甘え

 先日、物凄く根本的で、根源的で、抜本的な問題にようやく辿り着いた。
 これまで散々言ってきた、人を信じれない、頼れないの、その理由だ。

 俺にとって、「それは甘え」という切り捨ては、あまりにも致命的な一言だった。
 このnoteを書き始めた時の活動も「甘ちゃんニートのダラだ場」が最初だった。
 仕事を辞めた理由も、「それは甘えだろ」という一言で完璧に心を折られたからだった。

 俺は、当たり前を当たり前にすることが出来ない人間だ。
 いいからやれをとにかくやることが出来ない人間だ。
 何時だって、それをする理由と、しなくちゃいけない理由と、した場合のメリットデメリットと、他の手段ではいけない理由と、その手段が最適だという結論に至った理由と、それを俺がやらなきゃいけない理由と、そんな沢山の理由を考えずにはいられない人間だ。
 別にそれは、必ずしも俺がやりたくないから、おかしいと思って拒絶しているから言い訳を屁理屈で作っているからではない。ただ、納得というか、得心がいかなくて立ち止まってしまうのだ。
 世の中の大概のものは人間が作り上げてきた、作り足してきたが故につぎはぎの矛盾だらけの代物で、俺にとって素直に受け入れられるものなんて極々少ない。
 それに納得をしようと、構造を理解して抜けようと必死に考えていると、だからこそ「いや、」「でも、」を繰り返していると皆がこう言うのだ。

「考えたって仕方ないだろ?」
「最終的にはやるしかないんだよ」
「嫌でもやらなきゃいけないものはやらなきゃいけない。それが大人ってもんでしょ?」
「んー、結局あーだーこーだ理由付けてやらずに済むように甘えてるだけじゃないの?」

 そして俺は絶望する。
 理解して貰えないのだと。
 得心がいかなくて矛盾を抱えたままの心では動けないから、自分の中でこれだけ必死に考えているのに、その必死さを無理解から安易に否定してくるのだと。
 俺が口に出す反論は、須らく疑問形なのだ。
 「でも○○じゃないですか?」「だから俺はやりません」ではなく、
 「でも○○じゃないですか?」「成程、だとすると××じゃないですか?」「そうだとするなら△△はどうなんでしょう?」の無限ループなのだ。
 その無限ループに付き合いきれなかったのは、まぁ仕方がない。今ではそんな根源的な疑問に答えられる程考え抜いた人が世間には殆ど居ないのだと理解している。誰もが答えに窮して、そんなこまっしゃくれた若造を否定することで自分を守ろうとするのも分かる。
 だが俺には致命的だったのだ。動く為に必死に考え抜いている自分の頑張りを、「甘え」の一言で切り捨てられることが。俺にとっては考え続けることが人生で最も苦心してきたことであり、それを丸っと一言で無価値と断じられることが。

 それ故に引きこもって、もう何年もその言葉から過敏に距離を置いてきた。
 「甘え」の一言があまりにもクリティカルな地雷だと公言して、徹底的に言われないようにしてきた。
 そして何より、痛めつけ悩み苦しみ焦燥して、「ここまで追い込まれているのに俺に甘えているというのか」と言わんばかりに自分を追い詰めた。
 俺が過剰に自罰的であるその根本は、「甘えてる」と言われないための自己防衛、或いは自身への先制攻撃だったのだ。
 そうすることで、数年かけて「甘え」が致命的な地雷ワードだという事自体を忘れられる程に、自分の身を守ることが出来た。

 そこに思い至ってみると、ここまでの頑として人を信用しない自分の理由にもすんなり理解が進むのだ。
 俺は、どこまでが「甘え」でどこからが「人を頼る」なのかが区別がつかなくなっていたのだ。
 俺の認識では、「甘え」は人の情を担保に変化を相手に任せる委ねる押し付けるものである。逆に言えば「甘え」じゃない頼み事というのは常に等価以上の貢献とセットに得る援助しか許されない、ビジネスライクよりもう少し厳しいくらいの協力関係しか許されなくなる。
 人間関係にある程度のなぁなぁというか、緩さは必須である。人間関係の中に多少の「甘え」はありふれていて、むしろ一定の心地よさすらあるもののはずだ。
 だが、俺は「甘え」という言葉が恐ろしすぎた。どの程度の緩さを相手に求めて良いか、その許容量が分からな過ぎて、自分を守るために0と見積もるしかなかった。等価以上の貢献を証明しないことには、人に何かを頼れなかった。
 もう卵が先か鶏が先かすら分からない。それと同様に、俺自身にも情で済ませる限度のようなものが、明確に線引かれるようにもなった。過剰にシビアにならざるを得なくなった。

 そうやって、「甘え」というキーワードを元に自分を再解釈すると、少し気が楽になった。
 「甘え」が致命的な一言だった、と過去形で言える程度には、「甘え」に対しての耐性もついてきた。
 「甘え」から身を護るために自分を追い込み続ける必要性も薄まった。
 多少お言葉に甘えたり、借りを作ることを自分に許容できるようになる可能性が見えた。

 何故「甘え」に対しての耐性が付いてきたのかは、今のところそこまでしっくり来る言語化は出来ていない。ただ少なくとも、時間が解決してくれた、なんて曖昧な理由では決してない。
 きっとそれは十分に自分は苦しんだと思えるからで、納得がいくまで思う存分悩んだ末に大抵の人が辿り着いていないような洞察という成果を得たという自負があるからで、日本の状況の悪化とともに同じように考えざるを得なくなった人が沢山居て「ほらな?」と言えるようになったからで、結局のところ「はぁ? 甘えじゃないからな? 俺の本質が隠者なだけだからな?」と言い返せるようになったからなのだと思う。

 そう、改めて思うが、俺の本質は隠者なのだと思う。
 西洋の物語などで出てくる、森の奥に一人で住んでいて、捻くれており頑固で鼻持ちならない、でも賢者として知られている変なおじさん。
 なんでを追求せずにはいられなくて、とにかくやれが全くできなくて、周囲の殆どにその深さを理解されないと苛立ち絶望し見下して、俗世から距離を置いて一人の思考時間を必要とする異端者。
 そう考えると、昔から一定数俺のようなはぐれ者はいるんだろうなと、少し安心する。
 そして、そういう孤独感に苛まれた奴らがたまに表舞台に出てきて革命や暴政を起こしたり、裏に引きづりこまれて厄介な宗教にドはまりするんだろうなと身をもって感じる。げに恐ろしきは人の世よ。

 ともかく、ようやく洞窟の外に完全に体を出せた気はするが、やっぱりそこまで大きく俺が変わることは無いのだとは思う。
 相変わらず傲慢だし、個人主義だし、その思い上がりへの反感を軽減するためにも俺自身が必死であることと、そのアピールは戦略的に必要だと思っているし、情に対するシビアさも変わることも無い。これからもやっぱり人を頼るのは下手なままではあると思う。
 だが、ようやく、30年生きて殆ど生産もせずに隠遁してようやく、俺は動き出す下準備が整ったのではないかという感触はある。
 この30年は遅かったのかむしろ早いのか。人によって評価は分かれるところだろうが、まぁ俺は早かったと思う方が都合がいいので早いだろと思っておくことにする。

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