自己解釈:ニーチェ哲学論(後編

 こちらは後編です。
 まだお読みでない方は下記リンクから前編を先にお読みいただけると幸いです。

ニーチェとキリスト教

日本人には難解

 前編ではニーチェとキリスト教の関係について深く語ってこなかったが、実はニーチェを語るうえでキリスト教、及び神への強烈な反抗心は欠かせない。
 それを分かった上で何故敢えて深く触れなかったかというと、大枠を捉える上では、キリスト教や一神教になじみ深くない日本人にとっては分かりにくくノイズになりかねないと考えたからである。
 実際実はこんな記事を書いておいて私は「ツァラトゥストラはかく語り」を未読破なのだが、それも言い回しが難解なのもあるが宗教批判や国家批判が兎にも角にも多いのが辛いのである。
 今の常識と置き換えれば分かる部分もあれば分からない部分もあり、難解な文章と合わさると読解力が足りないのか知識が足りないのか判別するのが難しくなってきて、参考文献にある入門書を読んで大体得心がいった(理解したとは言えないが)ので一旦それでよしとしているのだ(言い訳
 もしこれを聞いて「にわかニーチェなら意味が無い」と思われるのであればブラウザバックしていただければ良いが、ニーチェの言葉であれ最内翔というニートの言葉であれ、その言葉から何かヒントや切っ掛けを得られれば善いと思っていただければ本記事もお付き合いいただければ幸いである。

ニーチェ先生の人生、概略!

 1844年~1900年
 牧師の夫婦(当時の知識階級)の間に生まれ、第一次世界大戦前に亡くなる。
 大学へ進学した後、若くして教授職に推薦される。その後35歳で教授職を辞するまでにワーグナーやショーペンハウアーといった人々と交流する。
 齢38歳でルー・ザロメという女性に恋をし熱烈に求婚するが振られる。その後反動で『ツァラトゥストラ』を書き上げる。この辺りで妹やルー・ザロメが結婚してたりする。
 規則正しい生活を続け、ツァラトゥストラ4部と、それの解説本にあたる多数の著書を記す。
 1889年1月3日、45歳の時にトリノのカルロ・アルベルト広場で昏倒。以降発狂したまま実家で療養を続け、55歳で死去。

 時代背景としては、日本で言えばペリー来航から明治維新、日清戦争までの頃を生きた。プロイセン(後にドイツ帝国)で生まれたので基本的にドイツの周辺で活動。
 未だにキリスト教的価値観が絶対的な中(特にニーチェは牧師の家の生まれ)、世俗的には帝国主義が活発になっていく時代を生きた。
 もっと詳しく知りたい方は調べてね(雑

ニーチェ先生のキリスト教批判、要約!

 人が生きていくうちに苦悩はいくらでもやってくる。
 何度も苦しみや絶望に出会う度に人は何故生きなければならないのか、その意味を求める。その意味を見出さずには、この世界は苦しすぎるから。
 その意味を現世に見いだせなかった過去の哲学者は、それをイデアという別次元に求め、それを吸収したキリスト教が死後に行ける天国という分かりやすい場所として提示した。
 そしてその天国に行くためには「隣人愛」という綺麗な言葉だ。
 また、人は共同体で生きていくために押し殺すべき感情も沢山持っている。そしてその持ってしまった「隣人愛」に反する醜い感情は罪悪感を生み、解消できないそれは負債となる。だが大丈夫、その現在はキリスト様が代わりに背負ってくれるから。
 このように否定できない「天国」という餌をチラつかせ、「隣人愛」という枷を人々につけ、そこから生じた負債をキリストが代わりに背負ってくれるという巧みなマッチポンプ戦略で人々を洗脳したのがキリスト教である。

 この隣人愛とは人に優しいと言えば聞こえがいいが、結局のところ利他的行為を善しとする奴隷道徳だ。元々弱者が強者に虐げられてきた鬱憤(ルサンチマン)を抱えた人たちに広まった宗教だ。そんな人々の恨みが、皆が自分と同じような苦しみを味わえと願ったものが禁欲主義へと変わっていったのだ。

 キリスト教は人生について回る欲と苦悩を、ともに穢れたものと貶める。そうして否定し、死後の世界をこそ聖なるものと説いた。そう思うならゴタゴタ言わずに自らの意思で死にに行けばいいのに。まぁでもあの神父やシスター達も哀れだよな。自分たちを縛り付け痛めつけてる相手を神様だなんて呼んでいるんだから。

キリスト教批判、筆者の解釈

 一部ではないが、大体こんな感じである。念のため言っておくがこれは筆者の最内翔の理論ではなくニーチェ先生の言葉である。私はここまで攻撃的に否定できる程キリスト教を知らないし興味もない。
 だが、キリスト教はともかく、この批判の根底で一貫している思想に関しては私も大いに共感出来るのだ。それは

生の肯定。現世での苦しみも含めた丸ごとの肯定をこそ、目指すべきだ。

 という考えだ。
 正直これは完全な意訳であり、ニーチェの本意である保証は無いのだが、私は以下のように解釈している。


 神は死んだ。もう生を慰めてくれる存在は居ないのだ。
 そう、慰めだ。人生はただ生きるのには辛いことが多すぎる。それ故に人類は哲学や宗教に慰めを求めた。それは当たり前のことだ。
 だが、今世の中で絶対とされているキリスト教は何と言って慰めた?
 自分の欲望を抑え、死後の為に徳を積みなさい?
 あんまりじゃないか、今を生きる現世での救いを諦めるばかりか、更に苦しみを上乗せするなんて。
 その結果を見てみろよ。皆死後のことばかり考えて今の自分を生きる意志を失ってしまってるじゃないか。
 なぁ、いい加減気付いただろう。哲学によって思考の研鑽を積み、科学によって神秘が解き明かされた今、神は死んだのだと。
 絶対の真理や自分が苦しんでまで生きた意味、直線的な時間軸の先に現れる理想郷。そんなものは何処にもないんだ。誰もそんなもの保証してくれないのだ。

 ならこの世は救いが無いのか?
 いや、そんなことは無い。前提から間違っている、いや間違わされているんだ。
 苦痛は、悩みは、欲望は悪なのか? 自分が歩いてきた軌跡を自分で否定してどうする!
 確かに辛かっただろう。自分の醜さを恥じただろう。でもそれでいいじゃないか。私たちは神ではない。超人にも未だなれない未完成な途上の生物だ。
 だからこそ紆余曲折の末に少しでも超人に近づけるよう、そして超人が生まれるための足場固めを頑張るのが楽しいのだ。
 そんな壮大な目標の途中では自らの欲求を満たすのも時には素晴らしい事だ。特に音楽や恋愛はいいぞ! とても美しく刺激的で、生を実感させてくれる。
 そうやって、苦悩も喜びも含めて丸っと楽しんだらいいじゃないか。
 例えこの時間軸が繰り返されるものだとして君が何度も君の人生をやり直すことになろうとも、その旅に最期に「あー良かったな!」って笑えるくらいに!
 君を肯定できるのは隣人ではない、君自身だ!
 そして君自身を肯定できるように磨くためには切磋琢磨できる最高の友人が必要だ。
 禁欲と献身で自分を殺すくらいなら、最高の友人と恋と音楽を見つけて、何度繰り返そうと喜べるような不完全な人生を楽しもうじゃないか!


永劫回帰

 察しのいい方は気づいておられるだろうが、実は後半はまさに永劫回帰の考え方だ。
 人生が繰り返すものだとしても肯定できるよう生きること。これがニーチェの言う、生き方の処方箋である。
 ただこれは正直中々に難しい。繰り返す前提で悔いのないように生きるのも(おそらくニーチェはこちらの意図は薄かったと思われるが)難しければ、人生の苦難を超える喜びを体験するのだ!と言った所でそれもまた非常に難しい。
 そのため筆者自身、永劫回帰の思想に関しては理解は出来るがまだ得心はいっていない状況である。

補足:ニーチェ哲学に対するよくある批判

 ここまで読んだ方の中には「つまりニーチェ哲学ってインテリが言い繕っただけの自己中心的快楽主義かよ」と思われる方もおられるかもしれません。
 だがそれとは明確に異なります。
 ニーチェは快楽や欲求を持つことを肯定していますが、だからといって無分別な実行を肯定はしていません。
 あくまで「○○したい。でもすべきでない」という葛藤を肯定し、またそう感じたことを肯定しているだけで、思念と実行は別物です。
 そういう意味では、逆説的にニーチェ哲学は常識や良識といったものを前提として必要としているとも言えます。

 またその思想の一部には「進歩した優秀な人間の誕生に人類は尽くすべきである」といった超人思想があり、これは全体主義とも曲解されかねないものです。
 実際この思想は後のナチスに利用されたという説もあるそうですが、ニーチェ自身が全体主義だったと考えるのは早計です。
 キリスト教が精神の視点に重きを置いたため、その反動で肉体に重きを置いた結果、超人という個体を理想に置いたと後に解釈されています。

ルサンチマン

 さて、キリスト教批判と永劫回帰の思想を解説した上で、ようやく前半の最後の問題「何故『最も大事なことは超人を目指し続けること』なのか」の解説を始めようと思う。

 それを解き明かすキーワードは先ほどからチラチラと出てきている「ルサンチマン」という言葉だ。
 改めてこの言葉の意味を説明すると、

 ルサンチマン
過去や現在の代えられない物事(親、学校、社会、過去のダメな自分など)を恨み、呪う心の動き

幻冬舎 知識ゼロからのニーチェ入門 竹田青嗣,西研,藤野美奈子(画)

 その根っこにあるのは「こんなのは絶対に受け入れられない。でもそれを変える力は無い」という無力感であり、この復讐できない恨みは攻撃対象を求める。
 つまり、何かを「悪」とみなして攻撃することで、自分には仕方が無かったのだと自己正当化を呼び起こす。
 そうやって自己正当化をして自分に出来たことを試行錯誤することをやめた隙に、キリスト教は巧妙に入り込んで天国という無責任な救いをもたらした。
 一つ、例を挙げてみよう。


 Aさんは母子家庭で育ち、母親はずっと仕事に行っていたのに世帯収入が低かった。兄弟も多かったのもありAさんは高校に行くことも出来ず鼻の女子高生時代をバイトで過ごすことになり、18を超えたら夜の仕事をすることに。
 学ぶことも出来ず、学が足りないためこんな仕事に就くしかなかない己を恨み、やがてそれは社会への怒りとなる。どうしてもっと福祉などで支えてくれる制度が無いのかと。
 そんな時一人の男性客と出会う。彼は言った。
「君はこんなに苦労してきたのだから報われるべきだ。僕と結婚してくれたら一生幸せにするよ」
 自分を分かってくれた嬉しさに舞い上がり彼女はすぐに頷いた。
 だがあんなことを言っておきながら何だかんだ理由をつけて中々入籍をさせてくれない。
 彼に与えられた安アパートに住み最低限の生活費はくれるので生活に困らないのだが、やれ男と会うな、やれ食べ過ぎて太るななど色々注文の多い男だった。
 そうして何年も待っている間に、彼は呆気なく死んだ。別の女性に刺されて。


 第一、第二段落がどうしようもない自らの境遇への不満、ルサンチマンである。
 そして出会った男がキリスト教だ。彼は苦しい境遇にある彼女こそが救われるべきだという甘い言葉を吐いて自らを信じさせ、後に結婚という理想郷を用意した。
 ただ今現在の問題を大きく改善させることなく多くの注文を付けて縛り、挙句自らの業によってあっさりと死んだ。
(無論ニーチェ的キリスト教感であり個人の感想ではないので怒らないでキリスト教徒さん)

 この場合、Aさんはどうするべきだったのだろうか。
 ルサンチマンというのはあまりいい言葉ではないように思える。であるなら自らの境遇を恨むこと自体が間違いだったのだろうか。
 彼女の生まれは確かに不憫と言えるだろう。だが恨むばかりで奨学金を探すことや本当に支援してくれる制度が無いのか探すことを怠ったとも言える。
 これは「自分に何が出来たか、出来るのか」を怠ったというルサンチマンの悪いところとも言えるだろう。
 ただ、やはりだからといって彼女を責めるのは酷だと思う。自身の不遇を呪うのは人として自然の反応だからだ。
 故にニーチェは男を批難した。弱者こそが救われるべきだ、皆が平等であるべきだなどという甘言で惑わしてきたキリスト教を。大人になり社会を知った上で改めて自分の生き方を考える機会を奪った存在を。

 もしこの時点で彼女が永劫回帰に従い人生をやり直すことになったとしたら、しかもその男性についていってしまうことも変えられないのだとしたら、きっと彼女は嫌だろう。
 ならどうしていれば永劫回帰が起こるとして是といえたのだろうか。それはやはり自分の意思で何らかの支援機関を頼る手段を見つけられた時か、或いはいっそ、そういった経緯で夜の仕事に就いていたとしても、それを誇りに、肯定して生きているかでは無いだろうか。
 でもそう言われてもきっと、殆ど人が「いやいや、そう出来ていたら苦労しないよ」と思うはずだ。
 なら何故多くの人がそう上手くやれないのか。
 その原因をニーチェはやはりキリスト教に求めた。
 キリスト教の提示する善とは「利他、親切、忍耐、勤勉、謙虚」といったものだ。これらの精神は確かに人間関係を円滑にするだろうが、同時に「自分を殺し、その代わり他者に認めてもらう、助けてもらう」のが当たり前だと考える危険性を孕んでいる。これをルサンチマンの欲求を満たす奴隷道徳と呼び、主体性を手放すのを善しとする誤った洗脳であるとニーチェは否定した。
 本来人間の持いる主人道徳では、「高貴、力強い、無条件の自己肯定、自分で価値を決める、生命力に溢れる、誇り高い」といった要素を善いと感じるが、それをキリスト教は「権力を持っている、横暴、傲慢、自己中心的、危険、高慢」などと言って貶め、思うことすら咎めた。
 そしてこの主人道徳であれば、本来他者の肯定など必要ない。無条件に己を肯定できるからだ。そうやって自分を肯定出来た時、やっとルサンチマンを克服し「この辛い状況で、自分に何が出来るのか」を前向きに考えることが出来るようになる。
 そう、誰もがぶ経験するルサンチマンに対するアンサーこそ、自分なりの価値観を見つけそれを体現する超人を目指すこと。そしてその誕生のための礎となることであり、力への意思に従って世界を認識することが肯定される理由なのである。

永劫回帰と力への意思

 それ故に彼は繰り返し説くのだ。力強く、自らの意思で生きよと。
 未だ超人ではない私たちは、沢山の失敗や苦悩や欲望に出会うだろう。
 その中で寄る辺を失い全てを悲観し達観するニヒリズムに捉われることもあれば、ルサンチマンに陥り世を憎むこともきっとある。でもそれでいいじゃないか。それでこそ、いいんじゃないか。
 唯一の絶対的真理、そんな分かりやすい答えなんてない。なら逆に言えばどんな答えをあなた自身が出したとて、他の全ての答えと同様不正解なのだ。
 勿論好き勝手に生きることが力への意思ではない。考えても実行に移さない良識があなたにはあるはずだ。そして思念と行動の狭間で思い悩むと良い。少なくとも考えること自体を恥じる必要は全く無いだろう。
 その苦悩も欲望も糧として、自らの意思で自らが望んだ境地に至れたのなら、きっと何度同じ人生を繰り返すことになろうとも全部ひっくるめて肯定出来るようになるだろう。
 だから力強く、自らの意思で、自らの肉体と精神が欲する通りに生きよ。
 どうせ元々歪んだ認識なら、自らの進む道のために意図的に歪ませて認識してしまえ。
 結果として君がニヒリズムに捉われず、ルサンチマンを克服し、赤子のようにただ『然り』と世界を肯定出来たのであれば、それが君の勝利なのだから。

終わりに

 自己解釈:ニーチェ哲学論は以上である。
 最初に述べたようにあくまでこれは自己解釈で、なるべくニーチェの本意に沿うように解説してきたが正しい保証はない。
 勿論誤っている点があれば指摘していただければ幸いだが、別に間違ったことを書いていたとしても悪いとは思わない。
 何故かはここまで読んでいただいた方なら分かるだろう。
 ニーチェの本意であろうと無かろうと、その知見は間違いなく私自身の血肉となり、思考の柱となってくれた。そうして築き上げた自分自身の哲学が自分の人生の支えとなってくれているのであれば、何も問題ないのである。
 読者の方々も同様だ。これがもしニーチェの言葉ではなく最内翔というニートの言葉だったとして、それがあなたの支えとなれるのならどちらの言葉なのかなど関係ないのだ。
 ただし学術的な意味では間違っていた場合大いに問題ありになってしまうので、それ故に繰り返し鵜呑みにしないで確認して欲しいと言っているだけなのである。

 ニーチェ哲学についての解説は以上だが、次回はそこから発展した完全なる私理論も書こうと思っているのでご興味があればご一読いただきたい。
 個人的にはそこまでキリスト教を目の敵にしているのに「?」って感じだし、今回も少々誤魔化していたが理想の体現を自分以外の未来の超人に託すという理論も腑に落ちない。「女性は超人を産むことが生きる目的だ」なんてのもちょっと時代を感じるし、まぁ大本は大賛成なのだが表層でちょくちょく食い違うのだ。
 また独自解釈の色が濃くなるので避けたが、途中で例に挙げた「ゲームを例にした観測と真理の関係」のような現代的な例も幾つか挙げようと思っているので、そちらも興味を持っていただければ幸いだ。

 最後に、ニーチェ哲学に興味を持った一人として、別の哲学者の言葉を記して、この文章を締めようと思う。

人間は自由の刑に処せられている。

ジャン・ポール・サルトル(1905~1980)

参考文献


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