月額13万円

「生きてて良いんだよ」

 一般的にはとても綺麗で、俺的にはとても嫌いな言葉だ。
 大抵の場合、その言葉は酷く薄っぺらい。そう感じてしまうのだ。


 月額13万円。
 俺の命の値段だ。
 13万円で誰かに俺の命を売り渡す、という意味ではない。
 この命を途切れさせないために必要な生活費として、俺が払っている値段だ。
 俺が、というのは卑怯か。生活保護によって皆に払ってもらっている金額だ。
 勿論住む場所や工夫次第でもう少しランニングコストを下げられるのだろうが、一先ず東京都の生活保護の支給額が13万円ということを踏まえると、日本人の命の月額の指標として13万円を基準にするのは悪くないだろう。

 このリアルの人生をゲームとして捉え直すとどうだろう。

 このゲームは月額13万円だ。
 そして一度ゲームを辞めてしまうと二度と再開出来ないので、払い続けなければならない金額だ。
 面倒になってゲームを解約しようとすると、誰もが止めてくる。それは悪だと。
 じゃあこのゲームは月額13万円払う価値がある面白いゲームであるかと言われると、なんとも答えづらい。
 間違いなく、人によっては十分に面白い。安すぎるくらいなのだろう。
 確かにこのリアルは、作られたどのゲームよりも複雑で、プレイ人数も段違いだ。ゲームがうまく行っている時に得られる快感もリアルなもので、やりごたえは他の追随を許さないに違いない。
 だが、うまくいっていない人からすればどうだろう。月額13万円も払い続けるだけの楽しさがあるのだろうか。

 こんな話をすると、絶対に「ゲームとリアルを同じ基準で語るのが間違っている」と言う人が出てくるとは思う。
 だが、そう言うのであれば何がどう間違っているのか教えて欲しい。

 ゲーム体験で得られる感覚はリアルだ。
 人間のあらゆる感情も脳の反応に過ぎないのであれば、ゲームでもリアルでもきっと同じ反応を起こしている。人の脳は虚実を見分けられないらいしいから。
 プレイヤーキャラが他でもない自分自身であることが、リアルの特別性か?
 それは一理ある。で、その特別さにどれだけの重要性や価値がある?
 プレイヤーキャラクターを通じて世界に干渉し、成功報酬を狙い喜ぶという観点では同じだ。
 リアルの体験といえばネガティブな体験の方が多い人にとっては、その特別性はむしろマイナスとさえ言えるだろう。

 「ゲームとリアルを同じ基準で語るのが間違っている」なんて言えるのは、現実の自分の人生を肯定出来ている人だからだろう。
 肯定出来ていない人にとっては、ゲームの方が余程優れている。
 何故なら、ゲームの方がある程度単純化されていて遊びやすいし、クリア出来る道筋が必ず用意されているから。成功の存在が約束されているのだ。
 複雑に過ぎて、矛盾と欺瞞だらけで、そして頑張りが報われる保証も無い月額13万円のリアルなんてクソゲーだ。

 ま、別にそれ自体はどうだって良いんだ。リアルがゲームと同格の存在かなんて。
 問題はリアルの月額が13万円ということだ。
 人が最低限食べていくこと、住む場所を確保すること。命を継続するのに13万円かかるということだ。
 一度途切れさせたら二度と再開出来ない命を継続するために、人は最低13万円は稼がなければならないということだ。
(実家暮らしだとか遁世とかで月額はもっと安く出来るが、今は置いておく)
 そして凡その人、凡人にとって稼ぐと言うのは自分の身体、精神、時間を他人に切り売りすることで対価を貰うことだ。
 そして13万円を稼ごうと思うと、往々にして生活の全てを仕事に費やすことになる。家に帰っても自分のために時間を使う余力が無く、ただ次の仕事への回復のために寝転がり、思考を止めさせるために動画を見続ける生活。
 生活の全てが仕事のために存在しているのなら、それはつまり月額13万円を払ってキツい仕事をやっているのに等しい。自分の殆どを売って、ネガティブな体験を得ているだけに等しい。

 当然、今言っていたことは極端に単純化した話で、現実的とは言いづらいものではあるだろう。
 月額を13万円以下にする方法だって色々あるし、仕事がただ辛いだけのものとは限らないし、仕事しながらでも自分の時間を取る方法も幾らだってある。
 だが、それら全ては、「自分の殆どを売って、ネガティブな体験を得ているだけに等しい」なんて一般化出来ないよという反論は大して意味が無い。

 「生きるために働くのは当たり前」の中身の説明をしたかっただけなのだから。
 その当たり前を遵守して、死なない為に嫌々でも働いている人に「実家暮らしでアルバイトでも生きていけるよ」とか「仕事ってもっと楽しいものだよ」なんて言ってどれだけの意味があるのだろうか。
 嫌々働いている人は、それ以外の選択肢があると知りながら現状を変えるというのが怖くて、余力が無くて変われない人達だ。
 忘れてはいけない。人は一週間飲まず食わずだと死ぬ。一日であっても飢餓感と渇きが猛烈に襲ってくる。途切れさせられないのだ。次の食い扶持を見つけられなかったら終わりなのだ。
 当然、本当はそんなことは無い。失業保険があるし貯金を切り崩せるし、最悪生活保護もある。だがセーフティーネットの利用の仕方をしなかったり、利用すること自体が大きな恥だと思うから変わりたく無い人達なのだ。
 だから、他の選択肢があるなんて反論は、大して意味が無い。
 まぁそんな話を他の選択肢(生活保護)を選んでる奴が並べ立てるのは、それもまた少し筋違いな気もするが、俺にだって確かにそんな時期はあったのだから許して欲しい。


 人は決して途切れさせられない命を継続するために、13万円で自分の命を買い続けなければならない。買うためには稼がなければならない。そして、心理的にも難易度的にも、一番誰でも取りやすい選択肢というのが自分の身体や精神や時間を切り売りすることであり、しかしその選択肢だと自分という存在の殆どを捧げることになる。
 死なないために、生きることになる。
 それは当たり前な事なのかもしれないけど、そんな生活における仕事というのはネガティブなものでしかなくなる。
 そして同時にそれが当たり前になっている。仕事が生きるために仕方なくやってる、辛いだけのものとなってる人が多くなっている。
 それはまぁ、仕方ないことではあるのだ。景気が悪くなれば希望はドンドン薄れていく。自ら変える力を持てない人々にとって、その影響力は絶大で絶対だ。

 そんな世界観で生きている時に、「生きてて良いんだよ」なんて言葉がどれだけ薄っぺらく、安い物に聞こえるか。
 自分は死なない為に、生きるために自分の存在を切り売りしてなんとか自分の命を買い取っている。
 自分の命とは、苦しみに満ちた奉公でやっと継続することが許されるものなのだ。
 だというのに「生きてて良いんだよ」という言葉がどれほど安い物か。文字通り、一銭の価値も無い。
 だから「生きてて良いんだよ」みたいな安い綺麗事を聞く度に俺は思う。

 「同情するならカネをくれ」

 こんな話をすると「金でしかものを捉えられないのか」とか言われそうだし、我ながらさもしいことこの上ないと思う。
 だがそれも当然だろうとも思う。
 大事な大事な自分を切り売りしてやっと自分の命が買えるのだ。金は命と同じくらい重いのだ。そうでなければ許されないのだ。
 現代に於いて、飯も住処も基本的に金で買うしかないものだ。誰かに恵んでもらえるものでも無いし、当たり前にそこにあるものではない。

 別に現金じゃなくても良いんだ。拝金主義ってわけじゃないんだから。
 食料でも、住む場所でも、時間でも良い。何かを自分に費やしてくれ。
 言葉は与える影響力は大きくとも、そのコストは非常に軽いものだ。

 「生きてて良いんだよ」

 口なら幾らでも言えるだろう。
 じゃあ聞くが自分の生活費を出してくれるのか?
 無条件で肯定してくれるというのなら、働かず生きる自分に文句も言わず月額13万円を払ってくれるのか?
 無理だろう。そんなわけがない。俺にはそんな価値、無いんだから。


 ふぅ、やっとここまで書けた。
 実はここまでが前提の話なんだ。本当に整理したかったのはこの先、その先だ。

「生きるために働くのは当たり前」
 その中身は自分の命を継続して買うために、嫌々でも自分を切り売りし続けること。
 それだけ苦しみながら得た、自分の命を買うための金はとても重くて、自分の命というのはそこまでしなければ存在を許されないもの。
 きっとそれが「心が貧しい」の中身で、その本質は「同情するならカネをくれ」。
 建前や綺麗事を安い言葉と嗤い、どうせ身を切ることは何もしないくせにという無期待。

 この無期待を覆すために必要なのは、カネと仕組みだ、というところだ。
 不本意な労働をせず自分のために生きる姿を、実際に誰かが大事な大事な金を払って支えてくれているという事実。
 子供の頃は許されていて、でも大人になって「現実」とやらから逃れられず回復することの無かった、「生きる事が許されている」という感覚。
 「命は買い取らなければ存在を許されないもの」という「現実」を覆しうる事実。

 それが今描いている構想の根っこなのではないかと、ようやく整理が付いた。

 以上(いつものように自己解決のみで終わり)


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