金と信用

 唐突だが、お金が欲しい。

 いや、誰だってそりゃお金が欲しいし、俺だって何時でもお金が欲しい。
 にも拘わらず何故突然そんなことを言い出したかというと、いい加減俺のスマホが限界だからである。

 俺がスマホを買い替えたのは四年前、まだauで働いていた時で、スマホなんて3年半が大体寿命。4年も使っていると当然動きが怪しくなり、何時データが消し飛んでもおかしくない。
 まぁなら分割で買い替えろって話だが、その分割の審査が通らなかったというのが、今回の話である。

 おそらく携帯ショップに限らないと思うが、分割払いを組むには与信審査がある。
 よく考えてみたら当然なのだ。分割というのは実質的にはお金を借りているということなのだから。
 そしてその審査は、当然収入が安定していて何の借金(家のローン等含む)もしていない人が最も通りやすく、大きな金額も借りられる。
 もしローンを沢山組み過ぎていたり、クレジットカードの利用でやんちゃしてたりすると、意外と普通の人でもひっかかったりする。(働いていた当時だと10万が一つのボーダーだった)
 ただ基本的には10万以下のスマホの分割は、経験上よっぽどのことが無い限り通っていた。
 そのよっぽどに引っかかって分割を組めなかったのが、俺である。

 まぁそれは別にいいのだ。
 いや、良くないが何だかんだ言っても状況は変わらない。
 スマホを買えなかったことで暫く忘れていた感覚を思い出したという話である。


 信用。
 難しい価値観だ。
 例えば初めて話す相手が信用できる相手かどうか、何で判断するだろうか。

・紹介
・見た目
・肩書
・資産
・実績
・経歴

 大体こんな感じの順番じゃないだろうか。
 誰か共通の知り合いが居れば大きく信用度は変わるだろうし、それが無ければまずは第一印象。
 その後その印象を補強するためにその人の肩書(とそのポストの高さ)、日本では聞くことは少ないがまぁ身なりから判断する資産、実際に何をやってきたかの実績、実績というには満たないその他の経歴。
 多分心理学系でこういうのは研究されているだろうが、その確認はまぁ別にいいや(おい元心理学部生)。

 こんな感じだと仮定して、やっぱり改めて俺って社会的信用ねぇな、と思うのだ。
 見た目はこの通り冴えない背も低いオッサンでしかないし、服もヨレヨレ。
 肩書は「無職のアラサー男性」で印象悪くしかしないし、資産が無いどころか与信審査に最低レベルで引っかかるレベル。
 実績? 経歴? 空白多いわ一番最近の仕事は3か月で辞めてるわ、やっぱりマイナスでしかない。
 そして最後に残った資本、自分自身の肉体と精神もズタボロ。

「こんな状況で私に何が出来ようか。いや出来ない(反語」

 みたいな感覚は多分、引きこもりの人の多くが覚えのあるものだと思う。
 というか多分、俺でさえ「お前はまだ戦える方だろう」と思われてるだろう。

 この社会的信用ってのは、やっと自分本位の考え方を取り戻しつつある俺に非常に重いボディーブロウをぶち込んでくる問題だ。
 幸い一撃で打ち倒されずに立てているが、このままではダメージの蓄積でまた倒れてしまいそうな程の。

 最近ようやく自分のやりたい方向が見えてきて、そこに向かって何をすればいいのかを考え出した時、当然のことに気付く。
 一人では無理がある。
 それは知識的にも、マンパワー的にも、人脈的にも、金銭的にもだ。
 もし本当にやりたいことを目指すのであれば、俺は教えを請い協力を頼み、ゆくゆくは出資を募らなければならない。
 それを考えた時毎度立ちふさがるのが、自身の社会的信用だ。
 本来教えを請うのも協力を頼むのも、相手の手を煩わせる以上対価、基本的には料金が必要だ。それすらも無い状態で手を借りるには相手の好意に頼るしかない。それが出来なければ、将来回収できるという打算を引き出すための説得力が無ければならない。

 何かを始めるとき、最初から全部必要な要素が揃っていることは少ない。
 資本主義社会である日本においては、分かりやすく新事業の開設などであれば、銀行にお金を借りて、その資金で諸々調達するのが基本なのであろう。
 ただスマホ代数万円の分割すら組めなかった俺には遠すぎる話。
 似た話で言うならクラウドファンディングなどでスポンサーを募ることだろうが、無名の人間に人が投資してくれるわけがない。
 結局分かりきっていたことだが、お金で諸々の条件をクリアするという手法は使えないわけだ。
 なら恥ずかしながら、相手の好意に甘えて、本来料金が発生してもおかしくないようなことも無料、あるいは格安でお時間を貰うしかない。
 だが好意に甘えるには当然ながら相手に好意を持っていて貰わなければならない。

 それは、どうやって?

 本当のことを言うと、実は今現在は別にそこで躓いては居ないのだ。
 幸運にも、そして文字通り有難いことに、手を貸してくれる方や、道を示してくれた人が俺には居た。今は道が途切れず続いている。
 じゃあ良いじゃないかと思うかもしれないが、なんというか収まりが良くないのだ。
 たまたま俺には道が繋がった。道を繋げてくれる人が居た。
 これは本当に幸運なことで、つまり俺が引き寄せた道ではない。
 勿論俺が行動したから、それを見てくれていた人が道を繋げてくれたのだ。それは分かっているし、自信を持っていいと思っている。
 でもやはり、「俺が行動していた"から"道を繋げてもらえた」、ではなく、「見ていた人が好意を持ってくれた"から"道を繋げてもらえた」のだ。
 直截に言うと、これから先で「自分の力で相手の好意を引き出す」という再現性が無いのが怖いのだ。
 こういうと、人の好意に付け込もうとする悪人みたいに聞こえてしまうだろうが違うんだ。
 自分の人生で重要なポイントの、その手綱が自分の手に無いのが怖いのだ。
 もし次回以降幸運が訪れなかった時、自分で引き寄せられなかったらと思うと怖いのだ。
 伝わるかな……

 具体的に言えば、本来であれば
・「色んな場所に顔を出し、母数を増やす」
・「色んな人に声をかけ、仲良くなる」
・「相手の話を聞きだして、その上で自分の話に興味を持ってもらう」
 こういった、1%の試行回数を100回繰り返すことで幸運は引き寄せるべきだ。
・「実績を積む」
・「人脈を増やす」
・「相手の為に何か尽力する」
 こういった、1%を5%や10%に引き上げることで幸運は引き寄せるべきだ。
 それが、幸運を掴むために自分自身が出来る努力だ。

 だが、こういった自分でできる努力をする前に今回は、幸運にも道を繋げてもらえている。
 勿論繋げてくださった方々には感謝しかないし、他意があるわけでは勿論無いのだが、それでも自分自身が怖いのだ。

「今回は運がよかったな。だが次もそう上手くいくと思ってるのか?」
「『きっと誰かが君のことを見てくれているよ』(笑)」

 そんな声が密かに、しかしずっと心の中で響いているのだ。
 勘違いするな。お前はまだ社会的信用0どころかマイナスのクズなんだぞ、と。
 これは幸運でしかなく、他の人の参考になりはしないぞ、と。

 どうなんだろう。己が幸運を素直に喜べないのは俺が期待という感情を失い過ぎているからなのだろうか。それとも皆そんなもんなのだろうか。割と分からない。

 まぁ間違いなく、俺自身がこんなにも怯えているのはひねくれて居るからだろう。
 基本的に人に期待をせず、出来ない、しない、分かってくれないことを前提にして、示し合わせたことをやってくれたのならそれだけで喜ぶ。
 確か高校生くらいの頃にはこう考え始めていた気がする。

「だってそうしてた方が、裏切られた気になる事がグンと減る代わりに些細なことで喜べる。良い事尽くしじゃないか」

 そう、裏切られるのが怖くて、自分の心を守るためにやり始めたことだった。
 そしてその弊害に気付くころには、この考えが染みつき過ぎていた。

 だから今、幸運に際して心がざわついているのは一種の防衛本能なんだと思う。

「最近調子に乗っているようだが、忘れるなよ。それはお前の功績じゃない。幸運だ。お前は未だ分割も組めない社会的信用マイナスの人間だ。望外の幸運などを当てにするな。待っていれば誰かが助けてくれると勘違いするな。今のお前に好意的な人の方が圧倒的に少数派なのだ。故に、力への意思を忘れるな」

 うん、多分これが今の心のざわつきの原因なんだろう。
 以上。

P.S.
因みにこれはストイックなんて格好いいものじゃなくて、ただただ臆病なだけです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?