オンライン授業と不登校について

オンライン授業だけでいい、は言い過ぎだと思う

 Twitterでは引きこもりだけではなく、近しい問題である不登校の当事者、ご家族のTwitterもフォローしているのだが、そこでチラホラとオンライン授業についての話題が出ていた。
 引きこもっていると日にち感覚がぶっ飛んでくるんだけど、よくよく考えてみると今は9月、つまり夏休みが終わった学生達が学校に通い出した時期なんだよね。
 引きこもりや不登校には千差万別の原因とケースがあり、その中であくまで個人的な意見であることを繰り返し前置いた上で、この件に関しての私見を述べていこうと思う。

 当然の話として、僕が学生の頃にはオンライン授業なんて概念は無かった。携帯を持っていったら没収される時代だったし、そもそも不登校は殆ど経験していない。(せいぜい保健室登校が少しあった程度
 そんな僕だが、結論から言うとオンライン授業も出席とみなすべきというのには同意見ではあるが、だからといって登校する必要が無いというのには素直に同意出来ない。

 正直教育はなんぞやってのを語りだすとあんまりにも風呂敷が大きくなるのでその辺りは気を付けないといけないんだけど、学校教育の役割は二つに大別できると思う。
 そんな大した分け方じゃない。「勉強」と「集団の中での生き方」の二つで、ようは勉強はともかく、「集団の中での生き方」は登校しないと学べないという話。
 不登校ではなく引きこもりの当事者として、物凄く当たり前な結論を言う。

「レールから外れたらまともな人生送れないよ」

 まぁ怒らないで待って欲しい。
 そんなありきたりな脅しで学校に行けなんて、短絡的な結論は言わないから。

 まず単なる事実であったこととして受け入れないといけないのは
・学校教育では過去の知識と、出された問題の解き方しか教えてくれない
・社会人に必要なスキルは新人教育で社会に出てから学ばなければならない
・高卒、或いは大卒のタイミングを逃すと正社員として新人教育を受ける事は出来ない
・つまりレールから外れると「中途採用」として「必要スキル」を持っていないと正社員にはなれない
・つまりレールから外れると「非正規雇用」=「出された課題を処理するための、替わりの効く消耗品」にしかなれない

 勿論例外はある。例外はあるがそれは運と自分自身の頑張りの両方が揃ってこそなので、安易に考えるべきではない。
 基本的に一度レールから外れた人間を教育して使おうというお人好しな企業なんて殆どない。
 「未経験でも大丈夫!」と謳ってる求人は非正規雇用か入れ替わりの激しい、肉体的精神的負荷の大きい企業かのどっちかだ。
 消耗品としか見れくれない。
 そうならないために戦力となるまで育てて貰うには基本的にレールから外れてはならない。
 因みに企業の欲しい、レールに従って育ってきた『正規品』ってどんな人間か。
 それは
「円滑なコミュニケーションが出来る、与えられたタスクを処理できる人間」
 つまり使いやすい部品が欲しいわけだ。

学びにはコストがかかる

 何年前の話だ、今は時代が変わってるぞ、だって?
 そうだね、今のは「事実だった」話だ。
 コロナで大企業でさえ変化を求められ、テレビからYouTubeの時代に変わり、BtoBだけでなくCtoCの仕事が注目され、独立や個人事業主も増えた時代。
 必ずしも大企業の正社員になることが正解とは限らなくなった時代。
 誰もが大きな時代の変化に目を回し、模索している時代、それが今だと思っている。
 だから前言を撤回するわけじゃないけど、別に「レールを外れて、いわゆるまともな人生が送れない」のは確かに問題は無くなってきている。
 じゃあ学校に行かなくていいのかというと、実はそうはいかないと思っている。

 今僕も、独立して自分で仕事が出来ないかを模索している所だ。
 そして至極当然のことにぶつかる。企業に属していないのであれば、あらゆる業務を自分で出来なくてはならない。
 営業、折衝、スケジュール管理、実務、確定申告、法チェックetc...
 それらを学ぶ方法はネット上に数多あるが、逆に言えばいいサービスを見極めなければならないし、

 そもそもそれらを学ぶための費用と時間と、
その期間の生活費を確保しなければならない。

 学生諸君、何回も聞き飽きた説教だと思うだろうけど今一度言う。
 物事を学ぶというのは非常にコストがかかることだ。
 教える側の労力もそうだし、半人前の間の食い扶持を維持する事も。
 その莫大なコストを親と国がサポートしてくれているから学べていることを忘れてはならない。
 そして社会に出てしまうと、そのサポートを辛抱強く出来る体力のある会社はそう多くない、それが今の日本の経済状況だからだ。

 分からない、本当はそんなに厳しくないのかもしれない。やりようはあるのかもしれない。
 少なくとも厳密に言えば、国の職業訓練所などはある。
 でもこれが、20歳の頃から殆ど経験を積んで成長出来ていない28歳から見える社会だ。
 学ばなければ、技術がなければ真っ当に稼いではいけない。しかしそれをするには元手が無く、結局消耗部品として生きていく未来しか見えず。
 かといってただ「生きている」という状況を維持する為だけにすり潰される人生に意義を見いだせなくなる。

必要なのは社交の場

 閑話休題。
 元の話に戻って、じゃあ学校に行く必要とは何か。
 そう、集団の中での生き方を学ぶことだ。
 その昔の貴族たちは、勉強に関しては家で家庭教師たちに教えを請い、同時に社交界デビューして、そこで社交を学んだ。
 学校はそれらを合体させて大多数に学ばせることで一人当たりの費用を抑えるための仕組み、とも考えられる。
 もしここでオンライン授業という選択肢が出てきて、必ずしも学校に通わなくても勉強を出来るようになったというのであれば、可能であるなら社交の場を別に用意してしまえばいいとも言える。

 だがこの社交の場というのも難しい。必ずしも友達で集まればいいわけではない。
・逆らえない目上の人物。
・気に喰わなかったり、理解出来ない考え方をする奴
・発言力があるから忖度しないといけない相手
・面倒を見てくれる先輩、見てあげないといけない後輩
・仲間との喧嘩、口論議論、決別、仲裁
・憧れの異性、踏み込んではいけない距離感
 学ばなければならない人間関係と、その付き合い方は沢山ある。
 それらが学べる場所として、一番分かり易いのが学校なのだ。

 先述した通り、一人で事業をしようとすると限界があるからチームが欲しくなるし、そもそも最低限取引先との関係もある。
 完全に自己完結して暮らすにはご近所付き合いもせず畑を耕して自給自足するしかないのだ。
 そうでない限り、例え時代が進んでもまだ人間関係からは逃れられないのだから。

 じゃあ自分はあの虐められた経験のある学校に、嘲笑の目が蔓延るあのクラスに行くしかないのか。
 いいや、そんなことはないと思う。条件を満たせるのであれば必ずしも学校でなくていいのだから。

挑戦することをやめないで

 大分回りくどくなったね。
 別にオンライン授業でもちゃんと勉強してるなら単位貰えて良いと思う。
 でもそれだけで登校しないデメリットを打ち消せたとは思わない方がいい。
 不登校で悩んでいる仲間のいるコミュニティーでもいい、どこかしらのコミュニティーに参加しよう。
 そこには一癖も二癖もある人達がいて、きっとまた嫌な事があるだろう。
 でも今度はその場所から逃げる以外の対処方法に挑戦してみよう。
 逃げる事は悪じゃない。でも逃げる以外の、挑戦という選択肢を失った人生は悪夢だ。
 学ぶというのは失敗して挑戦するを繰り返すことだ。
 それが出来る学生の時代に、失敗するのは怖いだろうけど、手を変え品を変え、場所や環境を変えてでも挑戦することを辞めないで欲しい。

 そんな風に思う今日この頃でした。

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