事は出来ないってことなの?

―仕事を選ばなきゃあるんじゃないの

―なんで選んじゃだめなのよ

―あんた、働いたことあるのかよ

―ある

 靖子は短く答えた。

 時代が違うとはいえ、大学へ入ってはじめてのアルバイトはすぐに決まった。 

 靖子は、小学三年から有名進学塾へ通い、地域の中でも上位の進学高校へ入学し、有名私立大学の難関をストレートで突破した。受験勉強が終わり、両親の期待からの開放。あこがれていた一人暮らしも始まり、アルバイトも始めた。靖子が住む学生マンションの最寄り駅近くのチェーン店の居酒屋だった。同じ店で同じ大学の四回生の男と出合った。大学に入るのに一年を余分に費やしていたので四歳違いとなる。

 そこそこ名の知れた企業に内定を貰っていた男の卒業式を、一ヶ月後に控えた二月のはじめに靖子の妊娠が分かった。靖子は十九になったばかりだった。お互い結婚を考えての付き合いではなく、成り行きの恋人同士といったほうが正しかったかも知れない。

 それでも、芽生えてしまった命を処分するにはエゴの強さというものが足りなかった。成り行きの付き合いが、成り行きの結婚となったのだ。靖子は大学を辞めた。未練はなかった。子供の頃から靖子の目的は有名大学に入学することだったのだから。

 靖子の両親は自分達の期待を短期間で壊した娘を罵った。地方の小さな町ではちょっと評判になった有名大学に通う自慢の娘に、二度と帰ってくるなと言い放った。

 夫の両親にしてもしぶしぶ認めた結婚だったが、当初の生活の援助はしてもらった。それ以来、靖子は家庭に入り子育てに専念してきたのだ。

―あんたには、雇われてやるよって匂いがぷんぷんしている

―あんたとか、オバサンとか言わないで

―靖子さん。なんでアルバイト探しをしているんだよ

―ひとりになったから

―気楽じゃないか

―ひとりだったら話しをしないの。一日中誰とも口をきかない日があるのよ

―俺だったら平気だね

―私は嫌になった

 友達を作るのは得意なほうではなかった。それは勉強に集中することに役立ったのではないか。今考えれば、お気楽な性格の夫から声を掛けられなければ、誰とも結婚せずに過ごしていたかも知れない。それでも、ひとりになってしまったら苦痛がじわりと寄ってきた。

 次男が大学へ入学した年に夫の赴任先である上海に子供と三人で行った。空港についてから、他国の言葉が無遠慮に靖子の耳にねじ込まれてきた。秩序のない渋滞で車が動けずにいる中で、ライトアップされた高速道路が決して目的地に着くことのない闇に繋がっているように見えた。夫は、会社からマンションを用意してもらっていたが、家族にはホテルの部屋を取っていてくれた。ホテルは庭こそ無かったが、外観も部屋の中も綺麗で不満はなかった。ただ、朝食のバイキングで用意された珈琲の薄さには辟易した。

 古都のような観光地、競い合うようにネオンで建物を飾り立てた夜景、
東京の物価に負けない高価な商品を取り揃えている洋風な街並みを作り出しているショッピングストリート。博物館に雑技団、何処に連れて行かれても、青空が見えない。かといって雲が浮かんでいるわけでもない。ただ、薄汚れた白い空があるだけだった。一週間の予定を三日で切り上げて帰国した。

 結局、夫が住む部屋には案内されなかった。どんな生活をしているのかも知らないままだ。  

 赴任から四年が過ぎたときに、帰してもらえるように会社に頼んでみてはどうかと提案すると、「子供も大きくなったのだから、お前がこっちに来ればいいじゃないか」と言われた。

 夫の言葉は、靖子が中国に来ることはないと確信していると、その時に感じた。女がいるのではと思ったが口には出さなかった。

―俺があんたの子供になってやるよ

―もう、子育ては十分よ

 子育てには力を使い果たした。

 長男が生まれたとき、夫は新入社員だったし、子育てに協力して欲しいと頼むことなんてできなかった。いくら父親だからといっても、周りに合わせて遊びたくてたまらない時期だった。

 自分だけを信頼している子供の眼が靖子を社会人にしてくれた。助けを求めることが出来ない両親のおかげかも知れない。二人の子供を育てることが靖子の課題になったのだ。

 長男は靖子に手をかけさせることなく育った。若い母親にはできすぎの子供だった。

 物静かだった彼は、自分達の人生が変わってしまった原因だという両親の視線に気付いていたかもしれない。誰も口に出したことはなかった。靖子の考え過ぎかも知れない。だが、長男が私たちを見捨てたのも当然だと思う気持ちが、家に寄り付かない長男に声をかけることも出来なくなっていた。

 靖子は、夫の帰りがいくら遅くなっても文句は言わなかった。夫も靖子のつたない家事に文句を言わなかった。靖子と夫、二人の背中には、いつもお互いへの後ろめたさが乗っかっているように思えた。

―なんでも好きなことやってやるよ

―好きなことなんてない

―じゃ、慰めてやるよ

 彼は靖子にすりよってきた。靖子は避けようとして躓いてしまった。

―誰があんたになんか

―俺、そういうの上手いんだ

―馬鹿なこと言わないで

 フフッと笑い声が聞こえた気がしたが、靖子は黙って歩き続けた。

 冷たい風が靖子の髪の毛を揺らした。スカーフを首に添うように巻きなおして空を見上げた。ねずみ色の分厚い雲が西のほうから流れてきている。立ち止まった。

 バスに乗ろうと考えていたことも忘れていた。バス停を通り越していたと気づいた。
 家に帰ろう。靖子は向きを変えた。反対側の道に渡ってからバスに乗ろうかと考えたが止めてそのまま歩き出した。

 もう少し彼と一緒に歩きたかった。靖子が方向転換をすると彼も向きを変えた。自分の中にほっとした気持ちがあったことを確認した。道路には石ころがあり、所どころにヨモギが群生していた。

 二つのバス停を通り過ぎたところで、オレンジ色の屋根が見えた。

「いらっしゃいませ」といったウエイトレスの透明な声と、陽だまりのような店内を思い出したが、不快な気持ちにはなからなかった。ついでに、求人情報誌に出ていたホテルの案内も思い出してみたが同じだった。どちらもずっと前のことのように感じた。

 横を歩く彼には、靖子の気持ちを癒す力があるのかも知れない。そっと顔を覗いてみたが相変わらず何も考えてなさそうに見える。歩幅を大きくして早く歩いてみたが慌てた様子も見せず自分に寄り添っている。少しわくわくしてきた。こんな思いをいつか味わったことがあっただろうか。

 やっと自宅に辿り着いたころ、靖子の足は疲れて硬くなっているようだった。今日のように長距離を歩いたのは久々だ。

 玄関の鍵を回しドアを開けた。彼は、私より先に家の中にするりと入り込んだ。靖子は怒らなかった。

 春先とはいえ、誰もいなかった家は少し肌寒い。ガスファンヒーターを十九度に設定してつけた。すぐに温風は流れ出し、彼はその前に座った。

 靖子は、ソファに座ってひざ掛けをかけた。

 いつの間にか寝ていたようだ。暗くなった部屋に灯りをつけてリビングのカーテンを閉めた。彼はストーブの前で丸くなってまだ寝ている。自分にかけていたひざ掛けをそっと上からかけた。

 靖子がシャワーを浴びて出てくると、彼はやっと目覚めたようでまだ眠たそうな顔をしていた。

―いい家じゃないか

―そうね、でもひとりでは広いわ

―住み心地は悪くなさそうだ

―あなたの名前聞いてなかったわ

―名前なんてしらないね

―そうね、出会う前の名前は必要ないわね

―どうでもいいや

―でも、名前がなかったら不便といえば不便だから、私が名前をつけてあげる。何を考えているか分からないようなあなたに簡単明瞭な名前よ。
ヒロシ

 以前テレビの中で、ポケットに両手を突っ込み、斜めにとった立ち位地から上目遣いで「ヒロシです」と名乗ってから自虐ネタをぼそぼそ話す。そんなお笑いタレントを思い出したからだ。

 彼は靖子のつけた名前には何も答えずに立ち上がって部屋を出て行った。家の様子を見て回っているのだろう。止める気は無かった。好きにすればいい。

 この家で自分以外の存在を感じて、靖子は久しぶりに呼吸をしていることを自覚した。

 昔、家族四人が囲んでいたテーブルを見た。夫の横が長男、その前が靖子、その横に次男。いつも陽気な次男が口から食べ物を飛ばしながら喋り続けていた。夫がいなくなり、そして長男の席も空いた。次男は目の前の人物がいなくなっても喋り続けた。今、靖子は自分の席に座りテーブルの片隅だけを使っている。

 ヒロシが戻ってきた。

―何処もかしこも片付きすぎて面白くないや

―私だけだから散らかることも汚れることもないわ

―なんにもしないのかよ

―しなければならないことはすぐに終わっちゃうの

―後は昼寝か?

―昼寝なんて出来ないわよ

―なんで? することないんなら昼寝だろう

―音が聞こえるのよ

 一通りの家事をこなすと、それまで、わずかだが靖子の周りでかすかについて回った音がなくなり静寂が訪れる。それは靖子を囲む箱の中だけのものだった。

 他人の生活が家族を送り出す時間だけ、靖子の家よりも遅れて、それらの音は聞こえ始める。掃除機をかけている。洗濯物を干している。ごみの収集車がごみを回収していく。家の前の道路にほうきをかけるおばさま方の立ち話の声。たまに自転車が通り過ぎ、郵便物を運ぶバイクが止まってはまた走り出す。子供たちが幼稚園から帰ってきて、小学生が友達とふざけながら戻ってくる。

 靖子が一日のうちで耳にする音は家の外から聞こえる他人の生活音がその大部分を占めるようになった。

―昼寝なんて出来ない

 靖子は繰り返す。

―他人の音を聞くのが嫌なら自分で音を出せばいいんだ

―なに言ってるの。へんなこと言わないで

―単純だ、そうやって他人のことばかり考えるから面倒なんだ。そうだろ、他人と比べて自分はかわいそうだなんて思っているからいじけるんだ

―いじけてなんかいない

―他人の音が気になって昼寝も出来ないじゃないか

 言い当てられた。

―わかってる

 靖子はつぶやくように言った。

 自分の家からは発することのない音を聞きながら、この箱の中にいてはいけないような思いをいだき始めていた。そんな音を気にする自分から抜け出すために仕事を探し始めたのだ。

―生きてりゃ色々あるんだよ

―今のわたしには何にもないから、だから何かを始めたいのよ

―何にもないのも「色々」のなかに入ってるんだよ

 片付けられたリビングを見回した。生活の音どころか、生活の匂いもしない写真のように思えた。家族がいなくなって色が消えるのは当然だと思っていた。モノクロの中で他人の色をうらやんでいたのかもしれない。

 長男が座っていた椅子に移ったヒロシが斜めに構えて見つめている。

 靖子には自分の顔が緩んでいくのがわかった。

 自分に与えられた自由をうまく受け入れることが出来なかったことを見破られた。

 大学に受かったとき、両親からの開放にどうやって暮らしていいのかわからなかった。その頃のように、少し戸惑っていただけだ。社会人生活もなく家庭に入ったことで、周りと比べながら、自分の位置を確かめていた。

 ひとりになって、息をすることにも遠慮している自分に嫌気が差したのではないか。

 生活の変化に上手く順応できずにいじけた顔になっていたかも知れない。

 私に何が出来るだろうか。そもそも自分がどのような人間なのかということさえ掴みきれていない。

 私は四十を過ぎたばかり、職歴は無いけど、子供を育ててきた。家庭だって壊してはいない。自分の意志がどれほど有ったかはわからないが受験もくぐり抜けてきた。

 今現在の自分を見つめなおすことから始めよう。

 人生二度目の開放だと考えるように言い聞かせた。

 靖子とヒロシは、しばらく、会話もせず静かな時間を過ごした。隣の家から「ただいま」という声とドアの閉まる音が聞こえた。靖子は簡単な食事を用意した。ひとりきりではない夕食を済ませ。早々に寝ることにした。今日はたくさんの距離を歩いて疲れていたからだ。

 ヒロシのための寝床は用意しなかった。彼は靖子についてきた。

 靖子は先に布団に入り、掛け布団を開けた。彼はここでもするりと身を滑らせて入ってきた。

 冷えていた足の指先が温かかった。心が満たされ体が溶けていくようだった。

 そして今朝、靖子はいつもどおりに目覚めたが、彼はそのまま布団のなかへ残っていた。

 リビングのカーテンを両手で引いた。

 昨日と今日と、やることはほとんど変わらない。

 靖子は出来るだけ音を立てないようにしたつもりだったが、ヒロシが近くに寄ってきていたことに気付かなかった。今までもこの家の住人だったように、これからもこの家の住人であるように。

 ヒロシがいることが自然だった。

 

 りんごの皮に満足したのか、ヒロシはソファにあがって背伸びをしている。首筋が痒いのだろう。後ろ足を器用に使いカッカッカッと音が聞こえるかのようにかいている。それから、前足を舐めては耳から鼻へと振り下ろし顔を洗う。最後に首をねじり背中を舐めたあと、両腕で顔を隠すように丸まってまた寝始めた。

 靖子も両腕を上に伸ばして指を組んでからつま先を上げて背伸びをした。残り一個のりんごを口の中に放り込んでから、求人雑誌をめくる。今日は二箇所に折り目を入れた。

 

 

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