世の中にはどうしようもないことが溢れている

 世の中には、自分ではどうしようもない事が溢れている。
 この味気ない世界に生れ落ちた事。人から教わったことを鵜呑みにして、自分で考える事をやめた人。自分で考えて出した、他人の結論。力あるものが力を持ち、力なき人々は抵抗する術を持たず利用される。
 いわゆる、「現実」って奴がこの世には沢山ある。

 「現実を見ろ」って言葉は、陳腐と言える程にあまりに使い古された言葉で、さも正しそうに聞こえる。
 きっと、正しいのだろう。現実を受け入れて考える事を止めた方が、生きやすいのだろう。思い悩まなくて済むのだろう。
 でも、それに何の意味がある。哀しい事を哀しいと感じる心を捨ててまでして生きる価値が、この世界にどれだけあるというんだ。
 生きてるだけで価値があるなんて、生きていれば良い事があるなんて、そんなの嘘っぱちだ。
 ただ生きているだけじゃ、ただ生きているだけで部屋に籠って時間をやり過ごしていただけじゃ、良い事なんて殆ど無かった。
 勿論ゲームで勝ったとか面白いアニメを見たとか、皆無だった訳じゃない。でも少なくとも、その間の苦悩とまるで釣り合うはずがない。
 生きているだけじゃ何も変わらない、生み出せない、価値なんてない。
 そこから、自ら動き出さない限り、良い事なんて、奇跡なんて起きないんだよ。
 頑張って、前に踏み出さないと、生きている価値なんて見出せないんだよ。

 なのにさ、なんでそこまで頑張らなきゃいけないんだよ。
 哀しいと感じる心を殺して、自分を殺して、そこから更に踏ん張って。
 そこまでする価値がこの世にあるのか?
 人によってはあるかもしれない。でもそれは万人にというわけじゃないだろ。俺にもあると断言できるわけじゃないだろ。なのに、何を希望にして生きていけって言うんだ。頑張れって言うんだ。

 でも、俺は生きていたい。死にたくない。今死んでも、何も残せていない。泣いて貰えない。惜しんでもらえない。そんな状態のまま、死にたくない。
 だから俺は現実のために生きない。俺はただの現実なんて生きるに値しないと思うから、空想を、理想を見て生きていきたい。
 本来、そんな事許されるはずが無かった。何の実績も信用も無い奴がそんなことしようとしても、早々にくい詰めるはずだった。
 でもさ、今は俺は最低限生活保護で食えている。堕ちるとこまで堕ちて、プライドをかなぐり捨てて生きている。それで、生きていられている。
 なら、これも一つのヒトの進歩の一つの恩恵と考えよう。
 ただ生きる事に必死になるステージから、善く生きようと努力することにリソースを割ける時代になったのだと考えよう。
 勿論、俺だっていつまでもこのまま寄生を続けたくはない。何らかの形で自力で稼ぎ、自立したい。それを目指すつもりではある。
 だが、現実だからと諦めて、思考停止して生きていくのだけは願い下げだ。

 ただ、厳密には現実を全く見ないで生きていくというわけではない。出家、隠棲、世捨て人、そういう物になるつもりはない。
 人の社会の中で生きていくのは、そのつもりだ。
 世の中にはどうしようもないことが多すぎる。それら一つ一つを、哀しいと感じる心を捨てないまま、自分の出来ることを探して、その範囲で現実に合わせて行動はしていこうとは思う。
 現実を受け入れて思考停止をするのではない。きつい道だろうけど、自分が出来ることは無いだろうけど、それでも自分が出来る最善を探し続けて生きていきたい。
 皆が言うから、ルールだから、道理だから。
 そんな思考停止だけはしたくない。
 現実を、否定した上で、肯定する。何が違うのか、まだうまく説明出来ていないけど。

 現実にはどうにもならないことが多すぎる。
 それをどうにかするために人は生きていて、どうにか出来ることを増やすために人は力を欲するんだろう。
 その過程で、確かに現実を現実のまま受け入れている人が、愚かに見える過程があるのは正直今実感している。
 世の中を普通に生きていて、普通を唯一の当たり前だと思っている奴らが、正直バカに思えてくる。
 視野が狭い、と。奴らは何も分かっていない、と。明日のパンのことしか考えていない愚民どもめ、と。
 そんな気持ちが無いと言ったらウソになる。
 ただ、同時に分かっているから、意識して戒めている。
 この気持ちが、様々な物語の悪役の言葉なのだと。
 そうやって一般の人を見下す気持ち軽視する気持ちが独り善がりに繋がって、主人公に打ち倒されるのだろうと。
 普通に生きている人達を見下す気持ちが無いと言ったらウソになる。ただ、それでもその人達も今を一生懸命生きている事には変わりが無いのだと。自覚無自覚は違っても、少しでも善い明日を、自分を目指して生きている事を忘れてはいけないのだと分かっている。そして、自分もそうだったことを覚えている。それを否定しては、勝手に曲げてはいけないのだと、そんな権利は無いのだと何度も自分に言い聞かせ続けている。
 きっとそれは、大局的には確かに自分の方が正しいのだとしても、だ。
 環境のために人は今の贅沢な生活を捨てるべきだなんて論もある。もしかしたら、そういうのも、そっちの方が正しいのかもしれない。衆愚政治の名の通り、愚かな多数派によって破滅に進んでいく事もあるかもしれない。それでも、人々の意思を無視して強引な手段を取るのは、やはり悪役なのだろう。多くの人達をないがしろにして独断専行を強行するのは、悪役なのだろう。例え手遅れになろうとも、時間をかけて人々を説得して当たり前を改変していくしか、無いのだろう。考えやスタンスは正道ではなくとも、手段はあくまで正道でなければならないのだろう。それは忘れてはダメだ。

 世の中にはどうしようもないことが多すぎる。
 それを少しでも少なくするために、人は、俺は力を欲する。力とは数だ。人数だ。人の数を集めるのは言葉だ。即ち今風に言えば発信力だ。
 その発信力というのを、どうにか伸ばしていく必要がある。具体的な手段は描けていないが、何から始めるべきかは見えている。そしてその手段は、あくまで正道でなければならない事も理解している。
 どうにもならないことを少しでもどうにかするために、力を求めて生きていく。ありきたりな結論なのかもしれないが、それがこんなリアルというクソゲーを楽しんでいく、唯一の楽しみ方なのかもしれない。

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