アイロニカルなインディヴィジュアリスト

 最近ようやく自分のことが整理出来始めた。
 それで最近改めて思ったのが、「俺って相当面倒くさい奴だな」ということだ。

 例えば「定職に就くことをどう思う?」という問いがあるとする。
 それに対して「キチンと働いて納税するのが一人の人間としての責務」とか言う人が居れば、「それはそうだけど仕事で自分の人生を埋め尽くされてまで人間としての責務を果たさなくちゃならないの?」と思う。
 或いは「働き方なんて人それぞれだし、好きなように生きれば良いんだよ」と言う人が居れば、「あなたが好き勝手してる分の負債を他の人に払わせてないか考えた方が良くない?」と思う。
 じゃあお前はどう思うんだと聞かれると「それはそれぞれがキチンと考え抜くべきことで俺が意見すべきことでは無い。少なくとも俺は定職に就くのは向いていなかったから就かないという判断に現時点ではなっている」と答える。

 そう、兎にも角にも混ぜっ返さずにはいられないのだ。挙句の果てには明確な意見を言わず煙に巻く(ように見える)し、正直突っ込んだ話をして全然面白くない相手だろうなとは思う。否定ばっかりして、自分は言質を取らせない卑怯者、そう思われても仕方が無いとは思う。
 ただまぁ、なんというか、うん。今回の記事はその言い訳だ。


 物凄く直截に言うと、俺としてはむしろ思慮深いつもりなのだ。だからこそ性質が悪いのかもしれないが。
 ただまぁ今回は俺の言い訳回なので徹頭徹尾偉そうに言わせてもらうと、俺のやっていることはソクラテスなのである(
 世の中には沢山の人が居て、沢山の立場があって、沢山の考え方がある。
 一つのことを考えるにも複数の依って立つ見地があって、双方の道理が通ったまま容易に対立しうるのが人間社会だ。そう思っているからなんというか、自分が正しい、他の意見の人は分かってないだけという論調を見ると「分かって無いなぁ」と思うのだ。(ここ笑うとこ
 だから兎にも角にも一度真反対の意見をぶつけて混ぜっ返して、相手がどこまで把握し理解し考えを尽くしているのかを確認したくなる。そこそこエンドレスに。その結果同じことを繰り返し答え始めると、(あ、ここまでしか考えて無いのね)と黙り始める。
 そしてけったいな事に、この癖は幼少期からだ。親や先生方からすればさぞ面倒くさかっただろう。いや、小さいころからあんまりその混ぜっ返しを口に出しはしなかったが。黙って硬直して蹲るだけだったが。
 で、大人になって哲学を調べ直してみると面白いことを気付く。哲学の父ソクラテスの産婆術と呼ばれるものと、恐らくやろうとしていることは近いのだ。

「どこまでを知って考えててどこからを知らず考えて無いのか。そこを把握しない事には議論にもならんだろう」

 基本的には皮肉と訳されるアイロニーだが、元々はソクラテスの"eirōneia"から来ているらしい。別に相手の考えが間違っていると言いたい訳では無いのだ。考えが足りてるか、感情を論理の切り分けが出来てるかを確認する作業でしかなく、聞いてる側としてはむしろ「でも○○の場合××じゃない?」「それは考えた上で○○も△△だと考えている」という反論が返ってきた方が嬉しいまである。

 ただソクラテスと明確に違う点もあって、ソクラテスは「知らないよね?じゃあ知を探検しよう!」という結論に至るのに対し、俺は「なるほど、そういう君の立ち位置と願いから対立者と戦うんだね。実に面白い」という結論で納得する。
 これは恐らくニーチェの力への意思の考え方と非常に近い。
 そういう意味では、結局のところ「自らの意思で他者を否定し押し退ける覚悟」の自覚が無い事が一番気に障るのだろう、と書いていて今思った。

 そうなのだ。
 俺にとって一番許せないことは、やはり自覚無く自らの正しさを振りかざして対立者を踏みつけにしている事なのだ。
 人と人が二人以上居て、意見の同意が取れれば良い。お互いに譲り合えるのも素晴らしい。だがそれで全ては解決しない。
 人が現実に肉で縛られている限り、全ての人にとって全て思い通りに行く世界にはならない。全ての人が譲れるところ、譲れないところをはっきりと順位付け出来るようになるところまで人類はまだ至っていない。
 であれば、いずれ利害の対立は避けられない。影響力の範囲が広がれば、水面下での衝突は不可避だ。
 故に、あらゆる行動、あらゆる決断は他の誰かの否定の可能性を秘めている。だが当然、それを気にしていては何も行動できない。だから俺は引きこもり、尚罪悪感を抱えて生きてきた。
 人が人として自分の人生を生きるなら、人は自分の意思で他者を否定する責を負わなければならないというのが俺の考えだ。そして「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」ではないが、否定し、否定されることの覚悟を持ったもの同士が自負と矜持を持って争って始めて人は自分の意思を貫けるというのが最近の俺の考えだ。
 「他者を否定し自分の利益を主張する」というとまるでエゴイストのようだが、俺はそうでない。そうでないつもりだ。時として「他者の利益が肯定され、自分の利益を損なう」ことも争いの結果あると理解して、だからこそ負けない準備をして土俵に立ちたいと考えている。
 これが調べてみた感じ、どうやら「個人主義(インディヴィジュアリズム)」という考え方のようだ。確認はしていないが、多分そう。

 俺はこの、アイロニカルなインディヴィジュアリストな自分のイデオロギーこそが真理だと思っている。それに辿り着いていない奴は考えが足りてないだけだと思っている。
 実に滑稽だ。自分で自分に矛盾している。
 でもきっと、人間なんてそんなもんだろ? 誰だって自分が一番正しいと思いながら、どこか疑ってしまって、疑いたくないから否定されるとムカッと来る。
 俺は神ではない。不完全故に理想を目指し、格好良くなりたいという願望を一生持ち続けてその生を終えたい。
 だから俺も皆と同じように、内心「あいつは分かってない」なんて悦に浸りながら、無意味に輪を乱さぬように無言で笑みを浮かべてやり過ごすのだ。
 しょうもないが、実に人間らしい人間であり続けたい。

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