強く生きる

 こうやって時間を過ごして、度々思う事がある。
 それは意外と答えと言うのは既にあるのだということ。
 いや、以外でも無いかもしれないが、結局のところ辿り着く答えはどこかで聞いたようなセリフなのだ。

「自分の心に従え」
「その一瞬をどう生きるか」
「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」

 最近思った一例だが、そんなもんだ。
 真理なんてあるかは分からないけど、人間という種があんまり成長していないなら意外と、というか当然行き着く答えは似通ってくるのだとは思う。

 でもやっぱり、名言を聞けば人はより良く生きられるわけでは無い。
 誰しも一度は耳にしたことのある言葉が、全ての人を変えられるわけでは無いのだから。
 人は短い生を繰り返し生まれ直すところから始めなければならない。
 長い経験と苦悩の先で辿り着いた答えだからこそ、納得して背中を任せる事が出来るのだろう。

 だから、悩み無しに、苦労無しに、嘆き無しに、一足飛びに強い人間にはなれないのだろう。先人に出来るのは苦悩の迷宮に迷い込んだ後進に、出口に目印をつけて脱出の取っ掛かりを置いておくだけ。もっと言えば、マイルストーンを提示出来ればいいのだが、人は同じではない。同じ方法論が通用するわけではないのだ。参考になる時もあるだろうが。

 そういう意味で、現代の目指していた苦労の無い世の中というのは、実現してしまったら酷い世界になるのだろう。自分の都合の悪い事象に出会った時に喚き散らすしか出来ない輩ばかりの。
 実現不可能だとは思うが。
 そういう意味で、平和な天国というのは人類にとっては終わりなのだろう。
 人間は不完全に生まれてくるのだから。

 だからこそ、人は苦悩しなければならない。
 取り返しのつかない事を「死」以外無くすことで、思い悩み間違えながら、少しでも至らない我が身を高尚に至らんと研鑽できる社会こそが、理想郷だ。
 等と思うが、まぁこれは個人的な考えだ。
 当然、この考えはあまりに厳しい者だと、万人にとって良い者ではないと自覚している。
 そこまで善くあるためにストイックになりたくない、単純に楽しめればいいと考える人も沢山いるだろうし、シンプルにそれなりに楽しい人生を送れればいいじゃないと思う人が大多数だろう。
 その大多数の要求が満たしやすいのが、好景気の時の資本主義社会なのだろう。

 結局のところ、ある意味では今の俺の生き方は、昔で言えば30手前で50の高僧と同じ域を目指して背伸びしているようなものなのだろう。修道者というか、往々にして宗教と結びついた職業の人達と同じような生き方をしているのだろう。甚だしく思い上がりではあろうが。
 ただ、だからと言って彼らと同じような職の着き方も難しい。俺は神を蹴った。正解という優しさを拒絶した愚か者なのだ。かといって真っ当な哲学者を名乗れる程ではない。我流が過ぎるし、ちゃんとした勉強をしていない。(俺の哲学の出典は大体アニメや小説)

 本音を言えば、思い上がり甚だしいと理解はしているがやっぱり、俺はもはや無職ではないと思うのだ。修道者や修行僧と同じような立ち位置にいると思うのだ。勿論彼らはちゃんと宗教上の役目を果たしているからその対価で生活しているというのはあると思うが、俺だってこうして発信をやっている(というのも烏滸がましい発信頻度だが)。メインの仕事である良い人間であろうとするための苦悩は変わりないと思うのだ。
 でも、それはやはり思い上がりの独り善がりでしかない。その発言に、なんの社会的な裏付けも、宗教的な裏付けも無いのだ。価値を生み出しても、それが金銭で認められなければ無価値なのが資本主義だ。良し悪しではない。その枠組みの中にいるのだから、その条件下で戦わねばならないのだ。

 そう、戦いなのだ。
 譲れぬものが何かは分かった。譲れぬものを守るために戦う術は分かってきた。
 だから俺は、次は譲れぬものを賭けて戦うステージに行かねば、前に進めないのであろう。
 思えば俺は何かを賭けた事がほぼ無い。パチンコもやらないし(一度やってみたが爆音で吐き気がした)、せいぜい友人とやる賭け麻雀でコンビニのシュークリームを賭けたことがある程度だ。ゲームでだって、レーティングマッチは大体どのゲームでもまともにやらない。
 正直理解が出来ないのだ。賭けたものは基本無くなるというのが俺の世界観だったから。物事は基本失敗して、運が良ければたまにメリットが返ってくるかもしれないというものだと思っていたから。その主導権が自分であれ他人であれ、失敗するのが、思い通りにならないのが当たり前という世界で30近く生きてきたのだから。
 常に、大事なものはベットせずに微かなメリットを掠め取ろうという生き方をしてきたのだから。

 今の俺にとって、賭けるべきものは何だろうか、そうも考えた。
 今の俺にとっての譲れないことは、考える事をやめないことだ。感じる事を止めないことだ。提示された正しさに服従することだけは、文字通り死んでもしたくない。
 俺がベットできる最上位は、そういった意味で自分の命だろう。
 その次は何だろうか。それはきっと、今の生活なのだと思う。
 生活保護を受給して、それで貰った時間で思い悩めいている。その恵まれた環境こそが、次に俺が賭けなければ進めないターニングポイントなのだと思う。

 やっぱり、未だに怖い。
 勿論今まで生きてきた中で、その選択に何も賭けずに生きてきた訳では無いだろう。ただいつも、失ってもそこまで惜しくないものしか賭けてこなかった。何を賭けてきたか人生を振り返っても思い出せないくらいには。
 だから、やっぱり未知の領域なのだ。自分にとって価値のあるものを、失いたくないものを賭けて前に進むのは。
 ……一所懸命に頑張るというのは。

 怖い。怖いんだ。
 責任を持つことが。失敗しないつもりで行動するのが、決断するのが、安全マージンが薄いまま挑戦するのが。
 それを迷いなくやるには、成功体験が少なすぎる。
 でもきっと、いや間違いなく俺の言う「格好いい」には、必要なときには全てを賭けて立ち向かえる胆力も含まれているのだ。ここを避けては、目指す己には近づけない。
 だからこそ、俺には優先順位の明確化が必要だったのだろう。絶対に譲れないもの、譲りたくないもの、失いたくないもの、あれば嬉しいもの、どっちでもいいもの。それぞれに応じた覚悟が出来るように。

 きっともう少しなんだ。もう少し、時間をくれ。
 変われない自分が羽化できるまでの時間を……!!

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