「普通」とのズレの根幹

 長く。長く考え続けてきた。
 この説明のし難い自身の異物感。憤懣。苛立ち。
 どうにもこうにも普通に生きている人との価値観が違いすぎて、でも何が違うのかをうまく伝えられない感覚。
 ようやく、それに一つの答えが出せた気がする。

 案外、それは何度も言ってることだった。
 結局のところ、一番の根元は

「今の自分を、社会を、世界を、一切肯定していない。するつもりすら一切ない」

 ということだ。
 自己肯定とか、社会への適応とか。そういった物の必要性も有用性も十二分にわかってるつもりだし、部分部分では俺自身もやってる。
 でも根本的なところで今で良いとは思えないし、今が良いとか思いたくもない。
 人の営みには根源的に矛盾があって、その矛盾から生まれる問題は尽きることが無い。個人にも、社会にも。それらを「そういうもんだから」と流してしまう人間には、死んでもなりたくないのだ。
 だから俺は今日の自分を肯定しない。ほんの少しだけ善くなった明日の自分を肯定するために、今考え足掻き続ける。
 世の中に溢れる問題や醜さ、弱さを「そういうもんだ」で終わらせず、自分では力が足りないから、誰かに任せるという意味で諦める。

 まぁひきニートの分際で何意識高い系なこと言ってんだって自分でも思うけど、でもそれが核心だ。
 それはとても難しいことだ。人に出来ることには限界がある。当たり前を当たり前として楽をすることで、何かを作り出すリソースを確保するのが人間だ。逆に言えば食うために働くためのリソースを絶対に確保しとかなきゃいけない人は、当たり前が当たり前でなくなることに強い拒絶感を覚えざるを得ないということだ。
 そういう意味では、ある種ひきニートだからこそ言えた戯言ではあるのだろう。

 でもやっぱり、俺は間違ってないと思う。
 高すぎる理想を互いに他人には要求しておいて、自分自身は人間なんてそんなもんだと、誰もが言えるわけじゃない。その乖離が大きくなればなるほど、その厚顔無恥さに無自覚でいられない人が増えるのも自然なことだと思う。
 間違いなく当たり前を当たり前にこなして、働き価値を創造し続ける人は大事だ。それを蔑むことは許されないと俺も思う。
 だけどどう世界を変えていくべきかという考えを持つ人もまた、必要だと思う。
 だからといってこれまでの俺のフリーライドが許されるわけではないけど、でもまぁ俺にとっては不可避だったと受容はしている。
 俺には働きながら考え続けられるほどのバイタリティが無かったし、当たり前の外側に行ったからこそ、当たり前について深く考察することが出来たとも思うから。
 この境地が、ニーチェの永劫回帰のことなんだろうな。己の過去を肯定はしない。もっと良いやりようは今にあればあったと考えられる。だがあの時点ではそうする必然性と必要性があったことは認める。だからもしもう一度同じ人生を繰り返すことになっても、それを受け入れるだろう、みたいな境地。

 まぁ言い訳はこの辺でいいや。
 ともかく俺は、今の自分や社会を一切肯定するつもりがない、ということだ。受容と肯定は違う。
 偉そうなことを言っているが、本来別にそれほど特別なことではない。
 どんな会社だって必ず「理念」を掲げている。その仕事を通して少しずつ世界を良いものにしようという志が必ずある。
 だがそれを分かったふりで軽視し、あまりにそれがガチガチで、拘るせいで拗らせたのが俺だったというだけだ。
 ただそれも今思えば仕方ない。俺のそれはあまりに規模がデカくて分不相応で、それこそ国のTOPレベルの影響力が無いと叶わない理念で、自分の適性で探す求人には見られないものだったのだから。かといって戦略的にキャリアアップを狙えるほど器用でもなかったし、自分を制御できるわけでもなかった。
 って、また言い訳になってる。

 ともかく、俺が伝えたいことはこの二つなのだろう。

・今を肯定出来ないのはおかしなことではない。
・今を肯定せず、その代わり改善し続けること自体を肯定する生き方もある。

 そんな楽とは正反対だけど、でも深い幸せを得られるかもしれない生き方もあるんだということだ。
 それが誰かの救いになるかもしれないから、それを伝え応援する仕事をしたい。
 同時に一人の大人の責任として、社会全体がよくなるように出来ることを怠らずやり続けたい。
 そんな人間として生き抜き、最期の時を迎えたい。

 多分、そんな感じ。
 まだ精確とまでは言えないけれど、ほぼほぼこれで間違いはないとは感じる。

 そういえば話変わるけど、今書いたから思い出したので一緒に書いておく。
 「大人」という意味についてだ。
 法律的には成人は18歳。
 一般的には「大人」の意味は「現実との付き合い方に小慣れてきた」人間という意味。
 本質的には「社会から十二分に必要な投資を受け、自分が必要とする以上の価値を創造し社会や後世に還元できる」人間だと、ふと思った。
 文明が発達し求められる人間としてのレベルが上がったのであれば、当然必要とされる投資の量は大幅に増える。体感的には30歳位までは未だ本質的には大人じゃないのだろうと感じる。
 ただどこもかしこも余裕がないせいで、社会に出た瞬間から投資対象ではなく自分以上の価値創造を求められるのが今の日本社会だ。
 そして同時に、実際に自分の必要とする以上の価値を創造できるようになった人も、殆どが自分の稼ぎは自分のものというのが先にあるのも日本社会だ。
 大人が子供に投資することで社会全体として発展出来るのに、投資して貰えないまま自分で育ったのだからその稼ぎは自分のものだと守りに入る負のスパイラルが、個人的には今の日本の一番の問題点だと思う。

 義務教育+高等、大学教育までで投資は十分、なんかじゃないんだよ。
 求められる人間的なレベルが上がってるんだから、それに応じて必要な投資量も上がってるんだよ。
 学校教育の時点で本来は相当な投資を受けているんだけど、それもまた当たり前になり過ぎて恩を感じづらいという問題点もある。大学の奨学金の一部は投資じゃなくて、ただの未来の自分への借金だから恩を感じづらいという問題点もある。そもそも教育含め人的投資の価値が理解するのが難しいという問題点もある。自分だけでなく社会全体の利を考えた方が結果的に自身の幸福に繋がるというのは、大きな視点を持たないと実感出来ないしそもそもそれが成り立つ社会の前提条件がかなりハイレベルだ。ぶっちゃけその社会の前提条件に今の日本社会が満たなくなってきているというのもまた問題点だ。実際問題、現状だとどう考えたって自分の利益を守る方が社会貢献に投資するよりもよっぽど自身の幸せにとって有効なのは否定し得ない。社会への信頼性が損なわれている。その原因もまた、根深い。

 本当に、なんていうか。
 色々拗らせつつも考え続けてなんとなくわかった気になってみると、日本社会ってのは先進国の色んな問題を片っ端から顕在化させてて研究対象としてはマジで面白い国なんだよな。
 ただ実際に生きている一員として考えると、根が深すぎて呆然とせざるを得ないって感じだわ。
 しかも俺の場合大局的に見て、つまり細部を単純化することでやっと分かった気になってるだけでしかなく、当然リアルな現実問題については全くもって無知で経験不足だ。即ち俺が想像しうる困難さの何百倍もの困難が潜んでいるということだ。
 一周回って笑けてくる。

 ゲームみたいにスクラップアンドビルドして、一意的に再構成出来るのであれば楽なんだけどね。
 実際は(革命でもしない限り)一時も途切れることが許されないもので、そして多くの人の我が儘が鬩ぎ合う混沌の社会だ。
 ほんとリアルなんてクソゲーだと思うけど、同時にそれがまた面白いのだろうなとも思う。

 俺に何が出来るのだろうか。
 俺は何も出来ないのだろうか。
 願わくば、己が頭でっかちなだけでなく、行動で自分を、世界を変えていける人間であることを祈る。
 そうでなければ、俺はもう

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