6.0の感想文を嗜めておこうと思った話

①そろそろ6.0の感想文を嗜めておこうと思った話

パッチ6.0も凪期に差し掛かり、体調が思わしく無かったり、仕事が地味に忙しいのもあって微妙にエオルゼアの地を踏めていない今日この頃なので、今のうちに6.0の読書感想文なんかを嗜めておこうと思った次第ですが皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕的には事件屋が来るぐらいには色々落ち着いていると良いなと思う願望に塗れている日々だったりします。

僕の世代のFINAL FANTASYといえばⅥとかⅦが盛り上がっていた頃で、特にゴールドソーサーのスノボなんかは初級で神、中級上級で変を叩きだすぐらいやりこんでいた気がします。最近だとⅦのリメイクで話題になっていたりもするんですが、PS5の流通がもう少し落ち着くぐらいには手を出せると良いなぁ。でも、今の三代目JソウルPCちゃんも限界なのでグラフィックの更新に合わせて新しいPC欲しいような気もするので悩ましい感じです。

ともあれそんなFF懐古主義者の僕ですので、実は友人に誘われて始めたFF14のシナリオに当初あんまり期待していませんでした。実際最初の方は流し見程度であんまりのめり込むようにストーリーを追ってはいませんでしたし、ほどほどに世界観が分かってキャラクターの人物像が分かれば良いかなぐらいの期待値だったのです。まぁ、新生の最後の方には見事なまでに敬虔なるナナモ様の信徒になり果てていたわけですが。(おかげでシステム的にはもっと自分に合った選択肢があるんですが、最初なんとなく入った不滅隊グランドカンパニーから移籍する気になれなったりもしています。)

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②アリゼーのおかげてアルフィノの解像度が上がったっていう話

ちなみに自分がFF14の物語にどっぷり入り込む事ができたシーンはだいぶ後の方になるんですが、紅蓮編の双子のシーンだったりします。

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FF14ハイデリンゾディアーク編の全体を通した物語の主人公ってやっぱりアルフィノですし、そんなアルフィノの人格像というか人隣りがぼやけて見えてしまっていた自分にとって、このシーンは転換期でした。どこか浮世離れした理想を追いかける若き少年の人間らしい部分というか、肉親から見たアルフィノ像とか兄妹としての関係性が垣間見えて、高い理想と理念で形成された宇宙人みたいな人物像の解像度が急激に上がったシーンだったなと思います。5.0からのラストスパートの発射台として、少なくとも自分にとってこのシーンはとても重要なものでした。

③ドラクエとエフエフの作品哲学の差異みたいな話

ところで、日本RPG界の二大巨頭である「ドラクエ」と「エフエフ」の違いが何かと言えば、ドラクエが勇者と魔王の物語であるならエフエフは最終的には個人の物語なんじゃないかと思っていて、端的に言ってしまえば世界の行く末とかは実はどうでも良い個人の意地の張り合いみたいなところに作品哲学があるような気がしています。そういった意味でラストバトルがゼノスとの一騎打ちだったのは実にエフエフらしいなと思いますし、FF14がFINAL FANTASYであったからこその最後の一騎打ちだったんだろうなと思ったりもします。(ぜのぴはしれっとまた出てきそうな予感がしますが)

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その辺りも踏まえるとFF14はある意味で最もエフエフらしいエフエフだったなと思うのです。終盤に世界の崩壊(終末)が始まって、空からメテオ(メーティオン)が降ってきて、飛空艇(宇宙船)で敵の根城に攻め込んでいくあたり実にエフエフの伝統様式美ですし、解釈を飛躍させつつも、骨子はきっちり踏襲しているところにシリーズに対するリスペクトを感じます。

④メーティオンとなっちゃんとナイトの話

そして何よりもメーティオンとのラストシーンが素晴らしかった。プレイヤーであるヒカセンは英雄と呼ばれているけれど本質的には冒険者なわけで、未知の世界への探求とそこに生きる人達との交流こそが本懐なわけですが、そんな冒険者である事こそがメーティオンに最後には救済を与えたわけです。或いは古代人文明が原因を究明し対策を練ってメーティオンを力でねじ伏せたとしても、終末になされるがままアーテリスが滅んだとしてもメーティオンに安らかな最後は訪れなかった。弱さを抱えながらも未知へ踏み出し、時には苦悩しながらも歩みを続けてきた冒険者であったからこそのメーティオンとの対話は、冒険者が冒険者であった事に対する意味付けを与えたのかなと思ったりもします。

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6.0のシナリオに関しては、なっちゃんがどのようにナイトを解釈して描いていくのだろうというのも個人的に気になる関心事だったりしました。作家性の根幹というのは、これはもう体に染み込んだ価値観の総体ともいうべきもので、石川夏子女史の作家性はまさに暗黒騎士そのものですし、そんな石川女史が云わば対極的な存在であるナイトをどのように解釈するのか、いやむしろ書けるのか。みたいなのを6.0の発表以降は勝手に心配したりしていました。全然杞憂でしたが。

暗黒騎士がたった一人を守る騎士であったのなら、ナイトは誰を守る騎士であったのか。原初世界で、第一世界で出会った人々、光の戦士の背中を追う仲間達、星の行く末、英雄の守るべきものはすでに色々あるわけですが石川女史の強欲さはもっとド派手でした。たぶん根幹的な部分で光の戦士はメーティオンの騎士だったんじゃないかなと思うわけです。終末を齎す首魁としてのメーティオンであり、エルピスで出会った友人でもあるメーティオン。彼女の行動原理は憎悪でも憤怒でも快楽でもなく、人々を苦悩と苦痛から解放する事でしかないわけで、それはある意味未来に待ち受ける絶望から人々を守りたいと願う騎士としての衝動だったではないかなと思ったりします。

漆黒のヴィランズにおいてエメトセルクは現生人類を贄にして古代人を守ろうとした暗黒騎士であり、ヒカセンは古代人復興の可能性を摘み取って現生人類を守ろうとした暗黒騎士であったとも言えるかと思いますが、暁月のフィナーレにおいてのそれは、全てを無に還す事で人々を苦痛から守ろうとした騎士と、希望の道筋を切り開く事で人々を、そしてメーティオンすらも絶望から守ろうとした騎士の戦いであったとも言えるかもしれません。

⑤ファダニエルって見事に道化師だったよねって話

そういう意味でメーティオンとファダニエルの終末に対する思想というのはわりと乖離していたように思います。ヘルメスがメーティオンを自由にさせた背景にはメーティオンという種を守ろうとした結果であったような気もしますが、根底的には古代人の価値観に対する不信感みたいなのが垣間見えます。ヘルメスは人間に不信感を持ち、けれど相反するように愛し、その可能性を信じようとしてていた。だからこそ裁定の機会が訪れる事を心の何処かで待ち望んでいたのかもしれません。ヘルメスはメーティオンが獲得した絶望をある種のグレートフィルターと捉えて、人類裁定の装置にしようとしたわけです。同じ事はヴェーネスにも言えますし、エメトセルクといい古代人裁定好きすぎでは。

現ファダニエルであるアモンに至っては裁定の装置ですら無く破壊の道具なわけですが、アモンの境遇を思えば無理からぬ感じもします。アモンはヘルメスと同じ魂を持つ影響を否定していましたが、違うのはメーティオンに対する思い入れぐらいのもので、同じような理由で人間に絶望し、同じような結論に至っただけのような気もします。感情の発露先が言葉の上で裁定だったか終末だったかが大きい差異であるか小さい差異であるかを感じるのは我々の感受性次第でしょうけれども。メーティオンの思惑の前に立ち、メーティオンの思惑とは違う理由で踊る。彼らはまさに道化そのものであったと言えるような感じもします。

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けれども、その心を痛めて人類そのものを憎めてしまえるほどに優しかったヘルメス、アモンを形成したファダニエルという青年の魂の心根は、ただ嗜虐性と残酷さに満ちた身勝手なものでは無かったのだろうなと、振り返ってみれば思ったりもします。

⑥ぜのぴとのラストバトルで「まったくその通りだ」を選んだ話

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そんななんやかんやを打ち倒し、ついにメーティオンさえ守り抜いた光の戦士の前にゼノスが立った理由は、彼が戦闘狂というのもあるんでしょうけれども、わりとマジで彼はヒカセンの友をやっていたように思ったりもします。冒険者、光の戦士、英雄、闇の戦士、吉田のテンパード、ヒカセンの名前には実に多くの冠がつきます。けれどもそれはあくまで冠であって、ヒカセンという人間そのものではない。ヒカセンと闘争した者は皆一様にエオルゼアの英雄であるから、帝国の敵対者であるから、古代世界復興の障害となるから、様々な理由で対峙したわけですが、ゼノスだけはヒカセンがヒカセンであるからこその闘争を望んでいた。大義や信念や国家といった大きな思惑の渦中に塗れた闘争ではなく、培った技と力を純粋にぶつけ合う事のできる闘争こそが彼の本懐で、或いはゼノスはヒカセンの中に自分と同じ孤独を見出していたのかもしれません。

ゼノスは確かに人間らしい感受性が凡そ抜け落ちていて、彼が自己を規定できる唯一の衝動は技を磨き獲物を狩る闘争が齎す高揚だけだったわけですが、それを踏まえると彼はただその高揚を分かち合える対象を求めていただけの無邪気な童であったようにすら思います。彼にとっての闘争というのは言うなれば彼の持ち合わせた唯一の対人様式で、彼の持ち合わせた唯一の対人希求であったのかもしれません。例えば小説を読んだ感動を誰かと話し合って共有したいとか、食卓を囲みながら最近あった出来事を話して親睦を深めたいとかいう程度のささやかな対人希求の発露先が彼には闘争しか無かった。

ゼノスの不幸は闘争で対人希求を満たすには余りにも圧倒的な力を有していた事と、闘争以外で対人希求を満たすことができなかった事で、現に彼は作中でヒカセンと食卓を囲む事を試みるわけですが、それでは何も満たされない事をすでに悟っていたし改めて確認してしまったわけです。彼が唯一対等な存在と認める事ができるヒカセンですら、闘争以外の対人様式で希求を満たしてくれる事は無い。だからこそ彼はあれほどまでにヒカセンとの闘争を望んでいた。そして、同様の孤独をヒカセンの中にも垣間見ていたのかもしれません。そういった意味で彼の行動原理は暗黒騎士ジョブクエストのフレイ君に近いものを感じます。

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これは彼の対人様式が戦火の中にある闘争であるから話がややこしくなるわけで、もっと単純にAPEXとかスプラトゥーンとかのゲームに置き換えて考えると良いかもしれません。ややこしい背景や関係性等なくてもゲームにおける闘争は本来的に楽しいわけです。技を鍛えて競いたい、新たな武器を携えて試したい、対等に競い合える相手とその高揚を分かち合いたい。彼にとっての闘争は本質的にこれだけの話で、それ以外は余計な付属物でしかない。ゲームも娯楽の枠を超えて、最近ではeスポーツに代表されるプロゲーマーも珍しい存在ではなくなってきました。プロであれば当然周囲からの期待を背負い、結果を求められ、スポンサーの意向に縛られる。俗物的な価値観に縛られて本来的な高揚を味わう余地は奪われ、失われてしまう。ゼノスから見たヒカセンはそんな存在であったのかなと思います。

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なので、結局のところヒカセンを闘争に誘うゼノスの根幹は「磯野、野球やろうぜ!」でしかないのです。いくら工夫して呼び掛けても宿題が忙しくて応えてくれないカツオの宿題を手伝ってあげている中島ゼノス君でしかないわけです。だからこそ彼はヒカセンが光の戦士としての役目を終えて、ヒカセンという個人になれる瞬間を待ち、闘争を果たした。唯一対等に向かい合える友として。そう考えるとゼノスは5.0のアルバートと同等の存在で、個としてのヒカセンに最も近しい友人であったと言えるのかもしれませんね。

⑦なっちゃんありがとうって話

石川夏子女史の描いたフィナーレは、あらゆる角度からヒカセンに解を与える物語であったと思います。メーティオンの救済を通じてヒカセンが騎士であった事の解を与え、未知を追いかけて世界を旅する冒険者であった事の解を与え、ゼノスを通じて英雄の肩書きの所有者ではない個としてのヒカセンに解を与えた。ストーリーテラーとしてして築き上げてきた技量と、作家哲学と、作家性の全てを詰め込んでハイデリンゾディアーク編という物語と、その物語の演者であったプレイヤーに解という背骨を刺した。そこには単純にストーリーを見る観客としてでは無く、FF14プレイヤーヒカセンとして世界と物語に関わってきたからこその感慨があって、それを見事に描き切った石川夏子女史の企ては実に素晴らしいものでした。

改めて石川夏子女史に最大級の賛辞を。
この物語のフィナーレにヒカセンとして立ち会えた事への感謝を。
未知への期待を胸に6.0読書感想文の筆を下ろしたいと思います。

それでは明日もまたエオルゼアの何処かで。


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