世界に受け入れられている感覚

 noteを書くのも結構久しぶりになる。
 ここ最近ゲームにハマってて、ついに連続投稿も17週辺りで停まってしまった。仕方ない。
 やっていたゲームは9/29まではMount & Blade IIで、29に発売されてからは黎の軌跡IIだ。一日12時間くらいのペースでやってたのでクリア済みになる。一応ネタバレにはならないつもりだが気にする人居たらごめん。

 軌跡シリーズ自体は俺が中学生だった頃からずっとやってきているゲームなのだが、それをやっていて思う。
 世界に受け入れられている感覚ってのが、あるんだろうな、と。

 どんなゲームにも、小説にも、主人公が居て、それを支える仲間や立ちはだかる敵が居て、名前のあるモブが居て、名も無きモブがいる。
 彼らの間の差は何なのだろう。

 まず受け入れやすいのはシンプルに主人公との親密度だ。
 明確な群像劇といった作品でない限り、殆どの物語には主人公がいる。一人の場合もあるし少人数のグループかもしれないが。そして彼らの視点を中心に話が展開するのであれば、彼らの眼中に無い人物は当然名前が無い。

 もう少し話を飛躍させてにはなるが、力が有るか否かも重要な要素になるだろう。
 日常系とかだとあまり関係は無いが、戦いを伴う物語ではより顕著だろう。単純な戦闘力だけに限らない、発言力や政治力、サポート力。
 物語の大きな流れに何かしら影響を与えられる人物だ。
 主人公の個人的な友人であっても、物語に関与しない関係でしかなければ物語に描かれず、当然名前も出ない。
 誰がやったかは関係ないような木端な役割しか果たしていないのであればモブとしか描かれない。

 軌跡シリーズを俺が好きな理由の一つに、モブにもストーリーがあることがある。
 主人公とは全く関係性が無いか挨拶を交わす程度のモブが沢山居て、彼らの近くで話を聞き続けているとストーリーがあり、たまに彼らからのクエストを受けたりする。
 別の国で失脚した政治家が他国に亡命してきて(以前のシリーズでのモブ)家族で暮らしてるけど夫婦仲が悪い。一人息子はそれに嫌気が差して非行に走る。それを主人公たちが介入して説得して、一家が仲直りする。次回作ではクエストでは登場しないけど一人息子は頑張って受験勉強し、両親に応援して貰って主人公たちの後輩になってる。みたいな。
 基本的に主人公達とはそのクエストの時にしか接点無いけど、その前後にも彼らの物語がある。
 主人公が変わっても「あー、あの時のあのモブがこっちにも出てる!?」とか「おー成長したなー」みたいな感じでモブが続投してたりする。言っちゃなんだがキャラクターのモデリングは完全にモブ用の使いまわしなのだが。

 そんな軌跡をプレイしてて思ったのだ。
 名前のあるモブと名前の無いモブの差って何なのだろう。

 当然だが、現実世界に明確なモブは居ない。
 誰もが自分の物語の主人公であり、同時に見知らぬ人にとってのモブでしかない。
 俺自身だって、別に明確なモブとして用意されている存在ではないはずだ。
 ただ実感として、もし自分がどれくらいの役を担っているかと言うとやっぱりモブなのだろうなとは思う。
 それ程多くの友人がいるというわけでも無いし、彼らに何か影響を与えているかと言うとそうでもない。当たり前だが力は無い。
 モブか否かの定義が難しいとは思うが、一つの分かりやすい指標として「結婚式に呼ぶか否か」というラインはあるだろう。周囲の友人がオンラインに拠っていたり、連絡を取っているリアルの友人は未婚ばかりというのもあるが、齢29にもなって一度も結婚式に行ったこともなければ呼ばれたことも無いというのは、そういうことだろう。

 俺は誰にとっても何者でもない。

 俺自身は置いておいて、軌跡のモブキャラの中にも実はランクがある。
 本筋に関わりはしないが、主人公達にも名前と経緯を認識されているキャラクター達だ。
 軌跡の場合は分かりやすい。専用モデリングが用意されているかどうかだ。
 そんなキャラクターの中の一人で、一人の少女が居た。
 貧しい紛争地帯の生まれで、親を亡くしてからは船に潜り込み密入国をし、スラムでストリートアートを描いていた所主人公達と出会う。そのまま悪い奴に捕まりそうになるが、主人公達とは別の所で良い出会いに恵まれ、温かい環境で才能を活かす環境を用意して貰える。
 美しい話だ。そして空しい話だ。
 彼女は飛び切りの才能があったから温かい出会いに救われ人生が変わった。そして専用モデリングもあった。でも似たような事件は今までのシリーズでもあったが、そうやって救われた少女に名前はあっても専用モデリングが無い事は多々あった。彼女たちには特筆すべき力が無かった。主人公たちの物語に関わり認識して貰えるほどの力が無かった。


 モブでしかない俺にもそれなりの人生が当然ある。
 だがそんな俺の人生どころか、名前を知っている人も多くない。当然俺の人生なんて誰も興味を持たないだろう。
 誰かに自分を個人として認識してもらうには、やはり力が必要なのだろう。
 無名が有名になるためには相応以上の影響力が必要だ。ネットで距離の概念が薄れたことで、もはや近所というだけでは影響力には繋がらない。
 「有名」になるためのハードルは果てしなく高くなってきている。誰もが耳にしたことのある存在になるだけではなく、誰かに名前を覚えてもらえる存在になることだけでも、ハードルが果てしなく高くなってきている。
 別にそれは良い悪いの話ですらない。ただ時代の流れというだけだ。

 なら力を、影響力を持つ為にはどうすればいいか。何を置いても、まず行動することが必須だ。行動に必要なのは何か、雑に言えばやる気だ。ならやる気を出すには何が必要か。

 これはずっと考えてきたことだ。
 行動と言うのは一回で済むことでは無い。全てを無に帰す行動は一回で起きるが、何かを成すには継続的な行動が必要だ。つまり一過性のやる気ではダメなのだ。
 そういった本を買って読んだこともある。でもいつも通り別世界の攻略本にしか思えなかった。
 哲学を色々調べたこともある。分かったような分からないような。しっくり来たとは言い難いし、少なくとも俺の問題が解決していない。

 そんな中、自分にとってこれかな、と最近思うのは「世界に受け入れられている感覚」だ。
 自己効力感が一番近い。

 成功者は皆「やりたいことに熱中することが成功の秘訣だ」と言う。
 それはきっと金言なのだろう。その通りなのだと思う。
 でも、じゃあやりたい事が金にならない場合どうすれば良い?
 金にならなければ飯を食っていけない。食っていけなければ生きられない。
 生きるために働いていて、余暇でやりたいことをするのが一番賢い方法なのだろう。そんなことは分かっている。
 ただ俺にはそういう生き方が出来なかった。
 やりたい事がやりた過ぎて、それに繋がらないタスクをやっていることへの納得いかない感が体を鈍らせ、意思を鈍らせる。いずれ自分自身を制御出来なくなって、逃げる。
 やりたい事を仕事にしようと思っても、TRPGは市場が出来て無いから前例も少なくビジネスモデルが構築出来ない。哲学は金にならない。労働問題に携われる程経験もスキルも無い。
 何をやるにもやりたい事をする前には本意ではないことを下準備でする必要がある。そんなのは当然だ。誰もがその道を通って頑張っているのだから。
 ただ、誰もが通ったからと言って俺が通れるという道理にはならない。皆と同じように器用に自分を制御出来るのであれば、俺はここまで社会不適合者では無いし、能力を活かしてもっと稼げるビジネスマンだったろう。
 きっと完全に無理というわけでは無い。だが無理を通そうとすれば、納得のいかないものを納得いかないまま無理に従おうとするのなら、間違いなく俺と言う人間を殺すという予感がある。

 考える事を止めて現実に生きるのは賢い選択かもしれない。つべこべ言わず就職して、やりたい事とやるべき事の折り合いをつけて生きる事を模索するのは正しい生き方だろう。
 で?
 そんなことは何回も考えた。考えた末にそこを通すには自分を根本的に矯正するしかないと結論付けた。それはつまり、今の自分を殺すという事だ。
 きっとその選択は正しいのだろう。だがそれは「生きていくには」という命題においてだ。申し訳ないがそこまでして生きていきたいと思わない。そこまでして生きる価値をこの世界に見出せないからだ。

 というのは何度もここにも書いてきたことなのだが、読んでも理解出来ない人の方が多いのだろう。
 時折とても「まとも」な事を言ってくれる方は居て、その善意自体は有難いのだが、本心を言うとありがた迷惑である。
 折り合いをつけるなんてまともな事を出来るような人間であるならここまで落ちぶれていない。試したことが無い訳が無いだろう。あれから俺はそこまで買われていないし、同じやり方をしても失敗するのは目に見えている。

 と、まぁちょっと面倒くさいことがあったので愚痴にはなったが、まぁどうでも良いのだ。
 幾ら論理的に書いているつもりでも、殆どの人には伝わらないのだから。
 だって彼らは「世界に受け入れている」のだろうから。


 頑張ればいずれは成果が出る。
 自分がやりたい事が誰かに評価される。
 そしてそれが金銭になる。
 努力していれば誰かに認めてもらえる。
 困っていれば誰かが助けてもらえる。

 羨ましくて反吐が出る。
 勿論毎回や絶対では無いだろう。
 だが「いずれ報われる」。その感覚が途轍もなく妬ましい。

 「いずれ報われる」
 そう多少なりとも思えるからこそ、多くの人は頑張ることが出来るのではないか。

 そんな感覚、俺には無い。あるとすれば
 「最終的に無為になる」
 だろう。

 理由は分かっている。単純だ。
 もしそんな流れが来ていても、俺がそれを信じないからだ。
 助けてくれる人への信頼より自分への不信感が勝る。
 そのまま続けていれば成果を得られていたとしても、自分を信じられず途中で逃げ出す。
 俺が悪いんだ。笑えよ。
 だがそれが問題であることは10年前から理解していたが、直せない。
 だから俺は社会不適合者なのだ。

 自己効力感。
 自分がやりたい事を成し遂げられるという感覚。
 社会や世界に影響力を持っているという感覚。

 それに近いのは近い。
 ただ何というか、主が自分ではなく世界側にある。
 世界から拒絶されているというのは強すぎるが、面倒なものとして扱われている感覚。
 「そういうのはちょっと必要として無いんだよね」
 と言われている感覚。
 「欲しいのは他人からして使いやすい人間なんだよね。我が強いタイプのもいるっちゃいるけどそれにしては君成功体験少ないし意思弱いんだよね」
 と言われている感覚。

 自分のやりたい事に熱中しても、報われないという感覚。
 だからやりたい事を捨てて、人に求められることを優先しなければ生きられないという感覚。
 生きるためには、自分の為ではなく他人の為に生きなければならないという感覚。

 きっと世界に受け入れられている感覚がある人には理解が出来ないのだろう。
 探せば両立出来るものがあると信じているから。頑張り次第で手が届くものだと経験しているから。
 だからやっぱり世界観の問題なのだ。

 俺の生きている世界はそんな世界ではない。
 確かに探せば両立できる道はあるのだろう。だがそれは俺には手が届かない場所にある。
 手が届くとしても、そこまで頑張れるような意思の強い人間ではない。
 現実的に考えて無理があるという世界が俺にとっての現実だ。
 でもそう考えると生きるのが辛くなるから、世間様一般の現実から目を逸らし、自分にとって都合の良いように世界の認識を歪めて生きている。

 きっと理解出来ない人は理解出来ないのだろう。
 真っ当なやり方をすれば、真っ当な結果を望める世界しか知らない人には。
 正攻法が通用する世界に生きている人には。
 その世界で生きている人と話すのは疲れた。言葉を尽くしても伝わらないのだ。自分の生きている世界が肯定されているから、容易く他の世界を否定出来るのだ。だって自分は肯定されているのだから。だって君は失敗しているのだから。
 自分が出来たのだから相手にも出来る。そんなことを平気で言えるのだ。

 俺は世界に受け入れられている感覚が無い。
 正攻法が真似できない。自分自身のせいで。責任転嫁も意図的且つ便宜的にしてはいても本心からは出来ない。常に世界から、自分自身から責められ続けている。
 そんな状況で、自分を肯定してくれる世界に、自分の操るキャラクターや投影する主人公が受け入れられている世界に、ファンタジーやゲームの世界に救いを求めるのはおかしなことだろうか。

 でも時折、その中で目にする。
 世界に否定されていたキャラクターが世界に肯定される瞬間を。
 それが主人公達ならまだいい。自己投影している最中だからカタルシスに繋がる。
 でもそこまで同一視出来ていないモブが受け入れられていくのを目の当たりにすると、心が揺らぐ。
 受け入れられていくのには理由がある。大抵の場合親しい人か、自分の力だ。
 そして自分を振り返る。受け入れてくれる親しい人など信じていないし、認めさせられるだけの力も無い。何よりも、自分への不信感が勝る。

 だからやっぱり、結局のところ俺は縋るのだ。
 自分の力に。思ったより自分には能力があって、認めさせることが出来ることが出来るという無いに等しい可能性に。
 望外の出会いに。俺を見出して、取り立てて、俺のやりたい事が食っていく事に繋がるような道を示してくれる人が現れるという無いに等しい可能性に。

 そんな無いに等しい可能性に縋らずには、命を継続させることも危ういというのは、どれだけ思考を重ねても、どれだけ外に出るようになっても変わらない。
 もしそんな俺に何か意見を言うのであれば、逆に聞きたい。あなたは俺に何が出来るのか。

 何百万の投資をしてくれるというのか?
 自分自身か或いは娘や姉妹を俺の伴侶としてくれるというのか?
 俺のやりたい事の為に一緒に時間と金と労力を使って手伝ってくれるというのか?

 なぁ、教えてくれよ。
 もう俺一人じゃ変われそうに無いんだ。
 業務の範疇でとか、友人の範疇でとか、自分の息子の範疇とか、どうでも良いんだ。
 俺はそんなの信じられない。そんなものより自分自身への不信感が勝っちまうんだ。
 所詮あんた自身の利益、優越感とか金銭とか体面とかそういうのの範囲でしかないとしか思えないんだよ。
 口だけのアドバイスとか助言とか忠告とか心配とか、要らないんだよ。
 身を切ってまで、自分自身が大きな損を負ってまで俺を助けたいと思ってくれるのか?
 無理だろ? そりゃそうだ。所詮俺はそれに値する人間じゃない。俺が他人の立場だったら近寄りたくも無い。
 金の無い所に人は集まらない。素直じゃない奴には誰しも近寄りたくない。付き合っててメリットが無ければ付き合いを見直す。
 人なんてそんなもんだ。俺自身だってそうだ。
 取り上げても面白い話にならない人物。それがモブってものだ。
 誰からも、主人公達からやプレイヤーだけじゃなく、現実世界の誰からも自身が与えられるメリット以上の価値は見出されない。自分自身からもだ。
 頑張って頑張って、相手に、社会にメリットを提示してやっとそれ以下のお返しを貰える「こともある」。
 そんなの誰だって同じだって笑うだろう。怒るかな?
 違うんだよ。「以上は無い」んだよ。上振れなんて無いんだよ。
 クリティカルなんて出ないんだよ。ダイスを振らなければ勿論、振ったところで。
 もしかするとそれは俺が高望みしすぎているだけなのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。だとしても俺はこの認識の中で生きてきて、その認識を変えられるだけの「望外」なんて望めないんだ。ならそこでしか生きられないなら、その中でどうやって生きるかを模索するしか無いんだ。

 だから言ってるじゃないか。
 俺を否定するなら。俺の世界観を、これまでの人生を否定するのなら、領分を超えて助けて見せてくれよ。
 大きく身を切って、世の中捨てたもんじゃないと思い知らせてくれよ。
 「レ・ミゼラブル」の司教様になってみせてくれよ。
 俺はなんだかんだ日本における必要最低限の生活を保障されてるから、ハードルは高いぜ。パンとスープだけじゃ揺るがない。
 なぁ、こんな傲慢で素直じゃなくて無価値な人間に、あんたは何をしてくれるんだ?
 何もしない。したくない。大丈夫、あんたは悪くない。そんなの当たり前だ。口以外はびた一文出したくないのは当然だ。


 時折、何度も考えてしまう。
 なんで俺はここまで歪んでしまったんだ?

 親の教育のせいか?

 まぁそれもそれなりにあるだろうが、それだけじゃない。
 やっぱり思うんだ。もはや運でしかないと。
 「ありのままの自分」なんて青臭いものが、そもそも世界にとって受け入れがたいものでしかなかったのだろうと。
 何かしら掠っていれば、それを取っ掛かりに頑張ればいずれ報われるなんて感覚を得られたのだろう。
 そこから先に努力は必要だ。だから成功した人達の努力を軽視して「あいつらは運が良かっただけだ」なんてのたまうつもりは毛頭無い。
 でも掠りもしなかったのは、家の問題も含めてもう運としか思えないんだよ。努力次第でやり様があったなんて言われても辛いんだよ。これ以上どうすれば良かったんだ? どうしたら良いんだ?
 ネットが発達して情報収集は容易になった。でも売れる物は、目立つ者は、多くの人に支持されるものだ。大多数にとって都合の良いものだ。そんな当たり前を当たり前に出来ない人は、どうすりゃ良かったんだ? 教えてくれよ。

 どれだけこんな尖り過ぎて使い物にならないキャラクターを疎んだって、ゲームと違ってキャラ変出来ないんだよ。
 俺は俺でしか無いんだよ。
 当たり前を当たり前に出来なくて、既存の方法論は使い物にならなくって、育成するためのコストも足りなくて、でも捨てるには死ぬしか無くて。
 どれだけ世情のメタに合って無くったって、うまい活用法を模索するしか無いんだよ。
 俺は変われなかった。生まれ変われなかった。殺してまで、生きたいとは思えなかった。
 それを否定するなら、俺を殺せよ。生活保護で活かすなよ。

 生活保護で生きながらえていることが、もしかしたら世界に受け入れられているのではないのかという唯一の根拠である俺を。

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