勘違い野郎の恐怖

 昨日はしばらくぶりに荒れた。というか、未だに燻ってはいる。
 ようやく自分の考え方を終え、自分のやりたいことが見えてきた。
 他人を尊重しつつ、自分の人生を生きること。そうやって考えて生きる人を増やすこと。それが俺のやりたいことだ。
 そんなことを考えて勢いで以下のようなチラシを作ったりもした。

 ただやりたいことは分かってきても、どうすればそれが出来るのか、具体的な方法についてがまだ落ち着いていない。
 友人に試しに俺のやろうとしていることを試させてもらったが、「なんんか話を聞いてもらってスッキリというよりかは、バーッと最内さんの理論を並べられて白けた」という趣旨のフィードバックを貰った。
 まぁその指摘は尤もで、自分でも違和感を感じていた個所ではある。ただ、その上で目論見通りではあるのだ。
 基本的に俺は、何かを教えるつもりは無い。世界観は人によって違うのだから俺の世界観が他人にそのまま適用できるはずもない。ノーマルどころか極端であることが特徴であり、その違和感を辿って自分で考えろと言うスタンスだ。
 傾聴というスタンスでも無い。傾聴によって自分の考えを受け入れてもらうという体験は非常に重要であることには激しく同意するし、そのための支援員やスクールカウンセラーといった人々の担う役割が大きいとも間違いなく思う。が、別に俺がやろうとしていることはそれではない。多分その理由は、俺自身の問題としてはそういう傾聴というアプローチを信用していないからだと思う。
「どうしたの? そうなんだ。辛かったね。うんうん。あなたはどうしたい?」
 まず間違いなく俺の偏見が多分に入っているだろうが、なんというか基本的に肯定ばかりされても信用できないのだ。そりゃ仕事と言うか役割から俺の言う事を肯定して貰えるのは当たり前で、そう表向きはせざるを得ないから本当はどう思ってるのかは不明。言ってくれないから顔色声色から疑ってしまう。そういう捻くれ者なのだ、俺は。
 実際俺の考え方はかなり極端で、普通他の人がパッと聞いてもすぐに頷けるような代物で無いはずなのだ。それを微妙な顔をして言葉を選びながら肯定されても素直に喜びようもない。
 だからそういう「傾聴による受容」が大事でありそういう役割を担う人たちが存在するという前提で、そういう肯定を素直に喜べない俺みたいな捻くれ者に対する別アプローチを提供する。
 と、いうのが建前だ。

 分かってはいるんだ。
 詰まる所、俺は俺が歩んできた苦悩の道を他の人にも味合わせて、どれだけ大変なのかを思い知らせたうえで、踏破した俺の凄さを思い知れと言いたいだけなのだ。
 だから俺は自分のご高説をペラペラと宣っているだけだ。相手の為になる最適解を考えているわけではない。あくまで俺の欲求を満たしつつそれをうまく需要に合わせられないかというだけの自己中心的な視点だ。だが、それの何が悪いんだ。
 聞きたがってもいない他者に考えを叩きつけるのはくだらないと思う。だからそれを聞きたがっている人間を探そうとしている、それだけだ。
 というか世の中の殆どが他人のためとかいって、その行動の源流は「自分が○○したい、と思いたい」でしかない。例外は無いとまでは言わないけど、殆どがそうのはずだ。それを綺麗な言葉で皆が誤魔化しているだけだ。自覚しないようにしているだけだろ。そしてそれは別に悪いことじゃないはずだ。
 だけどいつもこの欲求を自覚すると、世間から嘲笑されている感覚に陥る。
 そして何より、自分が思い上がっているだけの滑稽な勘違い野郎じゃないかと思えてくる。俺の欲求を満たしつつそれが需要になるような状況なんて無いんじゃないかと不安になる。
 俺がどれだけ考え抜いて出した答えも、必然的に結論自体は当たり前な事ばかりだ。その過程に幾ら深さがあると思っていても、結論から言えば深さのあるなしなんて大した意味が無くて、余計な回り道をしたねって評価になってしまうのが怖い。幾ら俺がこれだけ深く考えているんだぞって喚いたところで、誰も俺の話しになんて興味は無い。興味があるのは自分に有益かどうかでしかない。結論から言えば特に益が無い話を長々と聞くのは苦痛だろう。他でもない俺がそう感じる事が多々あるように。
 これがもし俺が大した肩書と実績を持っていたら違うのだろう。それを持っているからにはきっと意味があるはずだといって、あることも無いことにも感心してくれるに違いない。だが何の実績も無い人間が何を言おうと負け犬の遠吠えでしかなくて、無価値と断じられる。需要は生まれない。
 だがそんなの、認められるはずが無いのだ。許せるはずが無いのだ。俺はここまでの半生を殆ど全てそこに集約させてきた。それが俺の価値なのだ。多少接客がこなれていようと、説明の弁が立とうと、真っ当に一線で働いて積み上げてきた技術と経験に勝てるはずも無いのだ。磨かれなかった才能は鍛錬された凡才に劣るのだ。その思考を、俺の最大の強みを無価値と認める事は、俺が鼻くそであることを認めると同義なのだ。生きているだけで価値があるだなんて思えるか。価値は生きて自ら示すものだ。打ち立て残すものだ。それが出来ないまま生きるのは耐えられない。だがそうなるかもしれないと想像すると、堪らなく怖い。それくらいなら、そうなる前にと思いたくもなる。
 そして同時に、こんな苦悩を抱かずにのうのうと無自覚に生きていられる奴らが猛烈に妬ましくなる。そいつらに無自覚に踏みつけられていることに堪らなく憎悪を覚える。
 自覚してもメリットはなくてただ辛いだけだなんて、認められるはずが無い。だって俺は無自覚に生きる事は出来なかったんだから。選択の余地すら無かったのだから。だからせめてとても大変だけど走り抜けばでっかいメリットがあると証明せねばならないのだ。誰よりも自分に。

 なぁ、誰か教えてくれ。
 どこに俺のエゴを満たせる場所がある。どこなら俺の半生を社会に活かし還元できる。どこで俺は己の価値を打ち立てれば良い。
 もしかしてそんな場所は何処にもないのか? 俺はただの勘違い野郎なのか。それが堪らなく怖い。

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