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「誰をバスから降ろすか」に直面したこと

noteに前回文章を投稿したことによって、同じキーワードから同じ言葉について記事を書いてる方の投稿がいくつも目に入るようになりました。なるほど、Google先生が教えてくれるよりも、あの言葉はとてもメジャーな言葉だったことが分かりました。

考えたことをnoteに投下したことによって知見が広がった。行動してみるって大切なんだなーと改めて感じました。ベッドの中で引きこもりながらの気付き。


さて、「誰バス問題」というテーマで書かれた文章をいくつか読んで、その中でも地雷のように?扱われていたのが「誰をバスから降ろすか」という問題のようでした。地雷というのは大袈裟で、単に日本の雇用契約の中で解雇は難しいからなかなかうまくいかないよねって話なだけですが、私がなぜここまでダメージを受けたのかというと、まさにこの「誰をバスから降ろすか」問題に対峙したからだと気が付きました。


現実としては私もバスから降ろされた(降りた)身なのですが、そこに至る経緯として、バスから降ろされた同僚を目の当たりにしたことで、その選択の非情さと強引さに納得ができなかったからでした。共に働いてきた仲間が、その者なりの誠意や熱意で取り組んできたという事実を脇に置いて、情け容赦なく強引にバスから降ろす姿に共感性の高い私は参ってしまったというのが経緯かと思います。その経営側の判断に賛同できない者は、バスに乗る資格無しという空気感が漂ったのが、1番のダメージを感じたポイントかと気が付きました。

経営側としては、恐らく正しい判断なのかも知れません。「誰バス理論」に則れば、企業が成長していく上で同じ空気感で気持ちのすれ違いがなく共に過ごせる仲間だけで集まった方がいいのだから。しかし、もしかしたら日本人独特の感覚?とも思える、ヒソヒソ話と空気感が作る「あいつが間違い」という村八分の雰囲気、これをもってバスから降りる、降りた後もそうなってしまう感覚、これに恐怖を感じました。

どなたかの記事に、「誰バス理論でバスから仲間を降ろすなら、その人がその方が幸せになれるかどうかを熟考して、確信をもって降ろすべき」と書いてありました。家族のように考え、時に自分でも降りられる環境を作る必要があると書いてあったように思います。


甘ったれたことを言いますが、その情のようなものが感じられなかったことに、ショックを受けた自分がおり、そこを社会や企業に期待した自分に改めて脇の甘さを痛感したのでした。


とはいえ、冷え込むようなあの同調圧力と空気作り、何かに似てるなと思ったら、学校のヒエラルキーといじめ問題でしたーーーーー。ヒエラルキートップの意見に同調できなかったら村八分にされる。波風立てず、うまく付き合わないとそこで生きていけない世界。生憎自分は学生時代そんな苦労をしたことはなかったですが、1人屋上で煙草を吸ってクラスにいなかったことで回避をしていたタイプで、やはり昔からこの独特の協調性は持たなかったことを思い出しました。

周りと一緒に働きたいと思ってもらえるような人物になれるか、もしこれが裏を返して協調性を持って誰かを爪弾きしなくてはいけないものだとしたら、やはり自分は以前の職場ではできなかったかもしれません。

文章にしたためたことで、自分に足りなかったもの、それでもできなかったことが見えてきました。

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