抗常心

 昨日今日と、うだうだ思考を回しつつ音楽を聴きながら散歩をしていた。
 google mapのタイムラインを見ると合計で40km弱歩いたり自転車を漕いでいたらしい。

 福山雅治の曲を聞きながら歩いている時に一つのフレーズが頭に残った。

「自己肯定感低めでして
 それはね向上心の方が
 自己肯定を上回っているからって」

福山雅治「ボーッ」より一部抜粋

 俺はどうなのだろうか。
 いや、そうなんだけど、そう言うには烏滸がましくてそうと言えないこの感覚。

 俺はかなり自己肯定感が低い人間だ。
 俺にとってそれは今更証明するまでも無いくらい自明のことで、それ故の苦しみも幾らでも味わってきた。
 生きづらさを自覚してからは何度か自己肯定感を上げる方法を試そうと試みたこともある。動画や本で学んで。
 ま、試そうとして毎度試すことすらせずに忘れ去った。
 面倒くさくて続かないとかでは無いのだ。端的に言うと拒否反応だ。

「『今が良い』とか思わない
 『今で良い』とか思いたくも無い」

Blue Encount「Waaaake!!!」より一部抜粋

 まさにこの通りなのだ。
 今の自分は嫌いだ。至らない所ばかり目につく。
 これまでの自分は許してやる。否定しても何も始まらないから。
 未来の自分が嫌になる。どうせ無様なまま一生を終えるのだろうから。
 自分が死ぬその時に、少しでも「善い」自分であるために、1mmでもマシな自分でなければならない。
 そう考えると、当たり前だけど「今が良い」とは思えないのだ。
 そう考えているのに、「今で良い」とか思いたくも無いのだ。
 その望みは一生叶う事が無いと分かっていて尚、格好良くなりたいと、「善く在ろう」と足掻き続けることを選べる自分でありたいのだ。
 この思いはどこから来ているのか、「甘えている」という言葉への恐怖心からかと思ったこともあるが多分違う。
 これは俺の意思だ。本心だ。
 それ故に物語の中の主人公達に憧れ続けるのだ。

 そんな俺を見て、人はどう思うのだろうか。
 優しい人は「向上心がある」とか「ストイック」と言ってくれるかもしれない。
 面倒な奴らは「身の程知らず」とか「甘ちゃん」と言うかもしれない。
 そして俺自身は、後者だ。

 どうにもこんな自分が「良い」ものだとは思えない。
 向上心、というには向かう上(目標地点)が独善且つ現実離れに過ぎるし、「ストイック」というには言動が一致していなさ過ぎる。
 結局のところ理想に溺れた社会不適合者と表現する方が適切だと感じてしまうのだ。
 そもそも個人的な感覚ではこの程度の向上心なんて、誰もが持っていて当然のもの、人並み外れてなどいないと思ってしまうのだ。
 だが色々考えているうちに、まぁある程度埒外に居るのだろうな、という推測を得た。

 突然だが、命は何故大事なのだろうか。
 命はどういうものか。なんのためのものか。
 ぐるぐる考えているうちにそんなことを考えて、多分雑に分けると二つの回答があるのだろうと思い至った。

・命は自身のみが使い道を決められる消耗品である
・命は快楽を享受出来る時間制限である

 命は有限だ。
 今のところこの自然法則に抗えた人間はいない。
 不老不死は色んな物語のテーマとなる上に科学(の前身の錬金術)等史実でも大きなテーマとなるものだが、やはり人間は死ぬ。
 少なくとも現時点の一般的な摂理としては、命は有限だ。誰も動かすことの出来ぬ事実である。
 いずれ消えるこの命に、星の時間の中では瞬きするようなほんの一瞬の命に、なんの意味があるのだろうか。
 そんなことを考えるのは人間だけだ。
 他の動物は意味なんか考える前に食い物を探し、番いを探し、子孫を残し死ぬ。
 強いて言うなら子孫を残すことが生物の生きる意味だ。つまり子供を儲けなかった人間は須らく無価値である。
 ま、勿論そんなわけはない。子孫を残さず死んでいった偉人なんて幾らでもいるし、そうでなくても子供を産まなかったから無価値というのは暴論に過ぎる。
 命の価値基準は人それぞれであるべきだ。(一般的には生産力がそれとされているが)

 そんな答えの無い問いに当たり障りのない「人それぞれ」なんてお茶の濁し方をしておいて、それでも敢えて雑に二分すると「消耗品」か「時間制限」になるという仮説を提示してみる。
 即ち「何を成したかを重んじる人」と「何を感じたかを重んじる人」だ。更に飛躍した表現をすると客観的基準と主観的基準だ。
 ……書いていて違うと思った。忘れてくれ。
 うまい表現が見つからない。
 「種の視点の中で自分の命をどう用いて、後に託すか」か「個人の視点の中で自分自身が何が出来るのか」と言う方が近いのか。
 うーん、なんか後者の表現に棘を感じるかもしれないが他意は無いのでご容赦を。俺には受け付けないという気持ちが滲み出ているかもしれないが、それが悪いことだとは思っていないんだ。
 よし、言い訳は済んだ。直截に言うが同様にご容赦を。

 先にも言った通り、俺は前者寄りの人間だ。それに憧れる人間だ。
 死は前提にあって、単純な量だけで言っても圧倒的に多い自分の死後に何を残せるかを考える人間だ。
 命を時間制限と考えると、つまり他者に繋ぐことより自分でやる感じることに重きを置くと、行き着く先は不老不死への渇望じゃないかとさえ思う。
 私腹を肥やす悪代官を悪役だと思い、仲間のために死んでいった戦友を格好良いと思う。
 ただ、殆どの人が俺と同じように悪代官を蔑み煉獄杏寿郎を好きになるとしても、自らがそう成ろうとしている人は多数派では無いと思う。自覚的、能動的に在ろうとしているは更に少ないのではないか。

 メメント・モリ
 死を想えとはずっと昔からある言葉で、戒めで。
 だがその言葉にハッとさせられた経験のある人は多くない。
 誰もが今を生きるのに精いっぱいで、日々のストレスを癒すために快楽を渇望する。そしてもっと、もっと癒しを、快楽をと欲することをどうして責められようか。
 俺はただ、日々のストレスから逃げてそれでも生かされて、その上で御大層なことを言っているだけだ。
 本来飢え死にしているような人間が死後に何を残すかとか言っているのは滑稽に過ぎる。自分の食い物も無い人間で、残せるようなものを持っているはずが無いのに。

 そうなのだ。結局の所俺はズルをしているのだ。
 確かに高い理想を持ち、そうなりたいと願っている。
 だが、必ずしも行動はしていない。そして行動していてもズルをしている。
 そのような人間が「向上心」だの「ストイック」だのと賞賛されて良いはずがないのだ。
 一方で、許容はされて欲しいと、応援されて欲しいと思う甘ちゃんな俺も居る。それは俺自身についてだけじゃない。多少正道から踏み外しても、それでも善く在ろうと後に続く人が、もう少しだけ気負わなくていいようになって欲しいのだ。そのための轍を、踏み固めたいのだ。

 そんなことを考えていた。
 だから多分、俺は向上心のある人間では無い。
 強いて言うなら「普通」に憧れつつも心底憎む、そんな執着で抗っている「抗常心」というところだろう。




 と、本文を締めておいて、別に書き残したいことがあるけど分けるのも面倒なのでそのまま少し書き続ける。

 そう、俺のやりたい事だ。
 やりたい事というか、「これやりたい」はわりと固まっているのだ。
 だが当然、それだけではおまんま食いっぱぐれる。
 大事なのは、それをどう世間のニーズと擦り合わせるかで、それがとても難しい。
 ……俺のやりたい事をやった末の一つにいる人が居た。
 正直、その人の主張には物凄く頷いた。俺もそう考えるし、その通りだと思った。
 だが、客観的にみると怖かった。もし俺がその道を進んだら、多分寄り付く人が殆ど居なくなるだろうなと思った。そして結局本意を達せないだろうなと思った。
 その人がどうなのかは分からない。今度直接聞く機会があれば聞こうと思っている。
 だが、己の正しさを信じたくて、でも周囲の批判や無関心に怯えて大声を出して、その代わり反論歓迎と言ってフェアさを保とうとして、そんな強硬さを頼りになんとか自分を保つ。
 もし俺がそんな道を選んだとしたら多分あの人と同じように外からは見えるのだろうなと思って、怖くなった。
 俺がもしその道を選んだら、きっと俺の成したい事は成らない。伝わらない。極一部の理解者だけじゃ、世界は変えられないのだ。
 その様子を見てからずっと考えていた。
 じゃあその成したい事は何なのだ。俺の言葉を聞いた人にどんなインパクトを与えたいのだ。

 その答えはとっくに出していた。
 青だ。
 現実を知って、いや、己は現実を全然知らないのだと知って尚、果てない理想を追い続ける人に勇気を与えたいのだ。情熱を信じる後押しをしたいのだ。自分との闘いの前哨基地を整えたいのだ。

 ずっと考えていた。
 ともすれば、俺の理論はすぐ現実批判になる。普通当たり前、常識、社会、そういった物は絶対ではないと噛みつきたくなる。
 だが、それが目的では無いのだ。噛みつくのは、俺自身が現実に怯えているからでしかない。それは相手に伝えたい本質ではない。
 敵は社会ではないのだ。自分自身だ。誰かを批判している暇があるなら、己の震える足に叱咤激励せねばならないのだ。
 「一番の敵は己自身」なんて、月並みな結論に至った。
 何時だって答えは先に知っているのだ。だがその答えが今の自分の悩みへの答えだと理解するのは毎度難しい。
 だからそういう意味では、文字通り敵ではないのだ。批判や同調圧力は。
 俺はただ、ずっと励ましてもらっている彼らのようになりたいのだ。
 Blue Encountや福山雅治やAqua Timezやガルデモのように。
 俺は特に音楽の才能は無いし、別に練習しようとも思わなかったけど。
 それでも彼らから勇気を貰った俺がまた誰かの背中を支える事で、勇気を繋いでいきたいのだ。そしてきっとそのバトンは俺が死んでも繋がれていく事だろう。
 矢面に立って、旗を振って、それぞれの己との闘いの前哨基地を守りたいのだ。
 正道でなければ支持は得られない。だが時には手段を選んだ邪道を用いても、後でそれ以上に誰かに返せるような人間になれるように。
 この終わりの無い厳しい戦いで、挫けないための休息地に。準備場所に。
 そのために足りない部分はまだまだある。
 それでも。

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