期待

 ようやくというか、生活に支障が出て来てからやっと高まる選挙への関心。元首相の銃撃。円安。技術革新。
 間違いなく、今日本は激動の時代にいるのだろう。多かれ少なかれ、誰しもが変化の兆しを、ざわざわとした感覚を持っているのだろう。
 ただその内どれだけの人が、その先に希望を持っているのだろうか。

「どうせ何も変わらないか、緩やかに悪化していくんだろ」

 そんな無期待感、閉塞感を感じている人は多分俺だけじゃないのだろう。
 社会全体に諦念と無気力感が蔓延している。

 まぁ、今回は社会全体について論じたいわけじゃない。俺個人のことだ。
 この変化が起こり得る今において尚、徹底的に俺は誰にも期待していないのだな、といういつもの奴だ。

「○○って奴は××をしてる/してない。悪人だ、とっちめろ!」
「私たちは△△をしなければなりません!」

 人には色んな意見がある。それは時に対立し、よく周囲を正しい自分の考えに改心させようと暴れだす。
 別にその行為を責めるつもりは無い。自分の支持者を増やそうと声を挙げるのは正当な行為だからだ。
 ただ、そういう記事を見る度に俺自身は白けた気分になる。

「いや、他人に変われと怒鳴る暇あったら自分が何できるかを考えろよ」

 そんな風に毎回思う。
 冷静に論理的に考えれば、おかしいのは俺の方なのだ。
 他人に何も要求しないというのは、他人に何も期待していない、信頼していないということだ。
 期待せず、信頼しなければ様々なことが立ち行かなくなる。

 分ってはいる。
 だが、苦しい時、辛い時、誰も助けてくれなかった。ご飯を作って慰めてくれる女の子が扉を開けてやってくることはなかった。
 勿論俺は色んな人の助けを借りてここにいる。自分一人でここまで来たなんて欠片も思っていない。
 それでも、自分の行動の結果助けを得られたのだとも思っている。
 誰も、無償の愛や無償の支援なんてくれない。何かしらのメリットを提示出来なければ助けて貰えないし、他人を変える事なんて出来ない。
 変化というのは多大なエネルギーを要するものだ。自分の都合の良い様に他人を変わってもらうというのは、変化というだけでデメリットな上に、大抵の場合自分のストレスを相手に肩代わりさせるものだ。
 何かメリットを提示出来なければ、誰も自分には無関心で、助けも協力も変化も得られない。
 ……本当は無償の善意もあったのかもしれない。でも俺はそれを信じきれなかった。
 それはきっと俺自身が無償の奉仕をすることに極端に恐怖しているからでもあるだろうし、もはや脅迫概念という程にこびり付いているのだ。

 そんな俺にとって、「○○しろ」だの「××するなんて最低」だの一方的に要求を叩きつけて、しかもその理由が「自分が正しくて相手が間違ってるから」なんてのを見るのはどうにも受け付けないのだ。

 正しさなんて人によって変わるのに、なんでそんな自信満々なんだ。
 例え相手が間違っているのだとしても、それだけで人が変わるわけないだろ。

 この心の奥底で燻るムカつきの正体は、おそらく嫉妬なのだろう。
 単純に善悪二元論を信じられて、楽に生きられている人への嫉妬。
 俺だって自分が正しくて、自分と違う考えの奴は間違っていると思って生きられればもっと生きるのが楽だった。そうなりたいかというと否だが、それでも羨む気持ちは確かにある。
 羨望、嫉妬。でもそれが自分でも愚かで無意味な感情だと理解しているから押し殺して、白けた感情が表出する。

 改めて我ながら、本当に捻くれた人間になってしまったなと思う。
 人間関係もメリットデメリットを抜きに見られない。それは勿論金銭的なものだけじゃなく感情のメリットデメリットも含めてだが、逆に言うと感情すらメリットデメリットで計っている。
 一つの発言や行動を取っても、それによってどんな利益を引き寄せようとしているのか、逆にそれで誰がストレスを押し付けられるのか、そこに公平性はあるのか。その辺りを通り感情を止めて一遍把握してからじゃないと何も理性的にも感情的にも判断出来なくなっている。
 基本的に誰も信頼していない。信用してプランを組み立てるけど、前提として頼ることなく、いつもどこか居なくなっても問題ないよう、失望しないよう、裏切られた気持ちにならないよう、セーフティーマージンをかなり多く置いている。
 政府なんて信用すらほぼしていない。基本的に邪魔しかしない連中と思っているし、利用できるところだけ利用して、適当にあしらっておけばいいと思っている。遵法精神なんてほぼ無い。バレなきゃ問題ないとまでは言わずとも、黒じゃないグレーなら別にいいだろと思っている。だって機能不全な癖に邪魔だけしかしないんだから、尊重する価値は無い。



 ……とか、またこんな益体も無い事を吐き出している。
 分ってはいるのだ。こんなことを書いても誰の利益にもならない。せいぜい俺自身の鬱憤が晴れる程度だ。そしてその鬱憤を読み手の顔にグリグリと押し付けてスッキリしているに過ぎない。
 俺自身が白けて目で見ている、文句だけ言う奴らと同じ行動だ。
 ただまぁ、鬱憤晴らし以外に意味があるとすると、多分これは威嚇なんだと思う。
 根底にあるのは恐怖故の防衛本能だ。

「俺はこう考えているんだ!」
「普通と違うのは分かっている! でも普通を強要するな!」
「俺はこんな人間なんだ。ウザいと思うなら離れてくれ! もう自分を偽りたくない!」

 まだまだ俺は弱い。
 言うべきことと場所を見極めて、そうでないところでは口を噤めるのが品性だというのなら、まだまだ俺にはそれが足りていない。余裕が無さすぎる。
 嘘はつける。でも嘘を突き通せない。
 自分を演じることは出来る。でも最後まで演じきれない。

 ありのままの自分でいること。
 そう聞くととても良い事のように聞こえる。
 きっと確かに自分を偽り続けて辛い人生を生きるより良い事だろう。
 でもそこで終わりじゃない。
 やっぱり結局、ありのままの自分を死守すると軋轢を生む。
 だから必要に応じて自分を偽りとおすこともまた大事なのだろう。
 まだその域には達せていない。未熟だ。
 でも許してくれ。そうでもしないとこの虚勢が崩れてしまうんだ。いとも簡単に。
 門の中でキャンキャン吠えている子犬に過ぎないのだ。虚勢を張るのに必死な臆病者なのだ。

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