非課税世帯の実態(の一例)

非課税世帯

 ここ数年コロナやら物価高騰やらで、政府からお金や食品が配られることが何度かあった。
 そんな時に一つの区分けの基準になるのが、「非課税世帯」という基準だ。詳しい基準は自分で調べて欲しいが、物凄く雑に言うと一人当たりの年収が100万以下の世帯と考えるのがイメージしやすいのではないだろうか。
 因みにこの年収100万以下というのは額面通りのものだ。親のサポートとかを受けられる人だと弾かれることも多い。シンプルに月の収入が平均9万以下とかで暮らしている世帯のことだ。

 多分、普通の人からすると「額面通りの月9万とかどうやって生きてるの」レベルだと思う。
 それは端的に言えばシンプルに国に養われているのが殆ど、と言えるだろう。
 勿論子供が多いなどで世帯の人数が多く一人当たりが基準を割っているというパターンもあるだろうが、それについては僕は分からない。
 僕自身は生活保護で生かされている人間なので、その視点で話をしていこうと思う。そして多分生活保護とか何かしらの年金(障害年金など)を受けて暮らしてる単身世帯の方が数的にはメジャーだとは思う。

率直な感想

 まずはそういう支援を行政から受け取っている側の率直な感想から話していこう。
 これは一言で言うと、「なんだかんだ有難いっちゃ有難い」といった感想だ。

 これにはポイントが二つある。
 一つは色々と歯切れの悪い言い方になるという点で、もう一つはそれでも最終的に出てくる言葉は感謝であるという点だ。

 歯切れの悪い言い方になるのは、やはり色々と使いづらい所とか実態に沿っていない所が目に付くからだ。
 いつまで紙の書類郵送させるんだって思いもあるし、直近のお米クーポンだって一番欲しいのはコンビニで使える電子マネーだ。
 そういう端々にやっぱお役所の仕事ぶりだなと思わされる融通の利かなさが目に付く。具体的なものは後述する。
 だが一方で、わりと困窮しているのはマジなので、どんな形であれ支援があるだけ有難いという感謝と一種の諦めだ。国のお荷物でしかない自分達には文句を言う資格はない。生かされているだけ有難いと思わなければ、といううしろめたさに飼いならされている。
 これに関しては完全に個人的な考えではあると前置いたうえでではあるが、少なくとも僕が自分自身について考える場合、人権という言葉の重みはとても薄っぺらく感じる。その理由も後述する。

支援の使い方

 さて、今度は配られたお金や物資がどのように使われているかの一例を、僕自身を一例として例示しよう。
 僕の把握してる限り&受けたor受ける予定の支援は以下の四つだ。

①非課税世帯給付金(2022年3月頃)
②非課税世帯給付金(2023年3月頃)
③東京おこめクーポン事業(2023年5月頃)
④物価高騰支援臨時給付金(2023年7月頃予定)

 ①は10万円の給付で、PCの買い替えやその他に使った。
 ②は5万円の給付で、スマホの買い替えに使った。
 ③はカット野菜のパウチが届き、お米が数か月後に届く予定(これを切っ掛けにこの記事を書いている)
 ④は3万円の給付で、使い道は未定。

 よく「お金を配っても皆好き勝手使っちゃうのでクーポンを配ります」という行政からのお達しを耳にするが、正直言って実体験から言ってそれは正しい。上記の通り現金はPCやスマホといったハードの買い替えに殆ど消えている。
 その理由とそれがなぜ問題になるのかが今回の本題である。

困窮世帯の実態

 今から書くことは一例ではあるが、難しいかもしれないが同時に単なる事実として読んで欲しい。それはつまり「良い悪い」とか「羨ましい妬ましい」とか「不憫だ間違ってる」とかそういう評価と切り離して読んで欲しいということだ。
 その上で、生活保護で生かされている30歳男性(単身/都内在住)という僕自身の実例を見てみよう。

 まず第一に至極当然のこととして、生活保護を受けている人の生活はなんとか食える+ささやかなお小遣い、という生活だ。言い換えればエンゲル係数(家計における食費の割合)が高く、ざっくり月の40%くらいが食費に消える。
 普段の生活で自由に使えるお金とは1万円程度で、その1万円で本を買ったりゲームを買ったりソシャゲの課金をしたりをといった娯楽費を回しているのだ。当然お金なんて溜まるはずもない。
 だが冷徹に考えると実はそれほど生活保護の暮らしというのは貧しいわけではないのだ。というのも概ね13万円の給付を毎月貰っているのだ。働いていても手取りが13万円を切る人もいるだろうし、それに生活保護は(自治体によるかもしれないが)実は医療費は全額負担される。電ガス水道は割引が入る。
 大体7万くらいの中から割引された光熱費を引いて、自炊して月の食費を3万とかに減らすことが出来るのなら、2万5千~3万くらいはお金に余裕が出来る計算になるのだ。それで1年くらい頑張ればちょっといいパソコンだって買い換えられるのである。
 だが理論値は所詮理論値でしかない。現実問題、大抵の非課税世帯は困窮していると思う。そこには外側からには想像しづらい「心の余裕」というものが絡んでいる。

料理のコスパ

 「料理」というのは実は趣味なのだと、僕は思う。
 勿論趣味が料理という人がそれなりの数いるのは純然たる事実だろうとは思うがそういう意味ではない。現代において料理とは生活における必須事項ではなくて、オプション的に選ぶ余裕のある人が選ぶ、どちらかというと「余分」の域にあると思うという意味だ。
 現代において食事とは必ずしも作る物ではない。レンチンや湯を注ぐもの。コンビニの弁当やスーパーの惣菜や冷食。宅配のおかずやUver Eats。一括りにしてしまえば「出来合いのもの」の値段が、特に単身世帯において自炊と比較してそこまでの金額差にならないというのはそれなりに周知の事実だ。
 しかし実際に料理をしようとすると数々の金額外のコストがかかる。スーパーから重い食材を買ってくる労力。冷蔵庫内の食材の鮮度管理にじっくりコトコト煮込む時間。洗い物や生ゴミの処理。様々な要素で脳のリソースを吐いて、「届いた、レンチンした、捨てた」で済む出来合いを利用するのと月に1万円変わればいい方だというのなら、結構コスパが悪いのである。
 「そんなの働いてもないんだから頑張れよ」と普通に思うかもしれないが、実はそんな余裕が無いのが困窮世帯というものだ。例え働いていなくても将来の不安や世間への申し訳なさや自己否定のループで、マジで身動きが取れない。
 おこめクーポン事業は僕は申し込みが遅かったのだが、確かその時点で「ペットボトル飲料+パックご飯」といったお手軽セットは抽選どころか受付自体が中止になっていた。そして届いたのは第三希望だったはずのパック野菜のセット(料理必須)だ。この事から、やはり僕だけでなく全体的にコスパよりお手軽なものの方が人気が高いだろうことが伺える。
 またチラッと調べた感じ届いたお米を持て余している人も一定数いる。つまりお米を炊くことすら普段からしていない人もそれなりにいるということだ。
 料理というのは金銭面では確かにコスパがいいのかもしれないが、生活コストと考えるならむしろ高い。単身であればもはや実益を兼ねた趣味と言えるレベルなのである。

臨時収入の価値

 そんな心の余裕の無い人にとって臨時収入がどういったものであるか。
 基本的に困窮世帯にとって貯金というのは無縁のものだ。お金があればこの心のモヤモヤを晴らすために使ってしまうし、そもそも貯金できるような心の余裕と真っ当な自己管理能力があったらここまで落ちてないとも言える。
 いや、まぁ流石にこれを言い切るのは言葉が過ぎるだろうが。子供のため頑張って貯金しているシングルマザーとかもいるだろうし。ただまぁ俺と同じように毎月末食費無いってひぃひぃ言ってる人は決して少なくないだろう。
 基本的に飢えているのだ。それは食事的な意味ではなく精神的に。満たされないモヤモヤの砂漠にコップ一杯の水をばら撒いては、すぐに消えていく生活をしている。
 そんな中降って湧いたバケツ一杯の水をどうするか。当然また乾いたバケツにぶち撒ける。合計15万円使ってようやく足元が少し湿った気がしたんだ。
 特にPCやスマホなんて、高いわりに大して寿命が長くない。最新を追えば2年とかで買い換えるものだし、そんなことが望めないと使い倒しても5年もすればご臨終だ。でも積み立てる能力もないから即使う。
 俺の場合はそういったハードに蒸発したが、モノは違えどパターンはそう変わらない人も多いのではないだろうか。

給付金の意味

 さぁ、ここまでが前提条件である。
 良くも悪くも心に余裕の無い困窮世帯にとって、理論値は所詮理論値である。必然性のある浪費のせいで、生活の苦しさはいつも綱渡りだ。
 そんな状況においてコロナや物価高騰が起きた時、困窮世帯に対して国が取るべき対策を考えてみよう。
 まず最初に行ったのが現金給付だ。でも折角ばら撒いた金を生活費以外に使われるのは、国としては嫌というか困るのである。
 それは何故か。
 何にせよ使えば経済は回るし、一定の幸福感は買える。
 幸福感を考えるならばそもそも福祉の充実というのが一番の筋だ。悩みを解決して心の安寧を取り戻し、再び社会に復帰してもらうというのが王道だろう。
 だが現実問題そこまで手厚い対応は無い。正確に言うと手厚い制度はあるがそれを利用するハードルどころか見つけ辿り着くハードル自体が高い。
 それは何故か。

 シンプルな話国の目的が基本的人権の尊重で無ければ国民の幸福感の向上でもないからである。即ち、暴動を起こさないための治安維持が目的であるからである。
 困窮しているということは、素の状態で負の状態であるということだ。負の状態を正の状態にし、その上で正の状態を維持できるようにまでするのには相当の投資が必要になる。しかも投資した所でその後の活躍で投資分を取り返せるかというと怪しいことも多い。
 だが放っておくと食い詰め者がヤケクソになって治安を悪くするから、食い詰めない程度の餌を与えて飼いならす。それが統治機構の論理であろう。生活保護の受給申請は福祉課ではなく警察署で行う方が妥当であると僕は思う。
 そして目的が治安維持なのだから、一番暴れだす要因、つまり食うに困っての暴走を避けるのが何よりの課題なのである。だから生活費以外にお金を使われては困るのだ。
 次点の目的がその他の国民に文句を言われないことである。治安は維持していますよ。でも従順に働いているあなた達以上の幸せは与えませんよ。という牽制だ。これもまた当然で生活保護の方がいい暮らし出来るのであれば、誰が好き好んで働くかという流れになってしまう。それは避けねばならない。
 それが生活保護の意味であり、ひいては給付金の意味というか目的だと僕は捉えている。

それでもありがとう

 ま、そんな風に批判的に書いてはいるが別に良いも悪いもない。そもそも「批判」という言葉に良いも悪いも含まれていない。そしてもっと言うなら、強いて言うならそれでも「ありがとう」が残る。
 今回この記事を書いた切っ掛けは「東京おこめクーポン事業」だ。それでパック野菜がやっぱり人気ないのか、と面白かったのと、それを使って料理するのが面倒だなってのを回りくどく言い訳したのが一つ。
 もう一つがそういった行政の論理に縛られて尚、動ける範囲での善意や進歩を感じたからだ。
 改めて公式サイトの品目を見て欲しい。

 昔のイメージで言うなら、問答無用で「お米送りました(のでやるべきことはやりました)」で終わっていてもおかしくなかったと思う。
 でもご覧の通り8+1品目もの選択肢があるのだ。しかもペットボトルのお茶やパックご飯などちゃんとお手軽ニーズに合うものを選択肢に入れている。後回しにしがちなビタミンなどの栄養素を求める人用に果物ジュースとかもある。
 そりゃ一番有難いのはコンビニ弁当やカップ麺詰め合わせだ。或いはnoshのクーポン券だったら個人的には大大大歓迎だった。
 でもまぁそりゃそういう挑戦的なこと行政が出来るわけないよなというのも分かるし、その上で考えればこれでもかなり頑張って考えてくれてるのだろうと思える。

 正直やっぱり目に付くのは大体不満点だ。
 それでもこうした努力の残滓に目を向けて感謝するのも、それもまた一つの生かされている身の義務なのではと思う次第である。

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