悍ましき憎悪

 うつらうつらしながらボーっと考えていた。
 晩飯前に書いた、違和感のことだ。

 やっぱり未だに納得がいかないんだ。
 だから俺は「おかしいだろ? そうだよな、誤魔化してるのは俺じゃなくて世界の方だよな!?」って言いたいだけなのだ。

 例えば夏至や冬至の日。
 これがどうやって定められているかと言えば、一年で最も昼が長い日と短い日だ。一年という周期も人が介在する前からほぼ一定で、それ故にその定義には必然性がある。
 だが例えば盗みがダメだという道徳がある。これは何を根拠にダメだと言っているのか。殺しはダメだと言う道徳がある。これは何を根拠にダメだと言っているのか。
 動物は他を捕食して生き永らえ、植物でさえ日光を奪い合ってその枝葉を広げる。そこに法は無い。
 野生の木に生っているリンゴを採って食べても誰も怒らない。リンゴは人に糧を与えるためにリンゴを作ったわけではないのに。だが人が植えた商品のリンゴを採ったらそれは罪になる。厳密に言えばリンゴは食べられた後その芯を動物に運ばせるために実をつけているのだから、確かに食べられるために作った。だが庭に植えずゴミ箱に入れて燃やした時点で木の本意ではないはずだ。やはり人間の都合でしかないと思ってしまう。
 牛豚鳥は食べていい。犬猫は食べたらドン引きされる。鯨は地域によって食べたり食べなかったりする。哺乳類で生物学的に近い種だからというわけでもない。やはり人間の都合でしかないと思ってしまう。

 人間社会には法律や契約、色んなルールやマナー、約束がある。
 その殆どには自然状態における必然性はない。ならそれらの根拠、根底としてあるのは何か。

「されて嫌なことはしない。されて嬉しいことをしよう。」

 詰まる所、ほぼ全てがこの原則を元に所謂良識というものは形成されていると思う。
 このとても重大な真理は、とっても当たり前で、こどもに聞いたって頷いてくれるくらい自明のことだ。

 だけどもう一つ大変なことに、この原則の「嫌なこと、嬉しいこと」の範囲と言うのは、一人ひとりの匙加減である。その振れ幅の統制をある程度取るため明文化されたのがルールだ。だがその外は至っていい加減だ。
 人に優しく気を使い、笑顔で接しなさい。そう教わったからその通り人に優しくいる。だけど相手は不機嫌だったり素っ気なかったり気もそぞろだったりする。皆で仲良く分けなさいという。でも相手はシレっと「いや私が貰った物だし」という。
 己のリソースを与える事を是として徹底したとして、相手がそれを返してくれるかは不確定でしかない。約束を破ったのであれば批難出来る。だがほんの些細なことで相手が気付かなかったのなら、それを追求するのは器が小さいと自分が批難される。
 気付かず問題になったのならその時謝ればいい、適当に。だが気付いて心を配り過ぎると、沢山の不満が積もっていく。結局のところ、ある程度鈍感な方が生きるのは得なのだ。それが納得が行かない。劣っているのは鈍感な方のはずなのに、と。
 でも、というか、ただ、というか。それを気付き過ぎる母と鈍感な父を見て気付いていた俺は、早いうちから優しくなり過ぎないようにした。これはこうした方がこう思うかな、これまでしてあげた方がいいかな、でもこんな問題が起きそうだな、言った方がいいかな、やった方がいいかな。
 考えればキリが無くて、考えずにはいられなくて、そのリソースを絞ることにした。そのことに罪悪感を覚えて、絞っている自分を正当化するためにその線引きを証明しようとした。そうやった思考の海に溺れて行った。

 未だに、俺にとって世界と言うのは嘘っぱちだ。
 人に優しくなんて言いながら、実際に口から出てくる言葉は大抵私に優しくだ。そんな欺瞞を殆どの人が自覚すらしていない。或いは努めて認めようとしない。
 だって今までの人生で、根気強く俺の話を聞いてくれた人なんていなかった。だって生活が苦しい時に俺に投資してくれる人なんていなかった。
 遠い国の子供たちのために募金をして、近所に住む俺を助けようとはしなかった。知ろうともしなかった。知られたくも無かった。知っていたから。無償の奉仕なんてものは存在しないと。
 あぁ、分かっているさ。本当は存在したのかもしれない。それを俺が悉く蹴ってきているのかもしれない。救われることを望まずその手を取らなかったからその経験が無いのかもしれないと。でも、俺からすればそんなの言い訳だ。俺が求めなかったから? その時俺がありがとうと言えなかったとしても、本当はそれを必要としていたと。本心から必要としていなかったわけではなくて、様々なプライドや意地で受け取れなかっただけなのだと。結果論だとしても、現に俺はこうなった。純粋な人の善意を信じなくなった。それが結果だ。だから俺はこういう。「俺に感謝して貰えないと分かったから何もしなかっただけだろう?」

 でも、それは悪いことじゃない。俺が出会ってきた人、出会わなかった人皆を責めているわけじゃない。当然だ。俺だって何もしない。
 皆自分のことで精一杯なんだ。先生も、ご近所さんも、政治家も、親も、誰も彼も聖人じゃない。皆が一生懸命生きているから、俺は誰にも救われなくても仕方が無いんだと納得が出来る。
 だが、だからこそ許せない。この感情は憎悪とさえ言っていい。俺に何もしてくれなかった奴らが、自分には優しくしろと平気で言えるのが。景気が悪くなって始めて「自分を幸せにしてくれないこの社会は間違っている」なんて自覚も無しに言っている奴らが。誰かを幸せにする努力をちゃんとやれたことも無い奴らが、自分だけ幸せであって当然だと傲慢にも思っていることが。誰かを幸せにするというのは難しいことだ。そもそも何が幸せかという定義自体途轍もなく難しい定義だ。どれだけ頑張ったって、一生かけても幸せに出来るのはこの手が届く範囲でしかない。それですら殆どの人が満足に出来ない。手どころか目の届かない人に割けるリソースなんて無いんだ。なのにそれを求める。自分はそれを出来ないのに。俺に何もしなかったのに。

 だからやっぱり、俺にとっては物語の方がリアルなのだ。
 欺瞞が剥ぎ取られ、誤魔化しが効かなくなった状況で、それでも残る人の善性や気高さだけが信じるに値するのだ。


 ……だから。
 俺の本心で望んでいることは、原動力にあるのはこの憎悪なのだ。欺瞞のベールを剥がしてやりたいという攻撃性なのだ。分かっていたことだが、だからやっぱり俺は正義の味方ではなく悪役にこそ共感するのだろう。決して俺は善人ではない。
 ただまぁ、それが褒められた事ではないと思える程度の良識はあるし、それと同時にそれでも人と共に歩みたいと足掻く姿を幸いにも格好いいと思えた。そうやって自覚しながらも自分を誤魔化して生きる程度の凡人だ。

 目を逸らしてはいたが、結論としては俺がガチトーンで持論を展開する時反感を買いやすいのはこの攻撃性故だろう。そして今のところ、やはりこの攻撃性を抑えてガチトーンをやるのは難しい。俺はそこまで大人じゃない。なれていない。
 ただ、なんというか。感情が追いつかないからそう考えるようになった体験を見せた方が良いと言われた所で、こんな真っ黒くてドロドロしたものを本当に人に見せるべきなのか?
 何というか、やっぱり自覚はしているのだ。俺のそこを見てない限り、俺は相手の事を信用しない。だから俺はこのnoteを読んでいない人の事を信用していないのだ。同時にこんな悍ましいものを安易に人に見せるべきでないと思うからこそ、そこに至るまでにある程度の積極性が必要な媒体に書き残しているのだ。

 未だに決着がつかない。俺はこの憶測に燻る悍ましさを提示すべきなのか? ある程度の段階を踏ませるべきなのか?
 別に見せること自体に否やはない。抵抗が無いとは言い切れないが、それでも躊躇いなく言える。これが俺だ。この悍ましさを見もせずに俺を語るな。
 そしてこうも言える。俺はこれを見て肯定した上で、否定して欲しいと。そう思った感情を肯定して、でも行動でそれを否定して欲しいと。フィクションでなくとも、人には優しさがあるのだと。
 そしてだからこそこう言う。俺がそうして欲しかったからこそ、自分が誰かにそう出来る人間になりたいと。利害ではなく、誰かを思っての行動が確かにあるのだと。それを自ら実行しない限り、堂々とそれをやっていない人を批難出来ないから。そしてきっと、その頃には批難する必要がなくなっているから。

 そうなれて初めて、俺は自分の人生を価値あるものだと認めることが出来るのだから。

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