口だけ

 結局俺は、どうしたいのだろう。
 結局俺は、どうして欲しいのだろう。

 このままが良い訳ではない。
 再就職したらと思うと体が竦む。
 理想への直進も、本気で目指しているかと聞かれると口ごもる。
 誰かの好意的な言葉も内心では「お世辞どうも」と愛想笑いを浮かべている。
 誰かの否定的な言葉も内心では「はいはい無能無能」とか言って薄ら笑いを浮かべている。
 自分のどんな言葉も考えも、「ま、口先だけの頭でっかちに意味なんて無いがな」と自嘲している。

 何も信じちゃいないのだ。
 自分も、他人も、過去も、未来も。
 何もかもが上っ面に思えて、何時だって純粋さを追い求めている。きっとその推測自体は間違っていないのだろう。

 純粋さ。
 掲げる正義と綺麗ごと、見て見ぬ振りをする人間の愚かさと身勝手さ。
 そのどちらもが人間の本質で、それを理解しながら尚理想とか仲間とか、そういったもののために全力であること。
 清も濁も併せ吞んで、それでも敢えて善く在ろうとする姿。

 自分たちの愚かしさを理解もせず声高に綺麗事を叫ぶのではなく、
 自らの愚かさに絶望して世を捨て世界を呪うのではなく、
 所詮こんなもんだろと鼻で笑って、全てを見下し自分大事に生きるのではなく、
 「それでも」と言い続ける自分になること。
 「だから人間は面白い」と思える自分になること。

 そこが目指す場所なのはきっと、俺の中の唯一の本物だと思う。

 ただ、どうすればその境地に行き着けるのかが未だ分からない。
 何も信じちゃいないのだ。今の俺は。

 誰かに「最内さんが来るのを待ってますよ」と言われたところで、
 「面白いご意見だと思います」と言われたところで、
 「○○は××だと思う」と反論を言われたところで、
 全てが薄っぺらく見えて、皆を俺は見下している。
 その言葉にどれだけの本気があるのだ。
 その思いは対価を払うに値するものか?
 金じゃなくてもいい。愛情でも、協力でも、時間や労力でも。
 付き合いを円滑にするために、安い言葉で流しているだけだろう。
 たとえそれが否定的な言葉でも、どれだけ俺の考えを理解して言っているのだ?
 俺の考えは言っとくが生半可な深さではないつもりだ。尋常な人が話を聞いてパッと思いつけるような時間では辿り着けないレベルのつもりだ。
 それを匿名で、なんて。
 時間も、労力も、リスクも賭けない言葉にどれだけの重さがある。

 そして同時に、自分自身を誰よりも最も見下している。
 己の考えには自信がある。だが行動に起こし、他者を、世界を変えられていない時点で誰よりも無力だと見下している。
 己に価値を見出せないからこそ、徹底的に己が軽いからこそ、他者にとっても本物たる価値が無いと考える。
 人の言葉を信じる気持ちより、自分への不信感の方が大きいのだ。
 これが何時まで経っても治らない。

 これはどうしたら治るのだろう。
 多くの人にとって、この問題は親から愛されていると感じているか、という問題が発端に近い。
 親の愛を信じられるようになったらもしかしたら変わるのかもしれない。
 だがもうそういう次元では無いのだ。俺のひねくれ具合は。
 親の言葉すら全てうすら寒く感じられ、それが我慢ならなくて距離を取る以外の選択肢を取れない。今はまだ、近づけば憎悪の感情が湧いてきてしまう。親もまた一人の人間で、精一杯やった結果だから責める事は出来ないとしても、理性より感情が先走る。まだ、向き合えるほど子供をやめられていないのだ。

 或いは恋人か? 自分を丸ごと受け止めてくれるような異性。
 無理だな。恋人なんて頑張らなきゃ作れないものだし、そこに割く労力も報われる見込みも皆無だ。俺の恋愛市場価値はずっと底値だろう。
 というかそういうレベルですらない。万一誰かに愛の言葉を囁かれたとしても、やはり俺はそれを愛想笑いで流すだろう。微塵もとは言わないが、微塵程度の期待と残り全ての不信を持って「ありがとう」と言うに違いない。

 若しくは師匠か?
 思考も行動も自分より上だと認め、屈服して目指す指針と仰げる人か?
 まぁそう思えそうな人は居なくは無いだろう。
 だがそのハードルは正直分不相応に高すぎるし、おそらく日本のトップレベル、最前線の人たちでしかないだろう。
 そしてそんな多忙な人たちが、俺なんかに時間を使うわけがない。

 結局、そうなのだ。
 俺は求めすぎている。
 分不相応なものを欲し、分不相応な人を欲し、分不相応な自分を目指している。
 何も積んでこなかったヒキニートが、理想の人格者になろうだなんて、どだい無理があるのだ。
 分かっている。分かっているのだ。それでも
 それでも、それを目指さないなら何故生きる?
 世に何も残さず、社会に首を垂れて諾々と歯車として生きて、何になる。
 勿論別に、それが悪いことだとは言わないし思わない。
 そうやって社会を、人の矛盾をやり過ごしながら別の「本物」のために生きるのは、十分に素晴らしい生き方だと思う。
 だが俺にはその「別の本物」が無いのだ。
 家族のため、趣味のため、芸術のため、推しのため、自分のため。
 そのどれもが俺にとっては薄っぺらなものにしか認識出来なくて、他の人のように本物だと思えないのだ。
 俺にとっての本物は善く在ろうとすることで、それによって社会の礎となるということなのだ。

 だというのに、なぁ、その本物を諦めるなら、俺はどうしたらいいんだ。
 届かぬからといって諦めて、無為に生きる意味がどこにある。どこに価値がある。
 この世は基本クソゲーだ。システムは複雑で、大抵の事は思い通りにならなくて、続けるだけで沢山のコストがかかる。ゲームのようなユーザーフレンドリーさが全然無い。
 ただ無為に生きるだけじゃ損の方が大きい世界だ。
 そこで精一杯何かを成し遂げようと自分で意味づけるからこそ、人の生には価値がある。
 これが俺の辿り着いた答えだ。
 もしこれが間違っているというなら是非ご教授いただきたい。間違っているというよりかは実際に俺自身にとって不都合が起きているのだから、もっと都合の良い考え方があるというなら是非認識を変えてしまいたい。
 だが生半可な、薄っぺらい反論ならご遠慮願う。一晩語り明かし俺の人生の一から十まで検証しないと俺は納得なんてしないだろうから。
 誰もそんなことしないだろう。そこまで時間と労力を賭ける価値は俺には無い。
 せいぜいこれを読んでなんとなく自分が否定された気になって、その自尊心を守るために安全地帯から否定の言葉を投げつけて薄っぺらい胸を撫で下ろす程度だ。

 でも、まぁ、実際反論の余地なんて無いのだ。
 本物だ、なんて偉ぶって、結局そのために何も動いていないのだから。
 哲学をまとめることも、動画をあげることも、noteに画像をつけることも、計画のパワポを作ることも、何も。
 ただ自分の中のモヤモヤを、誰に見せる為でも無く自分のためにnoteに叩きつけているだけ。ウンコを投げつけているのと実質的には大差無いのだ。

 口と頭だけ達者で、自分も他人も見下し、出来もしない理想だけを信じて現実何も信じていないヒキニート。
 結局はそれだけなのだ。

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