生きていればきっと良い事がある

「生きていればきっと良い事がある」

 とても小綺麗な言葉がある。そしてこの言葉は大抵の場合「だから諦めるな」とか「死ぬな」と続く。
 俺はこの言葉が好きだ、いいやそんなわけがない、嫌いだ。この言葉を言う人が居れば、曖昧な笑顔の下に少々の憎悪すら隠す事になるだろう。
 もしこの言葉を吐く人間が居たら、「あなたは気が付いたら5年経っていたことがありますか?」と問いたい。それに否と答えるのであれば、俺は見せない溝が出来る。

 ここ最近つくづく思うのは、「現実なんてクソゲーだ」ということだ。
 理不尽も多く、チュートリアルも何年前から更新してねーんだよって感じで、何よりログアウトが出来ない。バランス調整も崩壊しててメタに合わなかったりビルドミスったら一生やり直せない。余程のことがないと、その負債を抱えて底辺プレイヤーを宿命づけられる。何よりもキャラリメイクすら許されない。
 多くのクソゲーに対して出来る最大の抗議、プレイを放棄することが許されないのだ。
 現実とゲームは別物だ、なんて行間も読めない人とはきっと相容れないだろう。現実とゲームは同レベル、同格のものだ。いや、そうあるべきだというのが、俺の考えだからだ。

 どうしてそう皆、この現実を特別視したがるのだ。
 VRすら民間の娯楽として広まりつつある現代で、五感と経験で世界を認識する人間に実体の有無にどれだけの価値がある。
 過剰な特別視と死という選択肢の消去こそが、一番人の視野を狭め、追いつめるのに。

 この現実というクソゲーが、どれほど苦痛に満ちたものであるかは今更議論する余地もない。お釈迦様だって言ってるし、様々な偉人達も口を揃えて人生の苦悩を語っている。
 「甘えるな、これが現実って奴だ」という言葉は、「クソゲーをプレイ放棄せずやり続けろ」という言葉に等しい。
 年上が年下に言うときなんて最悪だ。自分たちが肯定したせいでクソゲーなままのゲームを押し付けているということなのだから。

 だが俺個人がこのクソゲーを辞めたいと思っているかというと、そうではない。むしろまだ終わりたくないとすら思っている。
 それはこのゲームが、情報量とプレイ人数という二点において、他のあらゆるゲームを圧倒的に凌駕しているからだ。
 このゲームは間違いなくクソゲーの部類だ。だがしっかりと自分のやりたいことを見つけて、自ら考えそこを目指すことが出来るなら、その圧倒的な情報量と、十二分すぎるプレイ人数に支えられたランダム要素や多様性が、そして変わりのない唯一性が、まさに真似の出来ない自分だけの物語を生むからだ。
 なら何故それでもクソゲーなのか。
 端的に言えばヘビーユーザーしか楽しめないのだこのゲームは。
 ライト~ミドルユーザーが楽しめないまでは言わないが、そのレベルのやりこみ度合なら確実に他のゲームの方が楽しいだろう。
 生まれた意味なんて最初から無くて、自分で見つけ出さないといけないなんて。
 人それぞれ見ている世界が違うなんて。
 変わらないものは何一つ無いなんて。
 でも自分が動かなければ何も変わらないなんて。
 そんな当たり前でどこかで聞いたような言葉の意味を知るのに一体何年このゲームを続けなければならないのか。例え気づけたとしてもその時にはどれだけの縛り要素が追加されているのか。
 他のゲームをやっていた方がよっぽど楽しく、ストレスフリーなはずだ。

 だから俺はこう言いたい。こんなクソゲー、プレイ放棄するのも選択肢の一つだと。半端なやりこみ具合で楽しめるゲームじゃないんだと。とても残念だけど、それを選ぶ権利はあなたにはあると。
 でももし、もし生きるか死ぬかの選択肢を前に、自分の意思で生きることを選べたのであれば、その先で生きる意味を見つけられるかもしれない。幸福は用意されていて当然のものではなく、苦痛こそが用意されていて幸福は自らつかみ取りにいかなければならないものだと理解出来るかもしれない。
 国や教育や文化は、個々人の幸福を保証などしていないのだ。ただ待っているだけで享受できるほど安くは無いのだ。そんな当たり前に気付くのに、俺は30年近くかかった。
 だがそんな、人が一生をかけて見つけられるか見つけられないかというくらい稀少であるが故に、幾らでも転がっている苦痛を乗り越えるだけの価値が生まれるのだと。(まぁ俺はまだその予感だけで見つけられてはいないが)

 だから、そう考えているからこそ、「生きていればきっと良い事がある」なんて安い言葉には反吐が出る。
 勿論多少は良い事もあるだろう。だがその総和が苦悩の総和に勝ることはまず無い。基本収支マイナスであるこのゲームを逆転させるには、相応の悩みと地獄を超える必要があるはずだ。
 普通に生きている人には、もしかすると意図せずその山を越える機会がやってきて、たまたま逆転を起こす可能性があるかもしれない。
 だが、引きこもっている限りその可能性さえ0に等しい。止まった時間の中にいる限り外部からの偶然なんて殆ど起こりえないのだ。ダイスを振らなければクリティカルもファンブルも出ない。NHKから美少女はやってこない。
 俺が今予感し、目指しているものがそんな受け身で偶々手に入る安いものだなんて言いたくないし、思いたくない。

 あらゆる偉人が、ビジネス書が言うように、俺自身も思う。
 死を意識し、可能性や選択肢として捉えない限り自分の生を肯定出来ないと。自分が生きていることが当たり前ではなく、いくつかあり、いつか終わる道の途中でしかないのだと気付けない。
 これは決して、死ぬしかないと考えることとも違うし、死んではいけないと考えることとも違う。
 両方が有り得る未来と仮定した上で、己が意思で生を選び取らないと、その先には繋がらないのだ。

 「生きていればきっと良い事がある」なんて俺は言いたくない。でも、だから死んでもいいんだなんて寂しい事を言いたいわけじゃない。
 より良い未来は当然にあるものではなく、血反吐を吐いて掴み取りにいかなければ手に入らないものであると知った上で、まずは自らの意思で生を選び取るべきなのだ。

 そんな勇気が無いというあなたに朗報だ。
 こんなクソゲーでも、少しずつは改善されてきている。何故ならこれをあなたが読めているから。
 大した上流階級でも無い俺がこれを考えつけるくらいには知識が溢れていて、生活保護であろうと生きることを許され、検閲によってこんな過激な文章が消されることなく、同じく特別でもないあなたが無料でこの文章を読めている。
 クソゲーのメタに合わなかった、或いは成長方針を間違えた、或いは単に生まれや時期の運が悪かった、それだけで死ぬことは無く、そんな人たちを生かそうと上っ面だけでも言われている。
 こんなクソゲーおかしいだろうと、ただのクズニートが主張しても多少白い目で見られるだけで済む。
 俺たちの生きているこの時代では確かにまだクソゲーだ。だが人類は前に進めていると、歴史が教えてくれる。
 世の中は苦悩だらけで、欺瞞だらけだ。でも探せば善意は確かにある。
 だから久しぶりに挑戦してみるのはどうだろうか。
 なに、問題ない。ここで一度「続ける」を選んだところで、「ゲーム終了」の選択肢が消えるわけじゃないのだから。

追記
 因みに俺は「Angel Beats!!」というアニメを見て最初この選択肢に気付きました。
 いいアニメだから皆見てね!

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