2023年のまとめ

 あと一週間なので今年も振り返りを行っておこう。

 そう思って過去記事を見ると、成程、これが俺の変遷か、と感じた。
 どうにも昔の俺はまだ余程人間らしい。人間らしい葛藤と情動が垣間見えた。

行動

 今年どんなことをしたかと問われれば、まぁ大きくは変わっていない。
 変わらず基本的にはひきこもりで、自立訓練施設に通っているといった具合だ。それも後数か月で期限が切れるので、そこを見据えて準備をしなければならないが。
 後は昨年までと比べて、幾分仕事をした、というのは変わったところだろうか。COMOLYさん経由で幾つかのイベントの撮影補助をさせてもらった。
 金額自体は大使な事ないが、そういうなんというか、公的っぽい活動のスタッフ側に回れたというのは中々得難い経験だった。
 後蛇足だが、年末は丸半月ほど体調を崩していて面倒だった。延々喉のイガイガが抜けず体力も落ちて、殆ど何も出来なかった。

心境

 行動自体はあまり変化は無いが、やはり内面の変化は大いにあったと思う。
 いや、これは変化というべきなのだろうか。どちらかというと純化に近い気もする。大元のところは変わっていないのだろうから。

 振り返ると2021年は自責の念に堪え続けた年だった。2022年は諦めのついた年だった。そして2023年は受容の年だったのだろう。
 俺は、どこまでいっても真っ当な人間にはなれない。甘ちゃんで、夢想家で、勘違い野郎の道化でしか在り得ない。
 なんというんだろうな。正直、俺は俺の考えがそう間違ったものだとは思わない。世の中の大半の人より世の中が見えていると思うし、人という生物の本質を理解しているつもりだ。分かったつもりになっている大人達を浅いなとあざ笑う心地すらあることを否定できない。己の考えについては自信は無いが意地はあるのだ。この30年、殆どそれしかしてこなかったから。当たり前について異常なほど向き合い続けた結果、誰よりも普通から弾き出された人間だと自認している。
 誰もが現実に向き合い、どうにか折り合いをつけ膝を屈しながら生きている中、屈服を良しとせず現実から逃げ理想と空想と夢想に浸り続けたのが俺なのだ。
 そこまで純化し通したのであれば、それもまた一つの在り方であると、他人事であれば言ってやることも出来る。
 だが、それが己が事だと考えるならやはり肯定はしたくないものなのだ。俺は出来るなら、現実に立ち向かい、打ちのめされながら理想を掲げ続ける人間でありたかった。このような、立ち向かう事の出来ぬ無様な口だけの人間にはなりたくなかった。だって、逃げ続けただけの人間の言葉に、重みは無い。蓄積された熱量が足りない。それでは人を煽ることは出来ても、動かすことは出来ない。徹頭徹尾無責任。責任を負えるだけの重みが伴わないのだ。

 それでも理想と違い、現実というのは常に地続きだ。良しにつけ悪しにつけ、それ以前の影響を完全に無視してポンと発生することはないのだ。
 今思えばやりようはあったのだろう。そこで諦め、或いは踏み出していればまた違った人生を辿っていたのかもしれない。
 だが、今そう思えるのはこれまでの紆余曲折があったからだ。もっと言えば、その当時から正解なんて分かっていたのだ。どうすれば事態が好転するのか。自分が今何をせねばならないのか。結局のところ幾らやり方が多種多様であろうと、通すべき正道はいつも一つだ。深く考える必要も無い。
 最も望ましいやり方なんて皆分かっている。でもそれを通すにはあまりにもいつもリソースが足りない。一番は分かっていて、でもそうはあれないから少しでも手段を選ぼうと人は足掻き続ける。少しでも多くのものを守ろうとして、愚かな足踏みをし続ける。凡人がそれを諦めるには、時間と葛藤と言い訳が必要なのだ。分かっていても正しくはあれない。それが人の業というものだろう。俺はそれを受け入れねばならない。
 だからこの30年の足踏みは俺には必要だった。その足跡と、出来上がった今の俺がどれだけ無様でくだらなく、見下げ果てたものであろうと、やはり俺はこうでしか在り得なかったのだろうと受け入れる他無い。
 そしてこれから俺が晒す無様も、それでも尚今この時点で出来る足掻きの最上であると、悲しい哉俺はその程度の人間であったと受け入れねばならない。それは俺自身の無力であるが、同時にそれだけで片付けられるような傲慢も筋違いだと理解しよう。人は人の意志程度で自分の一生すら思い通りに出来ず、況や他人をや、だ。譲れなかった一線、己の魂の生存を守るためには、このような歪み果てた愚物に成り下がらざるを得なかったと、受け入れざるを得ない。
 だから俺は受け入れよう。自分が筋の通らない妄言を喚き散らす醜態を。なんの根拠も、後ろ盾も、実績もなく、ただ極まっただけの絵空事をさも真理であるかのように宣う滑稽を。それに対する正当な軽蔑という評価を。
 それは間違いなく愚かで甘えで筋の通らない一足飛びの邪道だ。故にその結末が最上のものにはなり得ない。最上を得るという可能性を捨て去る選択であると分かっていて尚、事ここに至ってはやはり他に手段が無かったのだと膝を屈そう。
 そうやって無様を晒して、もし当然のように真っ当な評価をされて、誰にも見向きがされなかったのなら、勘違い野郎のまま、己が英雄だと嘘を吐き続けた道化のまま屍を晒すことを受け入れよう。

 そうだ。才無き凡夫の身でありながら、凡夫にも劣る行動無き口先だけの愚物でありながら、結局俺は英傑になりたいのだ。
 真っ当に考えれば自分でもそんな器ではないと理解しておきながら、それでも尚諦めきれない中二病なのだ。そんな愚かな憧れを、己の命より親の願いより優先する大馬鹿者なのだ。
 何をどう言い繕おうと、俺はただ、尊敬出来る人間でありたかった。過去の自分が見て、軽蔑と同時に尊敬し道しるべとするような人間になりたい。あぁはなりたくはないと思いながら、同時にあんな大人になりたいと背を追う人間でありたい。俺にはそんな人物を物語の中でしか見いだせなかった。だがリアルにも、現実にもその生き様を尊敬出来る大人がいるのだと、その背を追いたくなる人間がいるのだと証明したかった。偉人でも登場人物でもなく、実際に言葉を交わせる存在がそうなのだと信じたかった。俺はただ、その叶う事の無かった夢想が、未だ後輩達にとっても夢想であると終わらせたくないだけなのだ。
 己と近しいものの幸せを至上のものとし、無自覚に富を奪い合うような大人だけではないのだと、ただ信じさせてやりたいだけなのだ。大っ嫌いな今の自分を作った過去の自分を、二度と生み出したくないのだ。その為に己が英雄になりたいと、分不相応を承知の上で虚言を吐き続ける以外、この命の使い道を見出せないのだ。

 俺は何よりも無自覚を嫌うが故に、この己の野放図さと無茶苦茶さに見て見ぬ振りが出来なかった。その上で己の野心を語る等、含羞極まりなかった。
 今でもそれに変わりはない。だが、ようやく、それでもと、そうでしかと言えるようになった気がするのだ。
 己はもう歪んでしまった。そして正道を走ることも出来なかった。自分で自分を証明するだけの準備を、自ら積み上げるだけの地道さから逃げてしまった。だがせめて、これまで社会のお荷物であった分を弁済する程度には社会に還元せねばならない。そして、願わくば次代に繋がるよう、尽力せねばならない。

 それが2023年の末にようやく辿り着いた結論。
 願わくば、という情けない物言いしか出来ないことはやはり情けないが、2024年の俺は恥を晒しながらでも前へ進めていることを願う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?