「正しい」が分かっている時代

 何が「正しい」のか、或いは「正解」なのかが分かっている時代。
 そう今を表現できると俺は思う。
 どうすれば効率が良いか、どうしなければならないのかが、自分で試す前から調べれば分かる時代。或いは、念入りに刷り込まれている時代。

 何が正解か分かっているというのは一見悪い事でない用にも思えるが、その実結構デメリットも多い。

 分かっているが故に、「分かっていてなんでしなかったのか」と非難される。それを恐れて何もしなくなる。
 自分で失敗しないと何故その正解以外の選択をするとダメなのか、どんな不都合がどれだけ重いのかをちゃんとは理解出来ない。
 どんな選択にも必ず裏表があり、「正しい」ことも例外ではない。にも拘わらず「正しい」から生じる不都合を見えなくしてしまう。

 今までの人は失敗を繰り返しながら失敗から学び、少しずつ「正しい」を痛みと共に身に着けていくものだった。
 だが情報社会が発展した。危険に対して敏感な生物としての本能が沢山の「正しくない」を根こそぎ可視化し、効率化を渇望する種としての本能が「正しい」の共有を蔓延させた。
 「正しい」を経験ではなく、知識として獲得するようになってしまった。
 だけど経験を伴わない知識は脆い。自分のものではないから、疑いが生じる。だが誰もが異口同音に「正しい」を唱えている中、疑いを口にすることすら憚られる。

 一般的な「正しい」というのは唯一神教的な概念だ。即ち「俺が正しくてお前が間違っている」。そう直接的に指摘されると大体の人が否定するが、実際のところ「私も正しいしあなたも正しい」と言える人は少ない。
 その理由はシンプルだ。異なる考えを認めるということは、自分の考えへの疑いにダイレクトに繋がる。自分の考えへの疑いを断ち切るより相手を否定する方が圧倒的に楽なのだ。
 相手を否定出来ないのであれば、次に来るのは「私が間違っていてあなたが正しい」だ。己を疑い相手を信じる。でもやはり唯一神教的領域を脱していない。「私も正しいしあなたも正しい」と言うためには、何故異なる論理が同時に成り立つのか、もっと正確に言えば「どういった前提の違いがあるから、異なる論理が並び立ちうるのか」を理解し、納得する必要がある。
 そしてそこに辿り着くのはそう簡単なことではない。
 因みにその答えは「違う人生を歩んでいるから」というとてつもなくシンプルなものである。尚、当然この結論も俺の結論であり、必ずしもあなたの結論とは限らない。

 まぁいずれにせよ、「正しい」が正しいうちはメリットがデメリットを上回るからいいのだ。問題はそのメリットデメリットが逆転した時だ。
 「安くて精確で長持ち」な商品と「従順でミスの少ない長時間」な人材。日本においてはそれらが「正しい」とされてきた。買い手側により都合のいいものを用意すれば、それは売り上げと言う形で返ってくるという考えだ。
 だがそれは裏切られた。というより状況が変わった。買い替えのタイミングが耐用年数からアップグレードに変わった。程々の性能で数年安く使える商品の方が使い勝手が良くなった。経済に打撃が来た。生半可な従順さやミスの少なさや労働時間では切られるようになった。「御恩と奉公」の信頼関係にヒビが入った。

 そんな風に俺は解釈しているが、いずれにせよ今の日本の雲行きが決して良いものではないということに異論のある人は少ないと思う。
 だが一方で、それを変えようとしている人は少ない。絶対数としては間違いなく沢山存在するが、割合としての大多数は文句を言うだけだ。即ち、「自分以外の誰々(政治家とか)が悪いんだからお前が変えるためのリソースを払え」と喚くだけだ。
 でもこれもまた、仕方のないことではある。何かを変えることはとても大変なことだ。今を維持するのに精一杯な人に何かを変える余力は無い。
 そしてそんな大人を、「正しくない」を見飽きた子供もまた、無気力になる。「正しい」のは自分で頑張って世の中を変えることだ。そんなことは分かっていても、そんな力は自分にはない。だったらせめて文句を押し殺して受け流して現実逃避する方がまだマシだという論理は、生存戦略として間違っていないだろう。

 忘れてはならないのは、どんな考えや行動も、何を大事にして何を切り捨てるかの選択でしかないということだ。一時的享楽と人の命を天秤にかければ普通は人の命を大事に思うが、人によっては一時的享楽を選ぶ。そこに本来善悪は無い。ただの殺人という行為があるだけだ。ただ「常と異なる」という人間の都合で異常な快楽殺人というレッテルが貼られる。
 だがそこに「人を殺すのは結果的にはデメリットの方が大きい」という人類全体の経験則が生まれ、それが善悪といった形で定着していく。その仮説が「正しい」というものの正体だ。
 そう、仮説だ。当たり前ではあるが、「現在」は時間軸上現在に至るまでの最先端ではあるが、人類史においては試行錯誤の過程の一瞬に過ぎない。試行の中で錯覚することもあれば誤りが起きることもある。そして何のための仮説かと言うと、人という種が繁栄するための仮説の場合もあるし、自分と言う個の繁栄の場合もある。大体の場合混同するし、一致している。
 そして種と言う観点で見た場合は、多様性と自然淘汰という形で担保されている。故に何を大事と思うかは極論自由なのだ。一方であまりに外れると淘汰されてしまうことも必然だ。結局のところ最近流行りの「多様性」も、淘汰のレベルを引き下げることの方が種として利があるから、そしてその余裕があるから取り沙汰されているに過ぎない。

 あー、つまり。
 「正しい」かどうかの判断は、何が大事か取るに足らないかの価値観の軽重を基に行われているという事だ。そしてその価値観というのもまた、歴史の試行錯誤の途上の過程に過ぎない。だが一方で、現時点の価値観の軽重は人類の歴史の重みを裏付けに持っているとも言える。実際常識というのは大体真っ当なことを言っていて、あぁだこぅだ言っても結論は同じ所に行き着くことが殆どだ。
 だが、環境は変わる。人間が環境を変え整え乱される。つまり前提が変わる。前提が変われば論理も崩れる。そして子供は、その変化した環境に馴染んでいく。生物が主として代を重ねる理由、真っ新な赤子から学習をやり直す理由だ。だが一方で子供は教育を受ける。以前の世代の学習で上書きされる。変化後の現環境から受ける無意識の学習と、変化前の歴史の蓄積の教育による学習。今までの変化は数世代に亘って徐々に馴染んでいくものだったから、そのズレは微々たるものだった。それが今や個人の一生どころか、親と子のズレすら明確に表れる時代となっている。
 故に、この変化の速い時代においては、親=人類の蓄積たる常識教育よりも、子=現環境のアップデートに対応した感性の方が時代に即している可能性を常に考慮しなければならない。無論何でもかんでも子の言う通りにするのではなく、子の感性が何の変化を感じ取ったが故のものかを見極めて自身が学び取り入れ、その上で教育を説かねばならない。

 それが種、或いは民族が繁栄を続けるための秘訣だった。
 だがそれを怠った。過去の成功体験に、戦需というブーストがあったが故のバブルという未曽有の成功体験に引き摺られ過ぎた。だから日本は時代の変化に取り残された。
 だが今や子供たちは諦めの境地に居る。自分達が何を言おうと実際に力を持っている大人は聞く耳を持たないし、自分達が力を付ける頃には日本はボロカスになっている。いや、そもそも自分達の感性が正しいのかも自信が無い。常識の方が尤もらしくて、実際正しくて、何が変わったから違うのかもうまく言葉に出来ない。単なる違和感では人を動かせない。社会を動かせない。それを言葉にしようとしても、大人は言い訳をするなと押さえつける。
 まぁ本当に今の子供たちがそんな思いなのかは不確かだ。大体が俺自身の言葉だから。

 だから結局俺がやりたいのは、今の若い子らの感性を吸い上げることなのだろう。
 そのためにはまず奮起してもらわなければならない。自分達には役割がある。そして効力がある。
 そして同時に力に変えなければならない。感性を論理に出力して、それを基に数と言う力に変える。
 もはや30になった俺ではもう古いし、そもそも少々ここまで来るのに歪み過ぎた。だから答えは俺ではなく若い子らが知っている。

 若者の活力を反映することで社会の若さを保つ。
 その為に若者の感性を力=数に変える。
 その為に若者の感性を論理に出力する。
 その為に比較対象であるこれまでの「正しい」を解析し示し、その差異を炙り出す。
 その為に若者の感性を抑圧化から顕在化させる。
 その為に「正しい」の絶対性を揺らがせる。

 こういう論理かな。
 自分がやりたい事を一つの筋に一本化するのに滅茶苦茶時間かかった。

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