弱さと愚かさ

 時折、いやしばしば動画や記事などで強い言葉を見る。

 曰く、「思考停止の頓馬」と。
 曰く、「バカと無知」と。
 曰く、「それってあなたの感想ですよね」と。

 強く、そしてしたり顔の言葉を。

 別に、悪い人達だ、とは思わない。きっと諸々理解した上でそう振舞っているだけなのだから。
 だがそういった正論が人気を博している今が鼻持ちならないだけだ。

 自分の身は自分で守れ。
 流言飛語に惑わされず自分で考えろ。
 世の中には不条理に溢れているからおもねる必要は無い。

 世間や社会を罵倒し、嘲笑し、強くなれと、ならないと生きていけないぞという、強い言葉。
 俺から言わせると「何を今更」でしかないのだ。
 したり顔で「分かってないお前らはバカ」みたいな上から目線で言われたところで、「まぁ分かってない奴はバカだわな」としか思わないのだ。
 そして同時に「それだけかよ」とも強く思うのだ。
 人に何を言った所で人は変わらないと、彼ら彼女らも理解しているだろうに。まぁ媒体の限界とそこまでする義理が無いという話なのだろうが。

 人は弱い。
 社会の常識って奴に舌を出すにも、誰かの保証を欲する。
 結局のところあぁいう強い言葉が人気を博しているのは、誰もが「社会が悪い」と言いたいからだと、俺は思っている。
 今自分達が辛い生活を送っているのは自分の努力が足りなかったからではなく、社会がダメで個人の力ではどうしようもなかったからだ。
 そんな言い訳を口に出して鬱憤を晴らしたいからでしかない。
 誰かを下に見て、自分は上だと思う事で自分が生き残れる生物だとマウンティングしたいだけにしかない。
 強い言葉を発する有識者様たちは、彼ら彼女らの言葉をきちんと理解してる人ほど自分たちの発言をつまらないと感じるだろうと多分理解していて、自分たちの言葉が受ける事実に毎度失笑しながら自らの役割を果たしているのだと思っている。
 賢しげな人の否定意見に便乗して「そうだそうだ!」なんて言って喜んでいる時点で、自分で考えちゃいないのだ。
 自分で考える人はそこでまず情報収集から入るはずなのだから。
 この人の言ってたデータはどこから来ている? 他の人はどういっている? 考える上で何に疑問が残ってそれをどう確認する?
 或いはその時点では結論を出さず情報収集に留めておく。その前後で聞いた色んな人の理論をまとめて咀嚼して、消化して、自分の考えを確立する。
 誰が言ったかを重視している時点でバカで無知で頓馬でしかない。

 だが、人間なんてそんなものだ。人は弱い。
 人は簡単には傲慢にはなれない。自分の意見がその他大勢の意見と異なっていれば不安になる。誰だって矢面に立ちたくない。誰かの後ろの集団に紛れて抗議の声を上げるのが一番楽なのだ。
 納得いかないのは、それを理解してないはずがないのに何故彼ら彼女らは煽るだけで終わってしまうのかだ。
 社会がおかしい、今までの常識なんてクソ喰らえ、理解浅い奴はバカ。
 否定で終わって、何が変わると言うのか。
 他者を否定することで、気持ちは楽になる。変わる必要があるのは自分ではなく相手、そう思えるからだ。
 だが否定されたところで相手は自分の都合よく変わってなんかくれない。人間の本質には間違いなく自分本位の原則があるのだから。自分の利益を擲ってまで相手の言いなりになる人なんて極一部で、そんな人は最下層か極めつけの最上層にしかいない。

 だから俺は、否定するなら肯定とセットでしか語るべきでないと思っている。そして必ず、肯定が後だ。
 否定で終わって何の意味がある。文句を言った所で変わらない。それよりか、まずは何故相手がそんな自分にとって不都合な状況であるのかを理解すべきだ。それは相手個人のためかもしれないし、その周囲の為かもしれないし、実は文句を言っている自分達全員のためを思ってのことかもしれない。その上でもし相手個人のためだったとしてもそれを否定することは出来ない。石を投げられるのは石を投げたことがない者だけだ。俺だって自分の利益のためにズルをする。自分がやるのに何故他人を責められようか。
 否定で終わって何の意味がある。相手の目的を推測し、自分が交換条件としてあげられるメリットを想像し、交渉しない限り相手は変わらない。
 べき論だけでは無意味なのだ。べき論の効力は所詮相手の良心にプレッシャーをかける程度でしかなく、どの程度のプレッシャーとなるかは相手の問題で自分がどうにかできる問題ではない。
 べき論が相手を変える万能の解決策だと思っている人ほど、自分に取って都合の良いべき論しか認めない。

 だが俺はそういった愚かさが嫌いなのと同時に、愛おしくも思う。
 それで終わるなよと思いつつも、それでもそれがその人の精一杯なのだろうなと思う。
 責任は他人にあるから変われよと願う弱さと、そんな自分を自覚出来ない愚かさ。
 だが、それもまた人間なのだ。人間が生きるのにはコストがかかる。お金だけじゃない。思考や選択にも精神的なリソースを消費する。
 どんな生活をしていても、どんな立場にあっても、どんな思想や信条を持っていても、誰もが今を精一杯生きていることは間違いないのだと思う。
 例え俺が個人的に嫌いな生き方だったとしても、それを否定する権利は俺には無い。俺の良いと思う生き方を強要する権利は俺には無い。誰もが今を精一杯生きて、その上で至らないところだらけなのが人間だと愛おしくも思う。
 だから、その精一杯の頑張りを「まだ足りない」と見下し、あざ笑うのは嫌いだ。
 だから、愚かだと見下している俺自身も嫌いだ。同時に、そんな弱い自分を許すしかないのだとも思っている。

 強い言葉と、それが持て囃されている状況を見る度に、固い不満が湧いてくるのだ。
 弱さを、愚かさを嗤って何になる。
 自分自身も持っている弱さと愚かさを否定してしまったら、自分を肯定出来なくなるじゃないか。自分を肯定するためには弱さと愚かさを肯定するしかない。弱さと愚かさを嗤うのは、自分が持つ弱さと愚かさを自覚するという壁にぶつかっていない至らなさの証明だ。或いは、自覚した上で他人と同時に自分さえも嘲笑う俺のような捻くれ者のどちらかだ。

 弱さは罪じゃない。愚かさも悪ではない。
 それが罪悪となるのは無力だけだ。
 己の願いを叶えるための力不足を感じた時、その時初めて自分自身だけがその弱さと愚かさを責めることが出来ると、俺は思っている。
 勿論これは他者の弱さと愚かさの無条件の肯定ではない。俺はそんな聖人ではない。
 俺は俺自身の利益のために堂々と他者を否定する。だがそれは戦いだからだ。
 俺自身が利益を主張することを認めるなら相手も然りだ。協調の道を探って尚利害が相反するなら、それぞれが己の願いのために尽力することを認めなければならない。
 他者の弱さと愚かさが俺にとっての不利益となるなら、俺は俺の個人の理由でそれを否定する。この否定は対立し我を通すと言う意味の否定だ。決して道徳的な否定では無い。相手の生き方や選択を肯定した上で、だがだからと言って譲りはしないという意思表示だ。
 相手の人生を、経験を、苦悩を、選択を、どうして俺に否定する権利があろうか。

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