普通の人にとっても、現実は見るに堪えない

 先日仏教とニーチェの概説本を購入して、今日明日には届くはずである。
 切っ掛けは数日前の友人との会話だ。

 その友人は大学では哲学を専攻し、在学中卒業後ともに紆余曲折ありながらも、現在では文楽の太夫の修行をしている変わった人物だ。(文楽とか太夫分からなかったら調べてね。ざっくりいうと日本の伝統芸能の語り手)
 彼も俺と同じく考えすぎて迷いまくるタチだが、彼は彼に合う場所を見つけて現実を前向きに生きている分、俺よりも真っ当な人間となっている。彼と比べると俺は中途半端に普通であろうとした結果、状況を悪化させていると思わされる。

 ともかくそんな修行の日々で忙しい彼と、先日久しぶりにサシで話した(discord)のだが、その中で彼が興味深いことを言っていたのだ。

「皆が平気な顔をして社会を生きているのに、アニメとかそういう何がしかの現実逃避をサラッと半端にやっては現実に戻っていくのが理解出来なかった」

 最初に聞いた時はそんなもんじゃね?とか思ったが、話しながら、あー実際意味わかんねーよなと思ったものだ。

 突然ですが、皆さんは人生って良いものだと思いますか?

 答えは色々あるでしょう。
 苦難の末に人生を肯定出来た人。
 特に何の疑いもなくいいじゃんって思う人。
 苦しいのが当たり前と受け入れた人。
 クソゲーだろと絶望した俺。

 ただどんな人でも、人生で一度も思い悩んで苦しんだことは無い人はごく少数でしょう。
 そして同時に殆どの人が、現実逃避をしたことがあるんじゃないでしょうか。分かりやすいのは古来から世界中の人が用いてきた、お酒とか。
 まぁ最近はお酒を飲まない人も多いので、お酒を使うのがポピュラーとも言い難くなってきていますが。

 なんにせよ、昔から、そして国を問わず人間にとって現実というのは総じて苦しいものだと考える人が多く居たのは歴史を振り返ると明らかだ。
 先に挙げたお酒もそうだし、宗教も最たるものだ。現実は苦しくとも死後の世界に救いがあるという論調は多くの宗教に見られるしね。
 現代日本でも形は違っているが皆が苦しい現実から目を背ける手段を探しているといえる。YouTube、テレビ、音楽、ソシャゲ、ゴルフ、読書。息抜きというと普通のことに聞こえるが、その本質は現実逃避といっても大きく外れていないだろう。
 それも仕方ないだろう。山場を越えたと思ったら次の困難が待っているのが人生で、その終点は山頂ではなく、道中の死であるのだから。
 誰しも現実を見続けるのは辛いのである。

 さて、ここまでは殆どの人がそう違和感なく頷いてくれると思うのだが(大丈夫だよね?)、不思議なのは何故現実逃避した後サラリと現実に戻れるのかだ。
 いや分かる、逃げてばっかりじゃ現実問題に追いつかれるから戻らざるを得ないのだとか時間や友人が癒してくれたとか、多分そういうことなんだろう。
 分らないが、俺が今まで見てきた物語の中ではそういう感じだったから多分分かる。(適当
 が、分からない。
 現実から一度は逃げ切った結果堕ちるところまで堕ちた俺にとっては、戻っても苦しいことが待っている現実との間を反復横跳び出来る普通の人がイマイチ良く分からない。

 現実、世界、社会、世間。
 そこは欺瞞に満ちていて、誰もが自分の都合の良いように人を動かそうと引っ張り合ってて、自分が正しいような顔をしていて、努力は報われなくて、人や自分に裏切られて、成功は約束されていなくて、別れは約束されていて。
 登りはあれど総計すると下りのほうが多いことの方が往々にして多く思えるこの人生を生きることに、普通の人は疑問を抱かないのだろうか。
 どうして立ち止まって、蹲って、頭を抱えて考え込まずにいられるのだろうか。
 どうなんだろう。好意的に考えればきっと皆は要領が良くて、ちゃんと自立を保ったままその答えを出せたのだろう。
 そう思った方がいいと思いつつとも正直まだ思えていない。
 皆明日のパンの為分かったふりして思考停止をしているんじゃないかと思ってしまう。思考停止して、自分で答えを出さずに世間の答えを鵜呑みにしているんじゃないかと思ってしまう。歯に衣着せず本音を言うとバカなんじゃないかと思ってしまう。

 でも実は、このバカって言葉には多分に妬み嫉みが含まれているのも自覚している。
 だって、悩み苦しんで、ようやく見つけ出せた自分の答えは、往々にして聞き覚えのある答えだから。
 今までの人生で誰かが言ってた覚えのある答えばかりだから。
 自分で出した答えだから深みがあるだなんとか言って、でも同じ答えに自分ほど苦しまずに辿り着けている人が多数派なのだとしたら、羨んでしまう。
 世の中は綺麗事で溢れている。でもそれが騙そうという悪意のものではなく、悩まずに済むようにという善意であるというのなら、少しは社会を憎まずに済む。
 でもそれが当たり前になり、回り道をした人を導く所か追いつめているのだと考えると皮肉なものだとも思う。

 まぁそんな風に、もしこの人生への失望と絶望が、自分だけのものではなく皆のもので昔からのものであるとするなら、きっと先人がヒントを残しているはずだということで、仏教について調べ始めた感じだ。確か最初は愛別離苦とかの苦しみの種類をどう説明しているかを調べようとしたんだった気がする。
 ニーチェに関しては少し前に、自分の出しつつある答えと非常に似通ってると思って調べ始めて、ツァラトゥストラを読もうとして挫折したから解説本をこの機会に一緒に買った感じ。

 結局のところ、やっぱり俺の物語好きは、同じ結論に落ち着くのだと思う。
 すなわち、他の誰かの出した人生の目的を聞きたいから。
 それが愛のためでもいい。仲間のためでもいい。理想のためでもいい。復讐のためでもいい。
 登場人物の、作者の人生哲学を、生き様を見たくて、色んな物語を読み見漁ってきた。
 だから全ての苦悩を無かったことにして、欲求全開の物語は好かない。
 「人生ってわりとそんなもんだよ」なんて思考停止しているのは好かない。
 「人生はこうあるものだ」なんて鵜呑みにしているのは好かない。
 他人を否定するつもりはない。ただ俺には受け入れ難い。

 どうにもまだ納得のいく出口は見つからない。
 だが多分、八割くらいは進んでいるはずだ。
 その先で俺の答えを、生きる目的を、見つけられることを願っている。

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