確からしさ

 色々と思索を巡らせていると、いつの間にか「確からしさ」という言葉をよく使っているなと思った。
 この言葉の使い方について出た結論をまとめておく。

 「確からしさ」という言葉は、俺は比較的ネガティブな文脈で使っていることが多い。意味としては「そのやり方がどれくらい正しそうか=再現性が高いか」という意味だ。「科学的な裏付けがあるものが確からしさが高い」というと伝わりやすいだろう。
 そう言うと「何を回りくどい言い方をして格好つけてるんだ」とイラっとされそうだ。まぁ格好つけている部分も無くはないが、それなりに自分なりの意義と信条が絡んでいるのだ。

 まず一番が、科学的根拠も絶対ではない、せいぜい確か「らしい」って程度のものだろうという信条だ。
 確かに科学というのは一定の条件下で、自然科学上ほぼ確実に起こる現象の積み重ねを研究する学問だ。科学的に証明されていることはちゃんと「確か」だというのに異論は無い。
 だがその条件付けをするのは人間だ。条件が変われば科学的証明は意味を為さなくなる。富士山の山頂だと、カップラーメンは3分で食べるとまだ固いのだ。
 にも関わらずメディアの「科学的に証明!」の文字に踊らされるのは馬鹿らしいと思わないだろうか? 俺は思う。
 科学的証明が絶対性を発揮するのはその研究結果が出たのと同じ条件下だけだ。それにそもそもメディアの言う確からしさの根拠は統計の方が多い。統計も当然絶対のものではない(p値0.5%)し、その統計が正しくとも所詮パーセンテージの域を出ない。
 何を屁理屈を、と思うかもしれない。だがその屁理屈を忘れてはいけないのだ。どこまで行っても「無条件に鵜呑みに出来るデータはほぼ無い」。
 勿論科学も統計も、大いに信頼性の高い参考データにはなるだろう。だがあくまで参考であり絶対ではない。必ず自分の今の状況に即しているのかを検証するワンステップを必要とする。
 それを忘れてはならないという自戒の意味も込めて繰り返し「確からしい」という表現をしている。「確か」ではないのだと。

 もう一つ、こちらは自分でも最近になって理解したことなのだが、数学的な思考だ。
 もともと、「確からしい」という言葉は数学の確率の用語だ。

「サイコロ」を振って「1」が出る確率と「6」が出る確率は同様に『確からしい』。

 みたいな使い方をする。
 これは見方を変えれば(本来の意味とは少しずれるが)一つの試行に対してとある期待値を、複数の立場が同じように期待できるという風にも取れる。
 デブが豆乳ダイエットして一か月で10kg痩せる期待値と、ガリガリが一か月で豆乳ダイエットして10kg痩せる期待値は同様に確からしいと言えるだろうか?
 そういうことだ。条件が異なれば同じことを試したとして、望む結果を得られる期待値は変わる。同様に確からしいとは言えない。
 結局は前半と同じだ。どこまでも条件が変われば同じ結果が得られるとは限らない。
 アメリカで成功したからといって日本で成功するとは限らない。サイコロの面と違い、日本とアメリカでは面積も違うのだから。

 この二つの実質的には同じ理由で「確からしい」という言葉を使っているのだが、いろいろと考えているうちに、何故こんなにもそれなりの敵意を込めて「確からしい」という言葉を使っているかも分かってきた。それは均質化への反感だった。
 ここまで散々「条件は異なるのだから」と言ってきたが、これは裏返しで「条件は異なるんだぁぁぁ!!」と主張しているに過ぎない。
 多様性が叫ばれる現代、しかし裏腹に均質化、あるいは定量化を是とする風潮は続いている。

 人、というより管理者にとって手下というのはなるべく自分の想定通りに動いて、イレギュラーなく、管理できる者であって欲しい。
 テトリスのブロックが意図せず回転したらムカつくし、マリオがルイージと喧嘩して前に進まなくなったらうんざりする。
 個性など要らないのだ。思わぬ収穫を得られる期待より予期せぬ不具合を忌避したい気持ちの方が強い。
 一つのマニュアルでなるべく全員の生産性が向上してほしいし、イチイチ一人ひとりに適切なやり方を考えるのは非効率だ。

 つまるところ、経営者にとって労働者というのは、正しく「歯車」である方が都合がよいのだ。均質であること、その差はせいぜい大小といった定量化できる範囲内に留まっていてほしい。個性だのなんだのというのは要らないわけではないが、それは人を使う側になってから主張して欲しい。
 これは別に、そういった「持つ者」を責めているわけではない。それは人間として正しい努力であるからだ。良い悪いを語る次元の問題ではない。
 ともかく、こういった「新自由主義」的社会の流れによって長い間「人材の均質、定量化」が進んできた。
 それは何故か、一括管理をするには前提条件がなるべく同じであった方がやり易いからだ。「確からしさ」を増すには、なるべく均質であった方がいいからだ。「定量化」という裏付けによって、確からしさの条件を明確にしたいからだ。
 一つのマニュアルでバイトを育てるには「文字が読めて、切り売った時間内は店のために全力を尽くさないとならない」という均質な価値観があった方が都合が良いのだ。「販売実績が高い人材」を重用する方が(実際の管理職への適性を精査するよりも)なんとなく皆納得するしそういった人材を管理職にするノウハウが溜まっているのだ。「確からしさ」が高まるように思えるのだ。

 だから自分に対してであれ、他人に対してであれ、確からしさを理由に思考を止めることに対して猛烈な反感を感じるのだ。
 人によって生きてきた世界観は異なる。自分を人と同じだと考え、いざ期待通りにならなかったら文句を言うのも。確からしさを高めるため条件を毎回考えるのではなく、そもそも条件の方がなるべく均質であれと願って個性を削るのも。

 きっと、本来はそれも善意であったのだろう。
 皆が幸せのために何をどれくらい頑張る必要があるのか考えずに済むように。
 皆に幸せを感じられる方法論を一般化するために、少しずつだけ前提条件となる個性を均質化する。
 少しくらい個性を削るより、余程幸せになるための方法を考えるために思い悩む方が辛いだろう、と。
 それはきっと、自分だけの利を考えてではなかったはずだ。自分の利もあったとしても、それが皆の利になると思ったから、世界はこの方向へ進んできた。
 だが想定以上に人は自分の個性を削ることにストレスを感じた。経済が成長しているときは良かった。個性を削るストレスを与えられた幸せの享受が上回っていたから。
 だが経済が停滞しだすと、もう駄目だ。皆が個性を削られるストレスに耐えられなくなり、多様性を主張しだし、それもできない人は人生に絶望する。

 だからやはり俺は思うのだ。
 与えられた幸せを享受出来ないなら、自分で考えるしかないのだと。
 確からしさに頼らずに、自分で考える力を身につけなければならないのだと。
 たとえそれが終わりのない戦いだとしても、心が折れそうになったとしても。


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