ラスボスの名前は「夢を語るのが恥ずかしい」
昨日の晩、今一度自分のやりたいことを考えてみて、次のステップに行くためのラスボスの正体が判明した。
表題の通り、「夢を語るのが恥ずかしい」というラスボスだ。
夢が荒唐無稽なうちは良かった。自分も相手も内心「(まぁ難しいだろうけど)」で終われたから。
夢が曖昧なうちは良かった。「まぁまずは具体的に何からすべきか考えるところじゃない?」で終われたから。
恥ずかしいというのにも、二つの意味がある。
「一人前に社会人としてやっていくことも出来なかった人間が、普通に生きるより難しいことを出来るわけがない」
「社会人としての責任も果たせてない人間が夢を語るなんて烏滸がましい」
こういう、自分の中の"普通"からの嘲笑。
「具体的に固めてしまえばやることが明確になる。明確なすべきことから逃げてしまわないか、逃げてしまったら」
「夢の為に行動するに従って、巻き込み手を貸してもらう人たちへ顔向けできる結果に辿り着けるのか」
こういう、逃げ続けた自分を克服出来ていないが故の怯え、不安。
そう、結局は自分の中の話なのだ。
勿論この先俺の夢を否定する人は出てくるだろう。
だが、今は居ない。今関わっている人たちは内心どう思っているかはさて置いても、まず否定してくる人は居ない。
多分、腹を括る前段階の準備はほぼ終わっているのだ。
生活習慣を矯正する目処も自立訓練施設で立った。
自身の哲学を打ち立て、自分本位の生き方を取り戻した。
当面の生活資金も生活保護によって保障されている。
精神も人並み程度には安定してきている。
これまでのように目を瞑っての突進ではなく、目的地とペース配分を見据えた行動が出来る環境は揃いつつある。
ここから先は人を巻き込む必要がある。
相談して、手を借りて。
情報を得るにも実際の行動に移すのにも、一人でできる範囲はそろそろ限りが出てきているのに気付いてしまったのだ。
もう言い訳が出来ない。目を逸らしては進めない。
きっとここで腹を括って進みだしたのなら、ようやっと俺は自分を肯定出来るようになるだろう。
今やっていることが自分の最善だと信じ、充実感のある日々を送れる予感がする。
当然一筋縄ではいかないだろうが、それを泣き喚きながらも、笑って足掻ける下地も出来たつもりなのだ。
あともう少しなのだ。
このバカ高い窓のサッシを乗り越えられれば、大きく変わる予感が、確信がある。
間違いなく出口には辿り着いているのだ。
扉はある。鍵も見つけた。あとは手を伸ばし足を踏み出すだけなのだ。
だけど、怖い。
ここ数年、俺はあらゆる予定を、行動を、計画を、順番を、全て失敗する前提で期待しないことで心を守ってきた。
あらゆる物事に、自分を含めた人々に、
「あーまぁ別に出来なくてもいいですよ!」
って笑って流せるように、それの完遂が確認できるまでその続きの計画を立てないようにしてきた。
出来たら次を考える。
ケツを決めるとプレッシャーに押しつぶされてしまうから。
そうだ。結局は俺の一番の問題はここなのだ。
人を巻き込むのなら責任が生まれる。
それは単純な期限や約束だけじゃない。
応援も期待も、裏切れない。裏切りたくない。誰よりも自分自身の期待を裏切りたくない。
答えは出ているんだ。
夢を諦めることは、俺はもう無いだろう。少なくとも出来る限りをやりきるまでは。
諦めて死なない為に生きるのは、今の俺にはどう頑張っても受け入れられないし受け入れたくもない。そのくらいなら死んだ方がマシだと大声で叫べる。
そして次に進むにはこの壁を乗り越えなければならない。
窓枠を乗り越えて外に出なければならない。
胸を張っておてんとさんの下を歩きださなければならない。
何故なら俺自身が自らそれを望んでいるからだ。
状況は揃いつつあるのだ。取っ掛かりも見えているのだ。
例えそれが直接成功に結び付かずとも、次の糸口に繋がる予感があるのだ。
次はいよいよ、夢を「夢」だなんて誤魔化さず、言語化して、プレゼンして、頭を下げる段階なんだ。
最悪夢が叶わなくったっていい。
走りきることが出来たのなら、間違いなく次につながるのだから。
分かっている。誰よりも俺自身が分かっているんだ。
進むしかないんだと。誰よりも俺自身が進みたいと願っていると。
あともう一歩なのに。
こんなにも肯定できる状況や言葉は出てくるのに。
今回は目を瞑らず、しっかりと地面を蹴り進みたいのに。
あと一歩が届かない。踏み出せない。
また俺はここで筆を置いてベッドに向かうのか……
だが大丈夫だろ、俺よ。まだ闘志は消えていない。
二十八年かけて力を増してきたラスボスなんだ。一筋縄ではいかないのも当然さ。
遠くないうちに倒してやる。まだ闘志は消えてない。
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