リアルに生きていない

 今日友人と話していて指摘されたことがある。

「最内さんの話し方が反感持たれやすいのって、突然論が展開されてどうしてそんな突き詰めた考え方をするのか、感情が追いつかないからじゃないかな?」

 なるほど、と思った。
 実際、俺が持論を展開しだすと反発する人が多い。論理で話しているのに感情で反撃されるとどうしようもない、というのが昔からあって、ここ最近引っ掛かっていた俺の課題だった。
 自分でも自分の話し方に問題があるのはなんとなく分かっていたのだが、具体的に何が足りてないのかまでは辿り着けていなかった。
 故にそこの溝を人に埋めてもらう方策を探していた。

「もう少しなんでそんな風に考えるようになったのか、そのエピソードを話した方が良いと思うよ」

 物凄く当たり前の事を言われた。当たり前で、俺がすっ飛ばしていたことだ。
 そりゃそうである。やはりエピソードトークは説得力が強い。感情も追いつきやすい。というか俺自身が「一番の根拠になるのは自身の経験」とか宣っておきながら、そこをすっ飛ばしていたことに失笑した。
 だがいざ「じゃあ」とばかりに考え始めると、全然思い浮かばない。
 というかそこをうまく説明できないからいつも俺は説明することを諦め続けたのだ。
 おそらくここが、俺にとっての最後の難関なのだろう。
 俺は自分の経験が少ない。


 より正確に言えば、俺の考えの根幹を成しているのは、沢山の「主人公」達の経験なのだ。
 おそらく俺が特殊性の一つに、物語の登場人物への過度な自己投影がある。誰しも物語の登場人物に多かれ少なかれ自己投影し、感動するものなのだが、俺はそれが極端なのだ。自身の人格形成に於いて自分自身の経験と同列以上の重さを、作中での経験が持っている。

 分かりやすく言うと、俺は人の変化を嫌う気持ちは、人の善意に勝ると考えている。何故なら、アクシズショックを見て何も変わらなかったからだ(逆シャア、UC)。
 力を合わせて問題に立ち向かう事こそが最善だと思っている。何故ならそうすることで雛見沢の惨劇のループから抜け出すことが出来たからだ(ひぐらし)。
 好きな女のために命を賭けるのが何よりも格好良いと思う。何故ならサイトがそんな背中を見せてくれたからだ(ゼロ使)。
 世界には例え最善の選択を取り続けてもどうにもならないことは幾らでもある。自分の努力で変えられる事には限界がある(シュタゲ)。
 世の中の人は大抵弱くて愚かで、誰かに責任を押し付けて平気で幸せを享受できる。その押し付けた人がどんな思いで生きていようと(ギアス)。
 どれだけ自分を嫌いでも、世界が絶望で形作られていたとしても、自分を好きだと言ってくれる人と自分が好きな人の為に足掻き続けることが格好いい(伝勇伝)。

 パッと思いつくのはこんな所か。
 基本的に物語の中で極限状態に置かれた主人公達が、どんな答えを、生き様を魅せるのか、その選択が自身の経験と同列以上なのだ。
 因みに当然と言うか、どの経験を同列以上と扱うかはとても恣意的なものだ。どの作品を見るかは勿論、その中で特に感動したものだけを重要視してはいる。好みのものだけを偏って根拠として採用しているという事だ。それ故に相当に極端で恣意的な思想を持っていることは間違いない。

 どうしてこんなことになったのか、そう考えるとやはりここに戻ってくるか、と思うが「ひぐらしのなく頃に」が発端だろう。
 楽しかった日常は脆くも崩れ去り、惨劇の幕が上げられると隠されていた狂気が露わとなる。日常と言うのは仮初の不安定なもので、その薄氷の下には醜く悍ましい獣性が眠っている。だが決して、人間はその獣性だけが本性なのではない。その獣性を従え仮初の日常を維持したいと願う克己心もまた、人間なのだ。
 間違いなく俺の人格が決定的に歪んだ最初の作品はひぐらしのなく頃にだろう。だがまぁひぐらしを見て無かったとしても遠からずこうなっていた、そんな素養は元々あったのだろう。

 それ以来、俺は人の獣性と気高さの狭間で足掻き苦しむ作品を好んで貪るように探した。ガンダムやギアスは思想に、伝勇伝やゼロ使やシュタゲは憧れに、ひぐらしはそれらのベースになって今の俺の人格を形成している。
 ただ先ほども言ったが、ひぐらしに限らず、それらの作品を見たからこうなったのではなく、そういった憧れや適性があったからそれらの作品で裏付けられたというのが因果の順序だと思う。
 詰まる所、俺は幼いころから現実というものを薄ら寒く感じていたのだろう。
 矛盾、理不尽、非合理。
 なんでこんな継ぎ接ぎらだけで綱渡りで誰もが取り繕っている虚構にまみれた現実で平然としていられるのかが理解出来なかった。虚構の世界である物語の方が余程真実味を感じた。だから真実を空想の世界に求めたのだ。それが俺だ。

 一方、別に自分自身の経験から得た見識も無い訳ではない。
・待っていても誰かが助けてなんてくれない=自分が動かなければ自体は好転しない、誰もが自分とその周囲の事で精一杯
・どうせ誰も俺の話を最後まで聞いてくれない=皆他人に興味が無い
・なんでなんでと立ち止まっていると甘えと断じられる⇒じゃあどこまでが自分の責任でどこからが他人の責任なのか
・確実な成功だけを目指して動かなければ自分の経験は得られない=失敗することが分かっていても取り合えず動いて失敗から学ぶことは大事

 こんな所か。ただ一つ、今は他人が俺の話を聞いてくれないというのはおそらく俺が物語中での経験談を反論として口に出来なくて逃げていたからではないかとも思い始めた。ここはまだ纏まっていない。

 いずれにせよこうして振り返ると、俺自身の人生経験というのはこんな感じに纏められるだろう。

「現実の薄ら寒さにまごついて行動することを止めると、無理解から甘えと決めつけられた」
「行動を起こして否定されるのが嫌で、失敗を恐れるようになった」
「誰も答えてくれないので自分で世界について考えることにした。自分で行動するのは怖いから真実味のある物語の中に経験を求めた」
「それに慣れ過ぎてリアルが疎かになって現実で追いつめられ始めた」
「でも誰も助けてくれなかった。というより現実を信じられなかった(また甘えと断じられそうで)」

 結局のところ、根本は

『え、なんでこの世界歪過ぎじゃない?』とあーでもないこーでもないと考えてネガティブな予想で体が止まって、それを伝えても面倒くさがられて
「いいからやれ」と頭ごなしに否定されるのがオチという強迫観念 なのだろう。

 と、ここまで遡ってきたものの、じゃあなんで世界の歪さを無視できなかったのか、と言われると、流石にもう昔のこと過ぎて切っ掛けは分からないし、今感じているこの感覚も何に起因しているのか判然としない。
 というか、未だになんで平然としていられるのかが分からない。いや、努めて鈍感であろうと皆してるんだろうなとは思うけど、それにしたってなんで目を逸らせるのかが体感的に想像できない。
 ゲームや酒で一時的に目を逸らすことは出来る。その最中だけは。だがそれを辞めた瞬間目を逸らせなくなる。働いてる最中は仕事のことで頭は埋まる。だが退勤した瞬間に目を逸らせなくなる。幾ら忙殺されてたとしても、風呂に入った瞬間目を逸らせなくなる。そういうもんじゃないのか? 違うのだろうけどそんな経験が無くて一切理解が出来ない。

 汚職だとか、不正だとか、不公平だとか皆すぐ騒ぎ立てる。意味が分からない。そんなの程度の差はあれ本質的には同質のものが世の中には溢れていて、一定の度を越したものが明るみに出たに過ぎない。度を超すのが悪いことだとは思うけど、なんで汚職がダメなの? 公的なポジションに自分の不肖の息子を付けて経験を積ませたいと思うのは、自分の子供におもちゃを買ってあげるのと同質じゃないの? 公的ポジションは税金によって賄われていて、政治家は公正であれという契約のもと雇われているから。公僕(おおやけのしもべ)だからってのは理解出来る。じゃあ不肖の息子が無能の息子である確証は取ったの? 適任者が他に居たという保証は? そもそも適任であるという根拠は? 仕事が出来るだけで選ばれるなら誰も経験を積めないよ? そもそも社会契約説に明確に署名した人いるの? 逆になんで自分の息子にだけおもちゃを買うのは許されるの? 他の家の子にも公正におもちゃ買い与えないの? 自分のこどもと余所の家のこどもと親戚のこどもと養子のこどもと家に遊びに来たこどもとどう違うの?
 全部、人間が勝手に言ってるだけじゃん。

 そこに恣意性を感じてしまって、必然性を感じられなくて、皆が口ではいい感じの事言うくせに突き詰めれば皆自分の都合の良い様に解釈しているだけ。それを自覚すらしていない。なんで平気な顔をしていられるのかが本当に理解が出来なかった。当時は欺瞞なんて言葉を知らなかったけど、とにかく違和感を無視できずにはいられなかった。
 そこに納得がいくには30年の年月が必要だった。歴史と哲学とその他様々な知識が必要だった。一先ず納得はしたけど、未だに全然足りて無い事は想像に難くない。
 似たような人はきっと多くは無いけれど、決して少なくは無いと思うのだ。そんな違和感に藻掻いた結果、一握りの人たちが芸術家や哲学者、政治家となり人類史にその名と功績を残してきた形跡があるのだから。

 なんの話だっけ。そう、俺には経験が少ないということだ。
 ただまぁ、一番伝えなきゃいけない根源の体験は、やっぱり今の欺瞞への違和感なのだろうとは書いていて思った。それを持つ人にだけ届けばいいのだと。

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