過程

 昨日寝る前に無職転生のアニメを見ていてふと思った。
 一期一会って恐ろしい言葉だなと。

 人の性格は遺伝子の時点で殆ど決まっているという話もある。
 その真偽を見極められるほど生物学に明るくないので「そういう説もある」という認識に留めているが、個人的にはあまり信じていない。信じたくないというべきか。
 だが人の意思=決断が人生や性格を変えられるかと聞かれると、苦い顔をせずにはいられない。
 出来ることなら自分の意思で人生は変えられると豪語してしまいたい。だがよくよく見ていくと、あまりに自分の意思の届かないところで自分の人生は決まっていっていると感じる。
 それは遺伝子、ではない。それも大きいのだが、何よりも大きいと感じるのは人運という奴だ。
 出会いが経験を生み、経験が価値観を象り、価値観が行動を変え、行動が人生を作る。
 人との出会いが優しいものであれば優しい世界を信じるようになるし、人との出会いが望ましくないものであれば世界は汚れて見える。
 人は観測していないものを信じず、考慮に入れない。どこかで聞いた100の綺麗事より、幼少期の一回の経験の方が大きなバイアスを形作る。そのバイアスが多くの場合人生を通して多大な影響を及ぼし、それを覆すには10倍以上の経験で上塗りする必要がある。いや、数は当てずっぽうだが。
 幼少期でなくとも、時に他者の何気ない一言が、当たり前の行動が、大きな衝撃を与えて認識を一変させることもある。
 バイアスが経験を元に象られていく。その経験は他者の介入が最も大きなインパクトを与える。そしてその他者が自分自身では介入不可能な存在である以上、自分の人生の大部分はアンコントローラブルな要素に作用されるということだ。
 自分が誰かに影響されることだけでなく、自分が誰かに影響を与えてしまうことも同様だ。
 そう考えると一期一会というのは途轍もなく恐ろしい言葉に思えてくる。他者との関わりが、内容とタイミング次第では本当に取り戻しがつかないものだと思い知らされるような気がして。そしてその内容とタイミングが取り返しのつかないものかどうか、僕らには知りようもない。

 そしてもし、それを可能な限り制御しようとするならどうなるか。今となって思うとそれが引きこもることなんだと思う。人と会わないことで、少なくとも他人に傷つけられることも傷つけることもなくす。
 だけど当然人との経験が更新されなければ自身のバイアスが変わることはなく、固定化されたまま「誰も助けてくれなかった」という経験だけが積み重なって不信感が固まっていく。
 引きこもるというのは人生において最も自分のためにならない時間だ。
 今となってはそう思う。だが当然その最中にこの言葉は何のためにもならない。

 人との出会い10との内、体感だと7は取るに足らない出会いで、2は嫌な出会いで、1が好ましい出会いだ。自分を助けてくれる存在は更にその1の半分以下だ。
 まぁこれはかなり俺が卑屈な人間だから極端に出ているとは思うが、それでも良い出会いなんて人との出会いの一部でしかないというのは誰もが同意することであろう。そして中には嫌な出会いもあるということも。
 だから良い出会いを掴み取るためには試行回数を重ねる必要がある。嫌な出会いを感じ取ったら避ける技術も必要となってくる。現れた幸運を見逃さない嗅覚も必要となってくる。これも結局は人との出会いの中で自分が磨いていかなければならない。
 だが幼少期、まだデータの少ないうちはそんなことも分からない。分かりようもない。10の出会いを蓄積する前に3/3=100%の出会いが自らにとって嫌なものなのだと学習してしまうこともある。10の出会いを蓄積しても3の嫌な出会いと7の取るに足らない出会いであることも単数の偏り次第である。逆に3の取るに足りない出会いと7の望ましい出会いの中で生きてきた人間が、人の悪意から直撃を食らって、外=怖いと学習することもある。
 そうやって人との出会いがネガティブなものだというバイアスが固まってしまうと、試行回数を重ねること自体が不可能になる。誰かが「世の中そんな捨てたもんじゃないよ」と言ったところで、百の言葉は自分の体験に上書きされる。
 それが引きこもるということなのだと、振り返って思う。

 そうやって、今風に言えば「配慮」しなければならないことが増えてきている。慎重を求めながら、行動こそが正義という矛盾。どこまで考えたところで人との関わり合いを全て制御出来るはずもない。だが出来ないからといってしないわけにはいかない。難しい時代だ。
 様々な経験を経て守るべきものが明確になり、精神的に安定した人であるなら流せることもある。だが特に余裕のない人は予想だにしない所で激発したりする。
 誰もがみんな安定出来ればいいんだけど、そこに至るまでの道程は決して簡単なものではない。

 若干話は飛ぶが、過程を否定してはいけないと最近よく思う。
 そうやって高い理想を夢見て、足掻き続けるのが人間だと思う。だが一足飛びにその理想に辿り着くことは出来ない。たった一段高く積み上げるために基礎を固める必要がまま出てくることはどんな分野でも同じだ。そして時として大きくガラガラと崩れ、周りに迷惑をかけることもある。
 回り道も、暴走も、甘えも、踏ん張りも、情けなさも、狡さも全てが必要だし、何が何に繋がるかなど本人にも分からない。
 その先に何があるか、どこを目指して何を守ろうとしてそうなっているのか、それも知らずに一場面を切り取って否定するのはあまりにナンセンスだ。
 今の自分自身を否定して良いのは自分だけだ。そして自分自身でさえも、今この瞬間だけは肯定しなくてはならない。至らない自分を否定し、善く在ろうとし続けつつも、回り道をしているその過程自体は肯定してあげなくてはならない。そこを否定してしまうと、本物の意識高い系に成り下がってしまう。
 そしてもしかすると、そうやって回り道をして時間をかけている間に、予期せぬ出会いがあって思ってたのとは違った方向に進むことも当たり前にあるのが人生というものなのだろう。
 どこまでいっても、自分の思い通りにならないのが人生というものなのだろう。
 それを楽しめるならそれが一番だ。でも俺もまだ怖くてたまらないし、一度歪んでしまったバイアスを、変えるどころかどんな歪み方をしているか自覚することすら難しい。
 経験は経験でしか上書きできない。少なくとも凡人にとっては。願わくば、他者にとって望ましい経験の上書きを提供できる人間になりたいものだ。

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