社会不適合者こそ哲学に向いている

 『はじめに』でも書いたが、私には一つ確信していることがある。

「世の中の殆どは自分にはどうしようもないし、苦悩が無くなることもない」

 これはその種類や大小の差はあったとしても、乞食から王様まで、或いは生活保護受給者から大統領まで変わらない真実だと思っている。
 そう、大昔から現代まで変わっていない真実だと思っている。
 歴史を振り返ってみればキリスト教や仏教に代表されている各種宗教でも現世の苦しさを語っているし、それが本当に多くの人たちに受け入れられて、そして人生の支えとなってきた。
 そして君たち自身もこの一文を否定することはないと思う。

考えれば考えるほど、人生とは辛いもの

 じゃあ何故人は生きているのか、もっと言うと「何故生きねばならないのか」。
 辛い経験を続けるためには、人は理由が無ければ耐えられない。
 宗教とは、その理由を与えてくれるメジャーな存在だった。
 キリスト教では「原罪を抱えているから人は人生は辛い。でも最後には天国という救いがあるよ」。
 仏教では「人の人生に苦しみは付きものです。でも修行を積めばor仏さんによって涅槃にいけるよ」。
 わりと雑なまとめ方だがそんな感じの救いを示してくれたものが宗教だ。

 それ以外にも様々な方法で人々は自らを癒している。
 お酒で少し心のタガを緩める。ディスコの爆音で思考を鈍らせる。動物と触れ合いその単純さに癒される。愚痴を吐いて苛立ちを整理せず吐き出す。
 こう表現すると何となく悪く聞こえるかもしれないが、本当に他意というか、悪く言っているつもりはない。
 何故なら大事なことだから。
 まともに考え出すと、考えれば考えるほど人生は苦悩に満ちていて、自分ではどうしようもない事が多すぎて嫌になる。
 そうして生きることに嫌気が差していると動けなくなって、食べるのに困ってしまう。
 そうならない為に、考えないというのも一つの生きるための知恵なのだ。

不器用でバカ真面目な奴ら

 ところで、今の文章に心当たりは無かっただろうか。
 そう、私に言わせれば生きづらさを抱えて、うまく社会に適合できない人たちは"余計なことを考える前に引き返せなかった、不器用でバカ真面目な奴ら"なのである。
 その切っ掛けはきっと様々だろう。虐めや性自認、親との関係や発達障害。職場での大きな失敗とかそもそも就活が失敗したとかかもしれないね。
 まぁ何があったかは知らないし、分からない。俺みたいに特別分かりやすい何かがあったわけでは無いのに普通に生きられなかった人もいるだろう。
 それぞれの事情で、世の中の辛さを、痛みを無視できなくなった。
 そして今でも自らの無力を呪い、世の中の不条理を嘆くので精一杯な日々が無意味に流れて行っている人も中には居るだろう。

 そんな人たちに贈りたい言葉がある。私が救われた、とある歌の歌詞だ。


『泣いてる君こそ、孤独な君こそ正しいよ 人間らしいよ』

 思わないか?
 世の中辛い事ばっかりで、生きることは苦しい。
 なのになんで皆平然と生きてられるんだ? まともな神経してたら心病むだろ。


 誰も本当の自分を見てくれない。助けてくれない。興味を持ってくれない。
 他の人が何考えてるか分からない。信用出来ない。怖い。
 頑張って頑張って、いつになったら報われるの? 認めてもらえるの? 楽になるの?


 きっと自分は普通の人たちより辛い目にあってる。
 そんな自分に向かって"大人"達は「皆それを乗り越えてるんだ。甘えるな」なんて言ってくる。
 なら教えてくれよ。
 自分のこの苦しさが本当に人並みでしかないんだとしたら、どうやってこの苦しみをやり過ごしてるんだよ。
 まともな神経してたら心病むだろ。

 少なくとも、俺はそう思ったよ。
 おかしいのはお前らの方だ。"社会人"を名乗る"普通"の"大人"達の方だ。
 少々ネタは古いが、某親善大使も言ってたじゃねぇか。

「俺は悪くねぇ!」

 とある生徒会の会計も言ってたじゃねぇか。

「うるせぇ。バァカ!」

 言ってやればいいんだ。
 小器用に誤魔化してるけど、まともに考えりゃ誰だって人生のアホらしさに気付くんだよ。お釈迦さまもそう言ってる(マジ
 まぁ? あんたらと違って繊細且つバカになりきれない俺たちは? 世の中のクソさに目を瞑れなかったわけなんですけど、それって俺たちの方がおかしいんですかね?

 泣いてる俺こそ、孤独な私こそ、正しいんだ。人間らしいんだ。

ルサンチマン

 まぁ多分、幾らかの人は当然流されずに気付いているだろう。
 今の逆ギレは巧妙ですらない、ただただ強引な論点のすり替えだって。
 君たちの抱えている悩みは、苦しみは、そんな大げさで一般化出来る問題じゃない。もっと個人的で、そして特別なもののはずだ。
 でも、そうだとしても尚、私は伝えたい。それを乗り越えるためには逆ギレが必要なんだって。

 この逆ギレをニーチェはルサンチマンと呼んだ。
 この言葉はフランス語で、「恨み、妬み」を意味する言葉だ。

「過去や現在の変えられない物事を恨み、妬む心の動き」

 自分を責めすぎる私たちは、もう少し謙虚になるべきだ。
 だって自分を責めるということはやり様によっては自分でこの今を変えられたという事だろう?
 残念なことだけれど、君たちに出来ることなんて限られている。
 その無力さを呪った私たちには権利があると思ったらいい。
 「難易度ハード過ぎるんだよボケェ!」と環境を用意した親や社会に怒鳴る権利があると。

 本当は私だってそうやって他人や社会のせいにしたって良くないと思っている。君たちだって本心から他人や社会のせいにするのは難しいかもしれない。
 でもこれは、一時的、自覚的に行うのであれば意味のあることなんだ。
 そうすることで自分を責めるストレスを減らす第一歩となる。
 そうすることで本当に自分が出来たのにやらなかったことが何だったのかを見分ける第一歩となる。

 だから私は君たちに伝えたいと思う。
 『戦略的ルサンチズム』を。

 人生の苦悩から目を逸らせずに、逸らさずにいられる私たちだからこそ。
 自分の心の動きから目を逸らせずに、逸らさずにいられる私たちだからこそ。
 不器用で社会に適合出来なかったバカ真面目な私たちだからこそ、哲学を使って人生を変えよう。
 歴史上の哲学者には引きこもりも多いし、世捨て人の隠者だって悟ってるイメージあるだろ? あれになるんだ。

 大丈夫。人生を変えるのって意外とそう難しくない。
 ただ、色眼鏡を掛け替えるだけで、君の見る世界は変えられる。


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