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映画「流浪の月」感想 ※ネタバレ含

!注意!
当noteは完全にネタバレを含んでおりますので、というかネタバレでしかないので、読まれる際は何卒お気を付けください。

また、ストーリーを説明したりはしておりません。悪しからず。

#流浪の月 #流浪の月愛より切ない #流浪の月試写会



感想が同じだった



2022年4月13日 23:10、平日ど真ん中の夜。

ありがた過ぎることに「流浪の月」の試写会に呼んでいただき、とんでもない感情に首を押さえられ帰宅した。見終わった瞬間から、何か言葉を発したらこの気持ちの形が変わってしまいそうで、ため息すら吐かずに速足で帰ってきた。
真っ先に化粧を落としてスキンケアを終え、部屋着に着替えてパソコンに向かっている。


この作品は本屋大賞を獲得するなど各所で高く評価されている超有名な作品ではあるが、滅多に読んだものを人におすすめすることのない私が「これは!!!!」とInstagramにアップした数少ない小説でもあり、人生の中でこれほど大事にしたい、汚されたくないと感じた小説は他にあるだろうかと思うほど心酔した作品でもある。
(読んだものを滅多に紹介しないのは、自分の感性に自信がないからという単純に卑屈な理由と、相手の感性を信頼していないという失礼な理由のどちらか、もしくはどちらもが発動するからです)


これを読んだ当初は、"清々しい絶望" を憶えたものだった。

更紗と文のような関係はきっと、私は一生手に入れられないと確信したから。なのにその存在を知ってしまったから。(フィクションだとしても。というか実際にあってもおかしくないと思っている)

このような関係が今世で築けないんだったら、私は何のためにあくせく働いて日々人と接しているのだろうか。平日も、休日も、何のために存在していて、どう過ごせばいいのだろうか。
全てのコミュニケーションが浅はかに感じられ、だったら一人でいいやと思ってしまった。
自分の生きている意味すら怪しく思えた。
価値がないように感じられた。

一方で、人間である以上、この関係を築ける可能性がゼロではないこともまた希望だったし、どこかの誰かがこの関係を築けているとしたら、その事実だけでも救いだと思った。

ちなみに、謎に偉そうで恐縮ながら「これを読んだ人のうち何割の人が理解できただろうか?」というのが最速の感想であった。

他人に介入されたくないゾーンを持っている者や、到底理解されないとわかっている自身の狂気を自覚している者なんかにはきっと理解できる部分があるだろうが、そうでない人間、むしろ無邪気に介入してしまう側の人間にはこの作品はどう映るんだろう?とずっとずっと気になっていた。

心底何様だという話ではあるが、理解できない人には読んでほしくないし、読んでもいいけど感想は口にしてくれるなと思っていた。
平べったい言葉でこの作品を汚してほしくなかった。
そのくらい、私にとってこの作品はあまりに大切で、繊細で、脆かった。
大切過ぎた。
故に、どう見ても理解できそうな、少し生きづらそうにしている友人数名にしか勧めなかった。(褒めてる)



そして、我ながら驚いたのは、今日映画版を見終えた際の最速の感想が全く同じだったこと。

「これを観た人のうち何割の人が理解できただろうか?」と、明るくなる会場内で私は眉間にシワを寄せながら大いにモヤっていた。

この、感想が同じであったことに対して、小説を映画化したんだから当たり前だろう、原作に忠実だったということだね、と片付けてほしくない。
全くそうではないから。

詳細はnoteの後半で書く。



観る予定のなかった映画版


数か月前、小説「流浪の月」が映画化されると聞いた瞬間、実は私は「うわーーーー!」と萎えていた。
小説を読み終えた後に、これは映画化とかしてほしくないよね、本屋大賞だし凝ったセットもCGも要らないからいかにも映像化されそうだけどやめてほしいよね、文を演じられそうな人が一人も思い浮かばないもんね、そもそも小説だから感じられる登場人物たちの心理描写をどうするんだ問題もあるしね、と同じくこの作品に心酔している友人と話していたくらいだった。

そもそも、あるあるかもしれないが、原作が好きすぎるが故にどうしても原作と比べてしまい、粗探しのようなスタンスになってしまうであろうことが容易に想像でき、そんな自分は嫌だし観るのはやめておこう。と決めていた。

何より、私は本を読みながら勝手に脳内で映像化しながら読んでいて、それが大変に美しかったので、もうそれで充分だった。


だからこそ、InstagramのDMから試写会のお誘いをいただいた時、こんなことが起きるのか!発信していてよかった!と嬉しびっくりな半面、観ないって決めてたんだよな…と無駄に悩んだ。

ギリギリになってようやく、こんな弱小アカウントなのに声をかけてもらえたのも奇跡のような話だし「違うなーと思ったら『小説と映画は別物』と思えばいいか」、と何かをこねくり回して観ることに決め、今日を迎えた。

それでもやっぱり期待はしてしまっていて、あまりに失礼な話だが、席に着く頃には監督に対して「下手なもん見せてきたらただじゃおかないわよ」くらいの臨戦態勢になっていた。(本当に何様…)



【脱線】舞台挨拶は個人的には要らなかった


こんなことを言ったら誰かしらからバッシングを食らうのだろうが、私にとっては舞台挨拶は蛇足だった。

広瀬すずさん・松坂桃李さん・横浜流星さん・多部未華子さんそして李監督が登場し、俳優さん同士の初対面の印象、記憶に強く残っているエピソード、役作りでの準備、自分自身の変化、自分にとって切っても切れない人、などインタビューアーさんが次々と質問していったが、事前に何を聞くか知らされていなかったのだろうか?とこちらが焦るようなシーンもあり(だからこそリアルな話が聞けたのかもしれないが)、なんにせよ作品を観る上で「彼ら自身のこと」を知ってしまうのは個人的には余計だった。

没入したかったから。
「〇〇さんはそういうことに苦労されていたのね、このシーンとか…でもよくできてるじゃない頑張ったのね…」なんて客観的に観たくなかったから。
どんな気持ちで撮影に臨んだかなんて、終わった後で知ったらいい。

かと言って、見終わった後に「どもども~!いかがでしたか~?」なんて出てこられてもそれはそれでめちゃくちゃイヤだったので、とりあえず私は試写会というものに向いていないことがわかった。
うるさいこと言ってすみません。

あ、松阪桃李さんが舞台挨拶の最後に仰っていた「試写会の場ではいつもは楽しみや高揚感という気持ちしかないのですが、今日はすごく緊張しています。皆さんにこの作品がどう受け取られるのか…」という言葉は、舞台挨拶自体いらんよ~と思っていた私でさえ、印象深く受け取った。
その後に作品を見て、その言葉を思い返して、絶対にしっかり感想を書こうと心に決めるほどには、話し方も含めてあまりにもリアルだった。
それだけ「正解」がない役で、手探りの中演じ終わったんだろうと思った。



まずは、原作厨のガス抜き


小説は小説、映画は映画。
最終的にはそう片づけようとも思うが、それでも、ここはこうであってほしかった…!を書き殴る。(ちなみにストーリーは概ねそのままでした。時間軸の行き来の違いはあれど)

最初にして最大の悲しみは、私が大好きで大好きで仕方のなかった、更紗の両親のシーンがなかったこと。時間の関係上入れられなかったのかもしれないが、いろんな意味で荷物を持たない主義の奔放過ぎる母親…あの母親の存在があってこそ、一見物分かりが良く我慢もできてしまうが弾けるような自由さも併せ持つ少女時代の更紗が愛おしく思えるのではないか。
出前のピザをベッドの上で指でつついてダラダラするのも、アイスを夕食時に食べるのも、更紗が子供だから、幼いからやってしまうこと、ではない。
両親との思い出なのだ。
両親と過ごした煌めきに溢れた幼少期、両親と一緒に楽しんでいたあれこれ。
世間から何と言われようと大好きだったお父さんとお母さん。
「普通」からはみ出てやんや言われても、一緒にはみ出て楽しいことを謳歌できる家族。
その幸せから一転、親戚に預けられ地獄のような日々が始まったからこそ、文に招かれたことが更紗にとってどれだけ救いで、だから文の家がシェルターになることに納得がいくのではないか。文に出会えてよかったねと観る者が思えるにはそのセットアップが必要だったのではないか。と思ってしまうが、両親とのシーンは再現するとしたら本当にカラフルかつ透明でみずみずしくて、ばっちり印象に残ることになるだろうから敢えてバッサリいったのか?なんて思ったりもする。
ただ、観たかった。正直、私がこの小説にどハマりしたきっかけは最初のこのシーンだったから。
李監督が作る「色のついた光」の演出を観てみたかった。

また、谷さんについて。
谷さんは、パッと見強そうで、でも心に傷を抱えており、それを隠すかのように強そうなルックスをして必死で自分の足で自分を支えている みるい女性という魅力的な登場人物だったはずが、これまた時間の関係上か極めてシンプルになっていたのが残念だった。
私は強い女も好きだが、強くあろうとしている女もまた大好きなので…
仕方ないんだろうけど…
谷さんのことをしっかり描こうと思ったらもっと時間が必要だし、主役2人を際立たせるためにはシンプルにせざるを得なかったんだろうな。と勝手に推測する。

削られたものの1つ、谷さんと文の関係の終わり方だが、確か原作ではもう少しだけあたたかみがあったような気がする。
「文との別れは谷さんの思いやり」という記憶がなぜかある。葛藤の中で、私じゃダメなのねと悟って去っていく谷さん…というのか。その去り際も好きだった。
ただこの2人の別れのシーンは、映画は映画で、ものすごくよかった。
これについてはガッツリ後述する。

更紗たちに子供を預けて好きな男と旅行に行ってしまう、シングルマザーの安西さんもこれまたいいキャラクターなのだが、うまく彼女の良さが出きっていたとは言えなかったように思う。
私がこの安西さんを愛する理由は、他人に対して壁を作ってしまう人間にとって自由奔放で素直で裏表のない人間は、下手に気を遣ってくる人間よりも余程やりやすく、有難い存在になり得るということを教えてくれたからである。

あとは、小説では最後に文と更紗がいろいろな土地を転々としながら穏やかに暮らす余韻を残してくれるが(この終わり方が個人的に好き)、映画は比較的ひんやり終わるんだなというところかしら…

それと、小説の中ではかなり印象的な「事実と真実は違う」という文の台詞はどこにも登場しなかったように思う。(記憶が飛んでいたら申し訳ございません)映像でそれを伝えようとしていたのか、私にはわかるはずもないが、この台詞は作中何度登場しても良いくらいの大物台詞な気がしていただけあって、逆に敬意をもって抜いたのかな、などと考えてしまった。

と、細かい設定などは指摘したらキリがないが、原作をただただ忠実に映像化しようとしたわけではないことは観ていたらわかったので、原作厨の文句はこのへんにしておこうと思う。(充分うるさかったですね…すみませんでした…)



ところで、どうでもいいけど、私は安西さんになりたい。
(更紗のお母さんも同じ人種だろう)
彼女たちのように、年齢的には大人になってもある種子供のような一側面を持ち続けていたいと願う。汚れなく、まっすぐにこの世界を見て、美しいものは美しいままに、美味しいものは美味しいままに、まっすぐに受け取って楽しみ続けられるような、そしてその背中を見た子供たちが「大人って楽しそう!」と思えるような、そんな素直な大人でありたい。

ただ皮肉なことに、文が呪う自身の病気は「いつまでも大人になれないこと」なわけで…
まぁ、身体と心の話は別だからと言えばそれまでだけど、「年齢は等しく重なっていくのに対し、当たり前に身体と心が同じスピードで大人になっていくわけじゃないこと」や「そのコントロールができないことの苦しさ」なんかを考えてしまった。





心して観てほしい



今更ながら、この映画は、難しい作品だと思う。


序盤で、観た人全員が理解できるとは限らないだろう旨を述べたが、恐らく原作を読んでいないとまず設定や展開に「?」が続出しかねない。
全てを説明してくれる懇切丁寧で親切な映画ではないからだ。

行間を自分で補い、それをも愉しめる人が向いている。
細かい設定をオトナにスルーできる人にも向いている。

ただ、そのある種の不親切さを踏まえてもなお、腹に力を入れて全人類に見てほしいと思った。叶うことなら。きっと各々が各々の持ち帰り方をするはずだし、まさにそれこそが映画という芸術の真骨頂だと素人ながらに思う。



そして、基本的に静かな映画だった。
主役の二人が息を潜めて生きているのだから当たり前かもしれないが。
だからこそ更紗や文が(特に文だな)感情を爆発させるシーンの数々は、つい首の向きをズラして片目で見たくなってしまうくらい生々しくて、普段淡々と "社会人" をして平和ボケしている私にとっては「ニンゲンを見ている感じ」がし、非常に贅沢だった。


中でも特に印象に残っているシーンが2つあり、1つは亮に殴られて血だらけになりながらcalicoにたどり着いた更紗と文が久しぶりの会話をし「更紗はまだ夕飯にアイスを食べるの?」と尋ねるシーンと、もう1つは文と谷さんの別れのシーンである。

文は更紗が幼少期のまま自由でいることを願っているんだな、とあの質問でありありとわかるので「結局人は人を見たいように見る」という更紗のセリフを思うと文ですらそうなんだろうかと絶望しそうになるが、「もう食べないよ、大人だから」と答えた更紗に対して激しく落胆している様子もない文を見て、この人はどれだけ自分の心を押し殺してきたんだろうかと悲しくなった。実はこのシーンでちょっと泣いた。
「更紗はまだ夕飯にアイスを食べるの?」というセリフが、基本ロートーンの文にしては珍しくほんの少しウキウキして聞こえたから、尚更。

文と谷さんの別れのシーンは、松坂さんの演技に圧倒され過ぎて、思わず「すごい」と口にしそうになった。本当に圧巻だった。
文は谷さんを故意に傷つけようとはしていなかったはずだが、下手に期待を残すこともまた残酷だと判断したのだろうか。わかりやすく狂気を滲ませながら、そんなことを口にしたら自身も傷つくだろうに「小さな女の子が好きなんだ、でも大人の女もいけるかと思って君を利用した」なんて。こんなに悲しい嘘を私は他に知らないし、松坂さんの表情がもう、もう何が何だか…(語彙力崩壊のお知らせ)

拍手してしまいそうだった。見入り過ぎて体は全く動かなかったけど。

このシーンは本当に本当に観てほしい。
感情がぐちゃぐちゃになることを覚悟の上で。


もちろん、クライマックスである、文が身体を見せながら自身の秘密を更紗に打ち明けるシーンも相当印象的ではあるが、それは私が敢えて書かずとも印象には残るだろうから、書かない。



長くなってしまったが、小説版の「理解しづらさ」は "人に理解されなかった経験" の有無に起因し、映画版の「理解しづらさ」はシーンごとの行間を読めるかどうかに起因する気がする。それも経験によるのかな。どんな経験をしてきたかで読める行間が変わってくるのかな。私の場合は原作を読んでいたからわかった部分も多いんだろうけど、もし読んでいなかったとしたら己の経験がかなりモノを言いそう。

「愛」について考えたことがあるかどうかも関係しそう。
この映画を通して「いろんな愛があった」と捉える人もいれば、「どの関係も愛ではなかった」と捉える人もいそう。私は後者。

更紗と文の関係はやっぱり、世に溢れるどの「愛」よりも高次だと思う。
この感想は小説読後も映画を観た今も同じ。
ほんと、心底、羨ましい。


あー、原作の小説を読ませた友人たちに一刻も早く映画を観てほしいな。
私たちの大切な「流浪の月」を、また違った角度で語りたい。



原作が好きすぎる人も、原作を読んだことがない人も、それぞれに楽しめると思います。いずれにせよ気力と体力をえらく消耗するので、観る時は心して観てほしいですが。笑

本当におすすめです。この作品と同じ時代に生きているんだから観て、って思う。



長文・駄文失礼いたしました。
試写会、行けてよかったです。
ご招待くださりありがとうございました。


もんぬ



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