うさぎとカメ

 私事だが、僕のオンライン上の友人二人がケンカした。
 仔細は省くが、根っこの問題は一般人とメンタルに問題持ちの世界の食い違いだ。

 一般人が「大人なら最低限の協力とか配慮とかしろよ」と言うのも正しい。
 メンタル問題持ちが「仕事で病んでるのに遊びにまでガチにさせるの勘弁して欲しい」と言うのも正しい。
 病んだ経験があり、今は一般人の真似事は出来る(継続しては無理だが)身としては、なんとも言えない感じになった。
 間を持つのは若干面倒くさいという気持ちもあるが、単純に参考になるのと、まぁグループでTRPGが出来るようには最低限したいので間に入ったという感じだ。

 改めて思うが、やはり絶対の正しさなどない。
 ちゃんと自分の人生に折り合いをつけて、色々なものを諦めて削ぎ落としたことのある人にとっては、自分の論理ばかりでもっと俺に優しくしろよとばかりに不服そうな顔をされるのは怒って当然のことだろう。
 人として最低限のことも出来ない奴に気を使ってまで一緒に遊びたくないと言われれば、その通りでしか無いのだ。

 でも人生の深海で窒息死しかけている最中の人にとっては、遊ぶ時間とは束の間の息抜き、いや息継ぎの時間なのだ。現実という水圧に圧し潰されないように逃れられる大事な時間なのだ。
 その時間にもっとちゃんとしろと言われると、上から押さえつけられている感覚になるのも当然だ。そんな余裕などないのに。

 ウサギと、カメ。
 これはレースの話ではなく、単純に肺呼吸をする地上と海中の生物という例で。
 走り続けるのに疲れて足を止めている砂浜のウサギと。
 深海から息継ぎに来た波打ち際のカメ。
 近くにいるようでいて、元々普段いる場所が違うのだ。
 波打ち際で足を濡らすことも、砂浜に上陸することも、出来ないわけでは無い。が、なんでそこまでしないといけないのか、と言うのも当然なのだ。

 なら、俺は何なのだろう。
 ウサギもカメも、どちらもそれほど悪いとは思えない。
 基本海に居ながら、街へは出れずとも平気な顔をして海岸の車道くらいなら歩く。

 「あー、これは双方にこれ以上の歩み寄りの努力をする気が無さそう」と思った俺は、仕方ないね、と和解を諦めた。
 俺にとっての主目的はTRPGを皆でやることで、第二目標は立ち位置の違う二人の大人のケンカの間の経験で、それは両方とも達成できたから。
 また三人でSteamのゲームをやりたいと言えばやりたいが、それは骨を折ってまで目指す程の目標では無かった。それに双方にとって別に望ましいことでもなさそうだった。

 話し合えば、人は必ず分かり合えるという人もいる。
 ただ、やっぱりそれは無茶だと思う。
 無理とは言わない。ただ自分ではない相手の背景を理解するという途轍もない重労働を、お互いがやりあう必要があるのだ。相手を否定するという安易な道を避けてまで。

 多分、俺の強みはここなのだと思う。自分の人生経験ではないけれど、色んな物語で登場人物の様々なバックボーンをトレースしてきたプールの広さがあるから、結構広い範囲の背景をそのプールを参考にトレースすることが出来る。
 勿論それは確実では無いし、全てではない。そのズレを修正するのに時間がかかることは多々あるし、LGBTQや直接的な自傷行為とかは自分の経験としてかすりもしてない関係で想像するしかできなかったりする。それを安易に分かるというのは絶対にしてはいけないと思っている。
 でもまぁ、ある程度の擦り合わせの後に、その人の価値観とか、何を大事にしてるかとか、心の余裕とかがボンヤリとトレース出来て、言わんとしていることは分かる方だと思う。おそらく、人よりも。深く、早く。

 まぁそれは良いんだ。
 いずれにせよ、真理は沢山ある。その価値観の数だけ。生きてきた人生の模様の数だけ。
 幾つかのパターンはある。似通ることはある。でも、やっぱり十人十色。
 話し合えば分かり合えると、まだ考えが足らないだけというのは傲慢だ。
 大抵の場合、そういう言葉を言う人は自分の価値観が間違っているかもしれないという疑念を持って、その言葉を発していないと思う。それはつまり、話せば聞けば、相手が自分の価値観が間違っていたと認めると思うという意味で、相手の価値観を否定する心構えなんじゃないかと思う。
 勿論、そうじゃないかもしれない。正しく自分が間違っている可能性も踏まえている人もいるかもしれない。
 勿論、そうじゃないかもしれない。話せば相手が過ちを認めあなたに恭順するかもしれない。
 ただ、往々にして人はそこまでしない。変化というのは人にとってとても辛くしんどく面倒くさいもので、そこまでの価値を見出さない。
 誰だって自分の価値観が、観ている世界が正しいと思っていて、思いたがっている。
 違う世界があるということを認める事すら、とても苦痛を伴うものだ。
 自分と異なる世界観を一時的にでも真似することは、「想像する」という言葉で片づけられるほどには簡単なことではないのだ。
 それは、自分の価値観が絶対出ないかもしれないという圧倒的不安を副作用として産む行為なのだから。

 だから、人は争う。
 相手を受け入れるのが辛くて、怖くて、許せなくて。
 自分こそが正しくてお前が間違っているのだと証明するために争う。
 真っ直ぐな「力」によって測る武人もいる。権謀術数の優劣で謀る政治家もいる。法律という脱人間的ものに諮る庶民もいる。

 力が要る。
 何かを賭けて発言するには、それを押し通すための力が要る。

プライド守れる生き方なら、二つのやり方があると知ってる
一つは常に勝ち続ける事
一つは常に負けを自分だけで引き受ける事

福山雅治「GAME」

 好きな歌詞なのだが、未だに「常に負けを自分だけで引き受ける事」というのが真には理解出来ていない。
 「負け続ける事」なら分かるのだ。「俺はまだ本気を出していないだけ」理論で片が付く。
 だが「自分だけで引き受ける事」がしっくりと来ない。
 「ううん、俺が悪かったんだ」という事による、逆説的な「俺が頑張れば勝てた」という全能感なのだろうか。

 どちらにせよ、勝ち負けが分からない場に出るには、己のプライドをベットしないといけないのだろう。
 撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけ。
 なら、撃たれる覚悟が出来たのなら撃っていいのだろうか。
 相手を否定せずには自分を主張できないのだろうか。

 ずっと俺は逃げてきた。逃げている。
 自分を否定されたくないから、相手を否定しないことを選んだ。
 お互いを否定せずに、大事なところから遠く離れ完全に隔離したところで譲ることを是としてきた。
 勿論これは良い方法だと思う。未だに思う。だが、それだけでは勝負の舞台に上がれないのではないかという気もしている。
 きっと俺は菩薩にはなれない。全ての人に優しく許せる人にはなれない。多分、なりたくもない。
 譲れない一線は、獰猛に笑って前に踏み込める人でありたい。格好良いと思う。
 ただ、だからと言って相手の価値観を踏み潰すのは嫌だ。中心線は取って押し通っても、相手を土俵から叩き出すような人ではありたくない。
 世の中には自分の正しさを疑っていない人が幾らでもいる。自分の信念をベットもしないで、突っかかってくる人は幾らでもいる。そんな人たちは、その通りは俺には通用しないからと俺が揺るがないだけで、土俵から転げ落ちてしまう気がする。ベットしたつもりも無かった価値観を、勝ち金として奪ってしまう気がする。俺がされてきたから。
 これは優しさなのだろうか。そう言ってくれた人も居た。ただ、自分ではなんとなくそうじゃない気がしている。もっと保身の色が強いものなのだ。


 勿論俺は今回の判断を間違っているとは思わない。
 毎度お互いの価値観をぶつけ合わせてまで打開策を探る必要はないのだ。
 争いは何も生まないわけでは無く安堵と優越感を生むが、大抵の場合プラスを生むわけでは無いのだ。
 お互い大事なものは賭けずに、落としどころを探るのは非常に利口な着地点と疑わない。
 だが、利口なだけでは人は己を保てない。
 何も賭けず、賭けたつもりもなく己が通らないことに癇癪を起こして徹底的に追い出そうとする人が幾らでもいるから。
 そしてその人たちも、そうせざるを得ないくらいに精一杯生きているのだから。

 月並みだけど、やっぱり戦いは怖いよ。
 勝っても負けても、自分が自分で居られなくなりそうで。

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