優しさ

 最近、優しさというものについて兎角考えている。

 優しさとは何か。
 お節介とは何か。
 押し付けとは何か。
 尊重とは何か。

 自覚してはいたが、俺は相反する願いと恐れを抱いている。
 他者を変えたいという願いと、他者を変えてしまうのではないかという恐れだ。

「誰しも自分の人生という物語の主人公だ。だが誰もが他者の人生における登場人物になれるとは限らない」

 昔から自分に戒めている言葉だ。自分で考えた言葉のつもりだがもしかするとどこかで聞いた言葉なのかもしれない。
 誰だって、自分を中心にした世界の中で人生を生きている。例え他人の指示や評価に縋って生きている人であっても、あらゆる主観は己の五感からしか得られない。自分中心に生きているというわけではなく、主観から逃れ客観を続けることは出来ないということ。主観を捨て去り客観で生き続けることが出来る人はいないではないが、それは壊れた結果だ。壊れ果てた、結果だ。
 必ずしも俺のそれは『皆が主役で大事なヒトなんだよ♪』という安楽としたそれではないが、そういう意図も多少はある。そして同時に、主人公になること自体は簡単で当たり前のこと、大して素晴らしくも誇らしくもないという意味もある。故に、本当に難しくて、眩しくて、尊いのは、誰かの物語における登場人物になることなのだ。
 誰もが各々の主観を生き、その物語を語ることが出来る。その語り口が巧かろうと拙かろうと、その重みはその人がこれまで生きてきた人生の重みであり、これから続く人生の重みだ。笑いあり涙ありの人生を、他人が嘲笑ったり同情することは出来ない。
 そんな重い、長い人生という物語の中で、意外とその登場人物というのは少ないと思うのだ。即ち、人生を語るうえで固有名詞の出てくる登場人物というのは、案外多くないと思うのだ。
 高校の時のクラスメイト、大学の教授、前の会社の同僚。関わってきた人は多けれど、大抵の場合重要なのは個人ではなく互いの間にある関係だ。ともすれば時間が経てば名前がうろ覚えになるような関係が人生の大半を占める。
 だがそれとはまた別に、その人の人生を変えた、価値観を揺るがした、己が人生を語るうえで欠かせない出会いと言うのも確実に存在する。流石に親子や結婚相手といった所謂家族というのは大概の場合においてそれにあたるだろうし、場合によってはそれは本、即ち本名も知らぬその作者との出会いかもしれない。
 楽しかったり悲しかったり瞬間は多々あれど、人生の変遷におけるターニングポイントとなる瞬間に居合わせる他者はそう多くない。或いは長く堆積し、熟成された時間を伴に過ごす他者というのも、そう多くない。多くないということは稀少と言うことで、稀少と言うのは尊いものだ。
 自分の人生という物語の主人公には誰だってなれる。なってしまう。だが他の誰の人生にもその名の挙がらぬ人物のまま生涯を終える人も、まぁそう少なくはない。
 結論を言ってしまえば、俺はそんな人間のまま終わることが嫌なのだ。
 人の存在は当人の脳の中にあるのではなく、他者との関係性の中に存在する。少なくとも俺は人"間"を、その様に捉えている。他の人がどうあれ、俺は俺自身の存在がそこに在ると確信している。だというのにその関係性が、他者との間の全てが代替可能であやふやで、あってもなくても変わり無いものしか無いというのはあまりに怖い。それ即ち、俺の存在があやふやということだからだ。
 だから俺は他者への介入を求める。誰かの人生に介入して、それを変えることでその生涯に名を残すことを望む。願う。試みる。
 究極的に言えば、俺の根源的な動機というのは常にここに行きつくのだ。

 だが、俺は同時に余計なお世話を憎んでいる。
 己の当たり前が、当たり前のように目の前の相手にとっても当たり前であると疑いもせず、己の当たり前を悪気なく押し付け相手の在り方を枉げる。
 その純真さは、誠実さは、無邪気さは、心からの親切は。その無自覚さ故に己が加害を正しさに変換する行為は。悪事より余程、悪辣だ。
 悪意には悪意を返すことが出来る。相手が悪いと憎むことが出来る。自分は被害者だと助けを求められる。だが善意には人は悪意を返せない。責められない。責められないから、自分を責めるしかない。相手が当たり前で、自分の思う当たり前が間違っているのだと、否定するしかない。
 当たり前というのは恐ろしいものだ。曖昧で皆少しずつ違っていて当たり前なのに、そこから疎外されると人は生きていけないという本能的恐怖が生まれる。異なる当たり前を押し付けるというのは、場合によっては笑顔で相手を集団から蹴り飛ばす行為とも言えるのだ。
 俺はそんな悪辣さに無自覚では居られない。その悪辣さに苦しみ、悩み、そして誰よりもそれを憎む俺は、その無自覚を看過出来ない。
 故に俺は悪ぶる。極めて露悪的に、或いは皮肉気に。己の愚かさや弱さ、強欲や傲慢を、それらの醜さを出来る限り羅列して、自分が己の与える害を看過せぬように、そして相手が俺から受ける害を無意識に受け取らないように。

 だがこの二つは、当然の如く真っ向から相反する願いと恐れだ。
 俺は他者の人生に介入したい。だが、相手の意に添わぬ変化を押し付けたくはない。しかし、当然俺が本当に相手が俺の与える影響を望むか知りうることはあり得ない。気を使っておべんちゃらを言っているだけかもしれないし、今は望んでいても後で後悔するかもしれない。言葉が全て伝わっておらず、意に添わぬ結果になるかもしれない。それどころか、自分の望みが何かすら分からぬことも幾らでもあるのかもしれない。
 その逆もまた然りとはいえ、やはり俺は他人の生き方を枉げるのが怖いのだ。曲げること、変化させることは望んでいるが、意に添わぬ生き方に歪ませること、枉げることだけは何としても避けたいのだ。

 お気楽なことを言ってしまえば、そんなの考えたって答えが出るわけじゃないんだから考えても仕方ないと言える。ただ相手に委ねてしまう以外他に無いのだと。
 俺に出来るのは強制しないよう可能な限り留意することで、それを用いるかどうかは相手の問題であると。
 或いはやりたいことをやれと。思うがままに望むことを成せと。他人を枉げないために自分を枉げるのでは何も変わっていないではないかと。
 配信なのだから相手が能動的に動画を開かなければ見れない。その時点で相手の同意が取れてると十二分に言い訳が立つとも言えるだろう。いやなら見なきゃいい、ブラバすればいいだけだ。
 今が意に添わぬとしても、後々振り返れば必要な事だったと思ってもらえるかもしれない。何でもかんでも望みを叶えることが正解なら教育というのは無いのだから。
 大事なことは相手の感情を、思いを否定しないこと。そこさえ厳守していれば致命的なことにはならない。要は傾聴をしろってことだ。
 人と人との出会いはアンコントローラブルなもので、その偶然に責任を持つ必要は無い。いや、責任を持つことは許されない。それもまた自分と相手の人生なのだから。

 どれも理解はしているし同意できる。何せこれは俺が自ら考え、言い聞かせてきた論理だから。だが、納得していない。出来ていない。
 その理由はきっとシンプルなもので、「可能な限り留意する」の可能な限りに納得がいっていないからだ。俺は他の色んなものを割り切り、諦め切り捨てそぎ落としているからこそ、「当たり前」と「甘え」と「優しさ」についてだけは一切の妥協が許されないのだ。一生涯向き合う必要があるのだ。
 間違いなく一生をかけてもその答えは出ることは無い。間違って、傷つけて、傷ついて、悩んで、言語化して、繰り返して。その時々の思う最善を取り続けていくしかない。
 一応の納得がいくまでに何が足りないのかはまだ分からないが、その言語化もまだ至っていないが、そろそろ抜けたいものだ。
 迷いでもうかなり長らく足踏みを続けているのだから。


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