ここ一か月のまとめ(暫定

 この一か月ほど、ずっと自分が何をしたいのか考えている。
 自分が何をしたいのか。
 自分に何が出来るのか。
 自分は何を提供できるのか。
 自分をどう表現していくのか。

 書いていて思ったが、やはり俺は自分本位なのだなと思う。主語は全部自分だ。
 「ユーザーが何を欲しているのか」
 みたいなことも考えてはいるし、今も書こうとしたのだけれど、なんかしっくりこなかった。やはり主語は自分だ。
 まぁそれを別に俺は否定的に捉えていないし、それでこそ今の俺だと思う。
 勿論正解は、或いは将来的には「誰かのために」を本気で言うべきなのであろうことは知っている。だが俺自身が満たされていない現状でそれを言っても嘘にしかならない。

 俺は、何をしたいのか。
 自分の出した世界観を認めさせたい。
 その賛同者が欲しいというのが恐らく偽りのない本心だ。虚飾の無い欲求だ。

 俺は何が出来るのか。
 当たり前を自覚的に。
 誰もが当たり前とスルーしているところを再解釈することだ。

 俺は何を提供できるのか。
 屁理屈な再解釈によって、正論で救われない人達に希望を示すことが出来る、かもしれない。

 俺をどう表現していくか。
 結局のところ、俺は詭弁士であり、扇動者でしかないのだろう。


 俺の世界観はこうだ。

 不変で普遍な原理として、人の最大の力は数である。
 言葉によって協力し、文字によって蓄積し、道具によって形にする。
 それを人類史を通して積み重ね、思考プロセスを省略し命題と結論を短縮し、実行プロセスを外部化することで行動と結果を短縮する。
 そうすることでワンクリックで古代文明の生活を識るような、本来一人では不可能な力を個々人が持ち、そしてまたそれを結集する。
 これが原理だ。

 その数の力を活かすには信頼関係が必要だ。
 即ち、思考プロセスや実行プロセスを短縮することにイチイチ躊躇わずに済む、安心できる環境が必要だ。
 具体的に言えば、騙されない、殺されない、不利益を被らない。思い通りに機能する、その行動が良い結果をもたらす。
 そういった信頼関係のために人は正義を掲げる。
 人類史の中で積み重ねてきた経験則から打ち立てた正義を徹底しようとしている。
 だって人はそうして、前提(環境)を変え整えることで望む結果(成果物)を安定して得てきた生物だから。
 前提(人)を変える事で望む結果(文明)を得ようとするのは当然の流れだったと思う。
 だが環境ではなく人を教育や倫理によって変えようとした結果、強烈な歪みが出てきているのが現代なのだと思う。

 本来合理性と多様性というのは対義語と言っても過言ではないと俺は解釈している。
 極端な話、人の数は力でそれを集結させることが最優先なのであれば人の意思はノイズだ。
 一つの意思のもと無駄なく力を発揮するのが合理化なのだから、人の組織におけるそれはそれこそ軍隊式の徹底した上意下達であろう。或いは一党独裁による社会主義的政治であろう。
 やはり個々人の思いや考えなど、合理においてはノイズなのだ。
 だが種としての合理という視点にまで俯瞰すると、ようやっと合理性と多様性が共存する。
 一つの意思の基の合力は確かに強力だが、その意思が流れを読み違えた瞬間大いにコケる。そういった時にも生き残るために適応の余地を残しておくのが、多様性という生物の生存戦略だ。

 それを日本社会に落とし込むと面白い。
(いつもの如く私見にて信ぴょう性の低さはご承知願いたい)
 裏は取っていないが、日本の組織運用論の元を辿ると帝国軍隊式のものになるらしい。
 第二次世界大戦敗北後、朝鮮特需やオリンピック特需の追い風を受けながら、合理的合力によって高品質の製品を数多く世界に売り出し、東洋の奇跡と評される程の発展を遂げた。
 結局のところ、この成功体験が強すぎたのだろう。日本は「勤勉、滅私奉公、高品質」こそが我らの美徳と信じ込み、今日までその歴史を続けている。
 だが残念ながらそれはもう通用しない。勤勉さでも、文句の言わなさでも、正確さでも、人は機械に勝てない。重工業だけでなく軽工業、サービスや事務やソフトに至るまで機械された現代において、それらは特別なものではなく、つまり高い金を払う程のものではなくなった。
 日本はその成功体験を忘れられず、時代を読み違えたのだ。

 だがそれは悲しいまでに結果論だ。未来のことなど誰も分からないし、誰もがその中で必死に善かれと信じて選択しなかがら生きている。
 だからその選択を責めるべきではない。なんだかんだ言って、現時点ではまだ辛うじて先進国でいられているのだから、やはり感謝すべきであろう。
 ただ厄介なのはつまるところ、日本は致命的に多様性が失われているというところだろう。
 バブルが弾けた後の2000年前後、いわゆる就職氷河期世代が一つのターニングポイントだったのだろう。現在40前後の人達は過酷な就職戦争に勝ち残った人とふるい落とされた人に明確に名案を分けた。
 勝ち残るのに何が重要視されたか、これは憶測でしかないがやはり「勤勉、滅私奉公、高品質」であろう。徹底して組織に貢献できる人材のみが勝ち残った。言い換えれば勝ち残るためには己を殺すことが求められたのだ。
 己を殺して組織に恭順することで過酷な就職戦争を勝ち残った、それは強烈な体験となる。
 勝ち残った人は己の大事なものを差し出してまで生活を得たのだから、他の人も同じように己を差し出せ。それをしないのは甘え、と考える。そこで負けた人は敗北者の烙印を押され社会復帰の余地も発言権も無くなる。雇う側は「経営が楽じゃない」という理由で「従順で高品質な人材」だけ選り好みして人材育成という意味では楽に運営する成功経験を積み重ねる。
 基本的に社会活動における多様性というのは、どちらかというと邪魔な存在だ。自分と違う相手とのやりとりはコストが高い。その割に普通の人と比べて特別いい成果をあげるわけでもない。というか下回る事の方が多い。
 だがまぁしゃーねぇかと雇い続けて、人材育成を続けているうちにその中から「これは」というアイディアを出してくる奴が出てくる。違った視点で、でも言葉にしづらい説得力を持ったこれまでと違った動きを促してくれる。
 勿論それが普通の人から出てこないわけでは無いし、そんな分かり易い影響力を出せるのは極一部だ。だが上から下まで大胆な動きを取れない状態が常態化し普遍的になってしまうと、もう駄目だ。
 互いが互いを監視し合い、牽制し合う。どこが一番影響力が大きかったかと言うと銀行とマスメディアだろうなとは思うが、結局のところそれすら国民の総意と責任転嫁されるのが民主主義国家というものだ。

 ま、そんな感じで雑な言い方をすれば日本には突飛な発言をする人が少なすぎるのだ。発言がなければ行動もビジネスもなく、革新もない。
 そういう行動を取り得る性質を持って生まれた人は、家の中に蹴り込まれた。

 「全ての人が正しい倫理観を持ち、協力出来る人間となれるよう教育する」
 それが日本の志していることだと俺は思っている。
 その為に世の中の悪事を見つけては全員で石を投げ、口を揃えて綺麗事を並べ立てる。人が表で良く見られる。
 多様性だとかSDGsとかの答えを他所から輸入して、その大切さをよく理解もせず教え込む。結果、昔より遥かに「しなければならない事」「してはならない事」「求められるレベル」が高くなる。
 はっきり言って自分達が年齢を重ねながら全く出来ていない(なぁなぁでやってるつもりになってる)ことを純真なこどもや青年に求める。
 その結果出来ていない自覚のある奴は社会に怯え、出来てない自覚のない奴が社会に出て我が物顔で石を投げ綺麗事をがなり立てる。

 俺は思うのだ。これは中々面白い社会実験では?と。
 教育によって人はどこまで「正しく」矯正出来るのか。
 日本という実験場においてその結論は「角を矯めて牛を殺す」と出た、と。
 「正しさ」が誤りだった時悲惨な目に遭うと。
 これに関しては面白半分というより、そうとでも思わないと今の日本の現状に利点を見出せないのだ。


 俺の世界観における今の日本はそんな感じだ。
 日本は少子化高齢化が確定していて、労働問題は騒がれて久しい。
 だが未だに日本における社会人の最低ラインは
・約束を守ること。
・円滑なコミュニケーションが取れること。
・自分より仕事を優先した上で、適切に自分の強みを活かすこと。
 だ。
 俺は経験無いから伝聞でしかないが、海外だったらそんなの労働者としてはそれ全部揃ってるのは上澄みといって過言じゃないぞ。
 だけど人材業界では売り手市場らしいし、ジョブ型雇用だなんて謳われている。
 その実態は人材に投資する金が無いから出来合いのモノを奪い合って、社会全体で先細りしていく負のスパイラルだ。

 いい加減目を覚ませよ。
 今の日本に必要なのは機械に比肩する(けど負ける)従順且つ高品質な人材を奪い合うことじゃなく、機械やAIと競合しない人間らしさを武器と出来る人材への投資だろ。
 もう日本は今までの方法論では戦えない。全てを守り切る体力は残っていない。その実態は何かを犠牲にして選択と集中を迫られる経済後進国なんだ。
 そんな風に俺は思わずにはいられない。
 だからそんな社会に適応するのが当然正しいと疑わない人達に正直苛立つし、それが発達障害や適応障害や就労移行といった概念に抵抗がある理由だ。
 俺らの方がおかしいのか? おかしいのは社会の方で、苦悩してる俺たちの方がよっぽど人間らしくないか?
 そう、叫びたくなる。


 ただ、まぁ。
 別に俺は俺が正しいとは思っていない。
 いや、俺の中では正しいとは思っているが、日本において、人類史においてそれが正しいかは分からない。
 それはやはり、人類史がその歴史の中で答えを出す結果論でしかないと思っているからだ。
 バケツ一杯の釘を床にぶちまけた時、ちょっとした山が出来る。釘はそれぞれ異なった場所に頭を置きながら、真っ直ぐとその先端を伸ばしその裾野と厚みを広げている。
 それぞれが自分の歩んできた立場と人生経験を元に、真っ直ぐと自分の出来る事をやることで、人類史を積み重ねていく。それが多様性の本質だと、俺は思っている。
 人の力の本質は力だ。その時代の環境下において最も多くの人の支持を集めた考えが、結果的に次の時代を作る。だからと言って選ばれなかった「善かれ」も無価値では絶対ないのだ。何が正しくて、何が間違っているかなんて誰もその時は分からないのだから。
 人に出来る事はただ、自分の「善かれ」を信じ、そして同時に疑いながら今の文明を支え継なぎ、少しずつ新しいものを成し遺していくことだけなのだ。


 だから、俺はこう言いたいのだ。
「この社会がおかしいと思うその心はおかしくない。
 その心を信じ、今までの正しさを学び、そして比べながら次の『善かれ』を一緒に考えよう」
 と。
「今の社会に馴染めないかもしれない。
 でも戦い方を変えれば君も幾らでも社会に価値を示せるよ」
 と。
 本当は、そう言いたいのだ。
 だけど同時に、理解しても居る。それはかなり、要求が重いということを。
 誰より、俺がその重い道のりを歩いてきた。勿論俺だってその道を歩もうとする人達に協力は惜しまない。だがそれを踏まえても、この道はそれなり以上の教養と、才覚と、時間と気力と生活費とを要する道のりだ。
 この一か月考え続けていて、何度も発達障害や不登校や性自認といった関連諸問題にもぶつかった。その度に自分は全然彼らのことを知らないという結論に至った。当然だ。俺は俺の人生しか生きられない。経験したことはそこから辿れるが、経験の無い事は語れない。語るべきで、ない。そしてそれら諸問題は、諸問題と一括りにするにはあまりにその個々の経緯が多様過ぎる。俺が語れるのはきっと、極々一部なのだろう。でしかない。
 そんな彼らにとって俺の言葉はどう聞こえるのだろうか。
 福音だろうか。一筋の光明だろうか。天から伸びる蜘蛛の糸だろうか。
 それとも、その後の絶望を際立たせるだけの憎き希望だろうか。
 分からない。分からないんだよ。怖いんだ。期待させるのが。既にどん底にいる人が上げて落されると、いとも簡単に屋上からその足を踏み外せてしまう。その最後の一押しになるかもしれない。
 別に絶望に至らなくたって、その道を歩もうと決めて一生それが実らないことだってザラだ。というかそれが大半だろう。
 俺の望みは数多の屍の中から、極少数の宝石が現れることだ。俺はそれを無自覚ではいられない。
 だから何時まで経っても俺は「○○という要望に応えます」と言えないのだ。「その先は自己責任」だなんて逃げて、また堂々巡りに戻るのだ。
 勿論その極少数の原石以外の人達も、その道中で得る物があるはずだと思っている。だがその道中で何を得るかはその人次第だ。そこに俺は関与出来ないし、すべきでもない。
 やはり俺が出来るのは見守ることだけだ。その道を歩むのはその人達自身でなければ意味が無いのだ。
 ただ幸せになるのなら、色んなものを捨てて社会に適合しようとする方が確実で容易い。当然適合すること自体困難な道だが、それでも尚その方が容易い。そう断言できる。出来てしまう。
 途轍もなく困難で更なる苦難の待つ道を、さも救いであるかのように希望と見せる。それを扇動者と言わずして何と言おうか。
 当然俺はそれを繰り返し伝えるつもりだが、どこまで伝わるかは不明としか言えない。
 だからまた俺は自己責任と逃げる方向に思考が逸れていくのだ。ましてやそこで金を取るというのが、どうにも不義理に思えて仕方ない。
 だが、一方で今のこどもたちはそれに耐え得るのではないかとも期待してしまう。色々理屈は付けようと思えば付けられるが、まぁ結局はただの直観だが。後単純にここで奮起せねば後が無いのは周知の事実だから、若いパワーで押しとおってくれないかなとも思ってる。

 喫緊でお金が欲しい、というか多少働いてお金を稼ぎたいというのが今回動き始めた理由だから、最近は専らどうやって稼ぐか、というのに焦点を置いていた。
 だから家庭教師だとか、カウンセラーの真似事とか、そういうのも考えた。ている。
 実際そこにもきっと、俺の今までの蓄積の副産物が活かせるとは思う。俺のやりたい事とも大きくは外れない。
 だが、やっぱり副産物でしかない。やろうと思えばきっと出来るが、一人で踏み切って資金を集めて行動するレベルにまで持っていけるかと言うと、今の所不明だ。

 結局のところ、俺が躓くのはいつも同じところだ。
 理想がデカ過ぎて、スモールステップが踏めない。どうしたいこうしたいはあるが、これのためのこれのために明日これをやるがいつまでも出来ない。

 取り合えず、そんなところか。
 明日(というか日付変わってるので今日)明後日と、引きこもりの当事者会に行く予定だ。
 そこを目標にずっと考えてきたが、結局進んだのはここまでだ。色々言語化は進んだが、やっぱり具体的なものには辿り着けず。
 この土日で何か次への糸口が見つかれば良いが……

 ただ今の時点だと、「俺はやっぱり口だけで動けない人間で終わるんじゃないか」という崖っぷちが、半歩近づいた恐怖だけがある。

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