エオルゼア文芸部:読書感想文:老人と海で踊ろうぜ

読書感想文といえば小学生のころに舞姫を読んで「よくわかりませんでした」といった趣旨の内容で原稿用紙二枚埋めた記憶があります。残念ながら文芸部の企画に気が付いてから書店に行く時間が無かったので老人と海は青空文庫で読んだのですが、今回は久しぶりにそんな「よくわからん」の感情に襲われました。そう、考えてみたら僕にとって文学の感想なんて得てして「よくわからん」ものなのです。何故なら僕が好んで読む文学作品というものの本質は、僕よりよほど言葉に精通している化物たちが何千何万という言葉を費やして漸く表現するに至る「言葉ならざる何か」なわけで、感想とか言われてもわからん。というのが、そもそも読書感想として正しい解答だったような気がしてます。しかしながら、わからんものをわからんなりに考えるのも、それはそれで楽しいのではないかと思うので、今回は今回として自分なりに適当に筆を走らせてみたい次第です。

そんなわけで僕は音楽畑の人間なので、そのあたりからアプローチしたいと思います。「大ディマジオ」という野球選手は知ってる方もいるかと思いますが、これは「ジョー・ディマジオ」というメジャーリーガーで、マリリン・モンローの配偶者でもあった偉大な野球選手です。年代的な時系列が気になったので少し調べてみたのですが、老人と海が執筆されたタイミングというのは、このジョー・ディマジオの引退の前後のようですね。

なんでそんな事を知っているかというと、父親の趣味だったのか母親の趣味だったのか、はたまた兄の趣味だったのか定かではないのですが、Simon & GarfunkelのMrs. Robinsonが収録されたCDを子供の頃に家の中で拾い上げた事がありまして、歌詞の意味も分からずに、けれど軽快な音楽が楽しくて好んで聴いていたのですが、その作中に出ていたのが「ジョー・ディマジオ」だったわけです。それだけです。音楽からのアプローチとはいったい。

ともあれ、「大ディマジオ」はMrs. Robinsonの中でもそうであったように喪失されたスターの代名詞でもあったのかなと思ったりします。他人の書いた文章に意味合いやメタファーを過剰に求めてしまうのは物書きの悪い癖ではありますが、一度気になってしまうと考え抜かないと気が済まないのも物書きの性であったりはしますので、自分の悪癖を程よく諦めながら心行くまで漁っていきたいと思います。そんなこんなで、漁師としての全盛を過ぎた老人の物語に、当時まさにスターとしての輝きを全うし終えた大ディマジオの名前が登場したのは決してただの作者の気まぐれではないでしょう。そして、それ自体は悲観的な描写ではないけれど、決して前向きな描写とも言い切れない。奇妙な印象を作品に与えているような気がします。

作中で老人が兄弟と呼んだカジキは、その帰路で鮫にその身を食らいつくされてしまうわけですが、その過程で老人もナイフを失い傷だらけになっていく。彼らは対峙していた時からまるで水面を境界とした合わせ鏡の兄弟のようであったなと思いながら読んでいたりしました。村の中での老人は嫌われているわけではないけれど、手放しで慕われているわけでもないといった微妙な立ち位置にいるわけですが、そこに至るまでの過程にどんな物語があったのだろう。対峙するカジキにもそんな物語があったんだろうかなどと思いを巡らせるのも一つの楽しみ方かもしれません。

老人にとっての少年は孫のような存在だったのでしょうが、実際に少年は老人の孫である可能性もあります。メスのカジキを釣り上げた時のエピソードがあったけれど、老人も妻を亡くしているらしい描写があります。老人のどこか向こう見ずな生き方は妻の死に起因するのかもしれないし、或いは村の人達のよそよそしさも老人の妻の死に纏わる何かに起因するのかもしれません。老人が物語の中で格闘したカジキは、かつて老人が釣り上げたメスのつがいだったオスのカジキであるかもしれないし、全ては老人の夢で、老人と格闘したカジキはそもそもいなかったのかもしれません。恐らく極限まで情報のそぎ落とされたこの物語の想像の余地は広く深いのです。そして、恐らくこの物語においてそんな想像の余地の働く余白に意味はない。少年と老人の間の血縁があってもなくても、カジキと老人に過去からの因縁があってもなくても、老人と村人の関係の過程に何があったとしても、彼はあの日カジキと戦い、勝利とも敗北ともつかない生還を遂げた。それ以上でもそれ以下でもなく、それがこの物語のすべてなのだろうなと思います。

ちなみに今回読書感想文を書くにあたっていくつかの解説サイトを眺めたりもしたのですが、どうにもどれもしっくりこなかったのですよね。まぁ、他人の創作物に不純な解釈を見出そうという試みがそもそも無粋なので、そういった意味で僕もラストシーンに登場した観光客と何の違いもないなと思ったりもします。読書感想文を記事にしてやろうと意気込んで、解釈しつくしてやろうと思った試みの対戦相手は、しかしながら極限までそぎ落とされた文学の結晶であり、その有様は最早寓話のそれでしかなく、そうなってしまうと「童謡は理屈によって歌詞の判断を許されてはをりません」という野口雨情先生の言葉に一刀両断されるより他なく、情けなくも僕としては身の無い骨のような反省文にも似た感想文をしたためるよりないわけです。対戦ありがとうございました。

ところで、老人と海はヨルシカというアーティストが曲のモチーフにしていたりします。ヨルシカはわりと聞いているんですが老人と海は今回の読書感想文執筆に合わせて初めて聞きまして、けれどなるほどヨルシカはこう解釈して形にするのかと思ったりしました。やっぱり令和の著名なソングライターの中でもn-bunaの文学的なセンスは頭一個突き抜けてる気がするメーン。まぁ、n-bunaの作家性自体が破滅願望が人の皮をかぶっているみたいなところがあるので親和性高いんだろうなと思ったりもしました。メーン。

野暮を承知で言葉を綴るのであれば、老人と海の物語で綴られた決闘は老人が老人として築いた自身との対峙であり、昇華でもあったのかもしれないなと思ったりしました。伴侶を失い、全盛期の栄誉を失い、それでも肥大する自己という存在の持つ情報量と、行き場の無い誇りと矜持、使い道を失いかけている強さと技術。それらに対峙することによって向き合い、打倒する事によって受け入れ、失う事によって昇華した。それは亡き妻への悔恨であったかもしれないし、老いていく自身への哀れみであったかもしれないし、或いは海でしか生きられない自分への執着であったのかもしれません。ライオンはそんな彼にとって、少年時代に見た眩しい原風景の象徴であったのかなと思います。老人になるに至るまで積み重ねた年輪の外郭を取り除いた本当の芯の部分。それが子猫のようにじゃれあうライオンの姿を映した原風景であり、老人の持つ少年性の根幹だったのかもしれません。そういった意味で、少年と老人は最初から最後まで対等であったし、対等であろうとしていたような気もします。

決して明るい話ではないし、心躍る冒険譚でもなければ、希望に満ちた物語でもないけれど、生きていくというのはそういうものであるような気もしたりします。総合的に言うとよくわからんのでこのあたりで白旗を上げたい所存です。物語は作者の意図は兎も角として、読者の中で昇華されて初めて完成するんだぜという月並みな逃げ口上で場を濁しつつ、そろそろ朝日も昇りそうですし、三日三晩決闘に興じる気概は持ち合わせていないのでこのあたりで筆を叩き折りたいと思います。それではここまでおつきあいいただいた皆様に素敵な文芸ライフが訪れる事を祈念いたしまして。対ありでした!


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