ひきこもり、愛を語る

 なかなかキャッチーな表題になったな。
 だが残念。愛を囁くのとは真逆に「それってなんじゃらほい」と首をかしげる文章だ。かかったな!

 さっきまで上記のニーチェ入門書を読んでいたのだが、やはりニーチェの理論は非常に俺の考えに近しい。
 こういうと「なんだ有名な哲学者と同じ考えに自分で至ったとか言いたいのか」と言われそうだが、別にそういうわけではない。
 道の七割くらいを自分で開拓してみたものの、そこから先で行き詰ってたところに、同じ道をもっとしっかり舗装してて、しかもその先まで道が続いている人を見つけた感じだ。
 完全一致というわけではないにせよ、これは自分の考えてきたことがあながち的外れではなかったという証左でもあるし、躓いてた箇所から先への福音でもある。

 まぁその辺はもう少しパーソナライズ(?)して纏めるにしても今日の本題は表題の通り愛について。
 ひねくれ屋のイメージのあるニーチェだが(本来はそのイメージはニーチェが警鐘を鳴らした側なのだが)、なんだかんだ愛やら芸術を神聖視しているのだ。
 ニーチェに限らず、世の中にあふれるあらゆるもので、愛というのは称えられている。
 軽薄な歌でもそうだし、しかめっ面してそうな哲学者もそう。どんな物語でも愛は最も重要なファクターだし、人生の先輩方も自身の体験として大事にする。

 いや、別に愛を知らないとまで言うつもりは無い。
 様々な歌や物語で散々っぱら語られることだからどういうものか知ってるし、聞けば読めば共感もする。共感? いや、追体験はする。
 ただなんというか、あくまでフィクションなのだ。
 ドラゴンボールで皆が使ってる「気」みたいなもんなのだ。
 テレビでアイドルが食べて舌鼓を打ってる三ツ星レストランのようなものだ。
 どれも全部「ふーん凄いねー! で?」って感じなのである。
 ちなみに後で続いているのは「でもそれ、俺には手に入らない、即ち関係ないものでしょ?」という言葉だ。
 因みにパートナーがいる人に向かっての感情は「羨ましいなぁー」くらいだ。まぁ多少妬みが残ってないといえば嘘になるが、その程度である。壁を殴りたくなるような熱は高校生の頃には捨てた。

 別に女性とお付き合いしたことが無いわけではない。大学時代に数度あった。
 ただまぁ俺の場合、恋愛感情があったかというと正直あまり無くて、本音を言えば性欲支配欲所有欲、そういった下劣な欲望からいけそうかな?って思って付き合ったというのが本当なところだ。
 その結果ご想像の通り長続きはせず。まぁクズだとは思うが高校時代女性と話す機会もほぼ無かった大学生のバカだと思って許して欲しい。因みに多分、そんなにお相手を傷つけることなく終われてはいるとは思う。(こういうとまた怒られそうだけど)
 一番恋愛感情に近いものを感じたのは高校時代のチャットでの経験だ。お互い顔も知らない間柄でずっとネットの文字だけでやり取りしていて、暫くして通話をするようになって。
 これが恋なのかな?と淡い思いを抱き始めた辺りでなんかキレられて終わった。「本当に仲のいい人とは一回も喧嘩が起こるはずが無いの!」とか言われて拒否られたと記憶に残っている。
 未だに意味が分からないし、本当はもっと別の理由があったのかもしれない。ただまぁもはや記憶というより記録というぐらいの思い出だし、いずれにせよ顔も知らないネットでの、形になる前の思いのこと。フィクションの追体験と大して変わりない。

 まぁそんな感じで、俺の恋愛経験は色の無いものだ。
 勿論生活していて「お、いいな」と思う女性に出くわすことはある。
 が、その思いが恋や愛という形を取る前に、「おっと、手に入りもしないのに欲を持つのは、相手に失礼だし自分にとっても後で痛い目見るだけだな」って感じでシャットアウトするのが常だ。
 なんというか、おそらく恋愛感情というのはそういう欲を下地に形成されるものだからその欲自体は否定されるべきものではないと考えられるのだが、結局のところ根底にあるのはこの自己肯定感の低さだろう。
 恋愛関係においても対等さは重要だ。お互いがお互いに与えあえる関係性が必要不可欠。一方で俺は自分のこともままならず、与えられるものが無い。 デートに出せるお金の余裕もなければ、相手の我儘を聞くだけの心の余裕も無い。そんな俺がお付き合いをするに能う男であろうか、いやない(反語
 大体こんな感じである。
 何を恋愛について屁理屈語ってんだって感じだが、俺にとっては屁理屈こそが相応しい代物に落ち着いているのだ。残念ながら(?)

 まぁ愛と一口に言っても男女の恋愛だけではないだろう。親子愛だってある。
 が、これもまた正直懐疑的というのが相応しい感触なのだ。
 当然のことながら、特に複雑な家庭事情を持たない俺にとって親というのは特定の二人の年上の男女のことになる。
 自分の癖や性格などから、間違いなく俺はあの二人の血を引いているだろう。そう思えるくらいに共通点をそれぞれ持ち合わせている。
 ただ、以前にも書いたがあまり親を親として特別視出来ないでいる。真っ当な他人と、可哀そうな同類という、親に対してあまりに失礼な認識でいる。我ながらイカれているとは思うが、悲しいことにこれが本音である。従って俺から二人への愛というのは多分ない。もう切れてしまっている。
 じゃあ逆にあの二人から俺への愛はという話だが、これにもやはり懐疑的だ。愛が無いとは言わない。ただそれは俺個人へというより、自分達の子供という存在への愛でしかないだろうと。その二つは両方とも結果的に俺を示しているが、その意義は別物だろうと。
 なんかそんな感じの不信感というか屁理屈というか、そんな感じで受け取りを拒否している。感覚としては同居人への手紙だ。うちに届いたけど自分宛ではない。

 繰り返すが、別に俺は愛の意味を知らぬサイボーグではない。
 そういうのがあるのは理解しているし、どういった類のものかも想像は出来る。情欲もあれば彼女が欲しい!とか思ってるのも事実である。
 ただまぁどうにも他人事感というか、フィクション感がどこまでも付きまとっているのだ。
 そして多分、先人たちの語る愛の重要さというのは、今のままの他人事としての理解では、真の意味では理解出来ないのだろうな、と感じたという話だ。
 勿論ここまでの話は少なくとも一般的な話ではないし、誤った見方なのだろう。俺自身、今述べたことを好きな人や自身の子供を持った時に撤回するかもしれない(もしそうなることが出来たなら幸運なことだ)。

 そんな感じ。
 以上。ニーチェの本を読んで重要なピース欠けてるなーっと漠然と感じたというメモでした。

 あ、彼女募集中です(

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