サヨコ 第9話
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仕事を終えて紫の家に向かう。何度も通いなれた道。もしかしたらこの街に来るのは最後になるかもしれない。話があるから、と紫に伝えたのは自分だというのに、なぜか足が進まない。遠回りをしてしまう。もっと、ふたりでいろんなことをしておけばよかった。例えばそこの屋台のラーメン屋や、立ち食いの焼き鳥屋とか、行ってみたら楽しかったかな。
感傷に浸ってしまうのは、忍び寄る秋の気配のせいだろうか。暑くて眩しい夏が終わると、街並は次第に色褪せていく。例年はしぶとく夏の顔をしていた九月は、今年は諦めが早かった。急に涼しくなったから、長袖のワイシャツは袖を捲り上げなくてもよくなったし、それどころか肌寒いと感じるくらい。
ようやく紫のマンションの前に着いた頃、スマートフォンが震えた。紫からの着信だ。
『煌太、そろそろ着く?』
「あ、うん。ちょうど今下に着いたところ」
『本当? じゃあそこで待ってて。今日は外に食べに行こうよ』
エントランスから出てきた紫は俺の腕を掴んで、行ってみたいところがあるの、と楽しそうに笑った。さっき見たばかりの焼き鳥屋の前を通過する。
「ここもね、気になってるんだけど、今日はお酒飲まないほうがいいよね?」
「あ……うん、そうだね」
そうして立ち止まったのは、屋台のラーメン屋の前だった。
「行きたかったのってここ?」
「うん。いつもいい匂いしてて気になってたんだけど、ひとりで行く勇気なくて。いい?」
「いいよ。俺もさっき見て行ってみたいなって思ってたから」
緊張しながら暖簾をくぐり、こんばんは、と声をかける。ぐつぐつと煮えるスープの湯気の向こうで、オヤジさんがいらっしゃい、と少し黄ばんだ歯を見せて笑った。迷いながら一番オーソドックスそうな醤油ラーメンを注文した。
待っている間に、紫は肩までの髪をくくった。これまで髪を結んだ姿は見たことがなかった気がする。ふわふわの髪がぎゅっと束ねられて、小型犬の尻尾みたいだ。
「髪結ぶの初めて見た」
「そうだっけ。麺類は気合い入れなくちゃいけないからね」
それからまもなくして、目の前にどんぶりが並べられた。俺たちの会話を聞いていたのか、気合い入れて食えよ、とひと言添えて。
いただきます、と手を合わせて、スープを口に運ぶ。あっさりとした醤油味だ。寒さを感じていた体にすうっと染み渡るようだった。
横目で紫を見ると、気合い充分にずずっと麺を啜り上げたところだった。負けじと麺を吸い込む。少し柔らかめの麺。煮卵は黄身がしっかりした固茹で、メンマと海苔も乗っていて、子どものころ家族で食べに行った近所のラーメン屋の味を思い出す。特別美味しいわけじゃないけれど、なんだかほっとする、懐かしい味だ。
スープも残さず、は無理だったけれど、俺も紫も綺麗にラーメンを平らげて、ごちそうさまをした。お腹の内側から温かいと、幸せな気持ちになる。
また、前のふたりに戻れるだろうか。戻りたい。そう願うように紫の手を握って、秋の甘い匂いがしはじめた夜道を歩いた。
結論から言えば、俺は紫にフラれなかった。いつまでもサヨコのことを引きずってしまうから、ケジメをつけるために過去の想いの告白をすることを許してほしい、と言った俺に、紫はやっぱり『しょうがないなあ』と言って笑った。
怒らないのか、不安にならないのか、と訊いたけれど、紫は『そう思ったところで、私にはどうしようもないことだから』と言うだけだった。その横顔が寂しそうに見えて、俺の選択は間違っているのではないかと思った。でも、きちんとケジメさえつければ、紫にちゃんと向き合えるはずだから。
問題は、どうやってサヨコに会うかだ。サヨコの連絡先を俺は知らない。サヨコも高山も、スポーツクラブの体験時のアンケートには必要以上の情報を書いていなかった。
仕事を終えて、従業員出口を出る。夏の間はまだ明るかったこの時間も、秋の入り口に立ったからか薄墨色の空に気のはやい星が瞬き始めている。空を見上げながら歩き出すと、後方から呼びかけられる。
「煌太くん、久しぶり」
振り返ると、電柱にもたれるようにして、女性がひとり佇んでいた。長い黒髪に、サヨコが来たのではないかと一瞬期待した。でも、違う。霧崎めいこだった。
「めいこちゃん」
「そんながっかりした顔しないでよ。遠野さんだと思った?」
めいこの口からサヨコの名前が出てくるとは思わず、俺は身構えた。口調も以前会ったときとは随分違う気がする。あのときが猫かぶっていただけかもしれないけれど。
「わたし、遠野さんと同じ会社で働いているの。前に煌太くんに会いにここに来てみたんだけどね、遠野さんと煌太くんが一緒にいるの見てびっくりしちゃった。もしかして、ふたりって付き合ってたりする?」
「いや、付き合ってないけど」
「ふうん。まあいいや。付き合ってないなら知らないかな? 彼女ね、最近ずっと会社休んでるの。電話かけてもつながらないし、家に行ってみたけどいなさそうだった。だから、煌太くん何か知らないかなって思ってきたんだけど、無駄足だったみたいだね」
そのまま帰ろうとするめいこを慌てて引き留める。
「会社も来なくて連絡も取れないって、何か事件に巻き込まれてるんじゃないの?」
「さあ。わたしに聞かれても」
「会社来なくなったのっていつから?」
「えー、いつだったかなあ。二、三週間くらい前かな。そろそろクビになっちゃうかもね」
ちょうど高山が俺を訪ねてきたのがその頃だ。なんだか嫌な予感がする。
「遠野さんのことで他に何か知ってることは?」
「うーん。あ、ちょっと前に会社まで迎えに来た男の人がいたよ。煌太くんと一緒にいるのも驚いたけど、あの子って浮いた話全然聞かないから、そういう相手いるんだってガン見しちゃった。それで気づいたんだけど、その人結構有名な人だよ。どっかの会社の社長さん。待ってね……この人」
そう言ってめいこはスマートフォンの画面を見せてくれた。高山の写真だった。俺でも聞いたことのある企業の代表取締役らしい。
「ありがとう、めいこちゃん」
「あ、そうだ。煌太くん。今日なら行ってもいいよ」
「行くってどこに?」
「決まってるじゃん。ホテル。あれから考えてみたんだけど、体から始まる関係っていうのもあるのかなって。今日久しぶりに会って思ったんだけど、煌太くんってやっぱりわたしのタイプど真ん中なんだよね」
めいこは俺の腕にしがみつき、上目遣いで見つめてくる。昔の俺だったら、こんなチャンス逃すわけなかった。でも、今は嫌悪感しかない。
「ごめん。俺もうそういうのやめたんだ。彼女いるし。それに、今はそれどころじゃない」
めいこの腕を振り払い、走り出す。何か言っていた気がするけれど、聞き取れなかった。高山に会いに行かなければ。
会社の住所を調べて訪ねてみたけれど、時間も遅かったからか、とても入れそうになかった。日を改めて来るしかない。
ふらふらと知らない街を彷徨った。数歩進むごとに空の色が黒く煮詰まっていくみたいだ。秋なんか、嫌いだ。サヨコが消えたあの年も、秋が来るのが早かった。いつもの風景が色を失っていくたびに、夏が遠ざかっていくのを実感して落ち込んだ。サヨコにはもう二度と会えないって突きつけられるみたいだったから。
最後にふたりで飲みに行ったときのサヨコの泣き顔を思い出して、胸が痛んだ。俺はサヨコのことを泣かせてばかりだった気がする。サヨコが笑う顔が大好きだったのに。会えないと思うと、会いたくて仕方がなくなる。サヨコは無事なのだろうか。
――自分にとって、本当に失いたくないのはどっちか。真剣に考えてみな。
金田に言われた言葉を思い出す。今ならわかる。俺が失いたくないのは、サヨコだ。
立ち止まり、紫に電話をかける。数コールの呼び出し音の後、紫の声がした。
『煌太?』
「紫、ごめん。また話したいことがある」
『……うん。わかった。今日来るの?』
「うん。急でごめん」
紫の家の最寄り駅に着く。ついこの間来たときは、また元のふたりに戻りたいと願ったばかりだというのに。歩き始めた俺の頬にぽつりと雫が落ちてきた。ぽたりぽたりという音は次第に速さと勢いを増して、一気に土砂降りに変わった。慌てて走り出す。紫の家に着くころには、全身びしょ濡れだった。
エントランスで部屋番号を押すと、すぐに紫が出た。
「煌太、もしかしてずぶ濡れ? やだ、早く入ってきて」
すぐに自動ドアがひらく。部屋の前に着くと、待っていてくれたのか、ドアがひらいて紫が迎え入れてくれた。ふわふわのタオルを頭の上からかぶせられる。
「風邪ひいちゃうからお風呂入ろ。すぐ沸かすから」
押し込まれるように紫の部屋に入った。紫はぱたぱたと廊下の奥に消える。お風呂の準備をしてくれているみたいだ。立ち止まったら急にエネルギー切れのような感覚になり、長居するべきじゃないと頭ではわかっているのに動けなくなる。玄関で立ち尽くしたままの俺を見て、紫が手招きした。
「大丈夫? ご飯は食べたの?」
首を横に振る。紫は困ったな、と呟いて考え込む。
「冷凍してたご飯があるかも。それでお茶漬けくらいなら用意できるけど、食べる?」
今度は首を縦に振る。そんな俺を見て、紫は眉尻を下げて笑った。
「煌太、かわいい」
俺より少し年上の紫。いつもこうやって俺を甘やかしてくれる。こんな最低な男なのに。
「……どうして」
「ん?」
「どうして俺なんかに優しくしてくれるの?」
ふわりと包み込まれるように抱きしめられる。好きだからに決まってるじゃない、と言った紫からは、いつもの俺の好きな香りがしなかった。いつまでもこのままじゃダメだ。肩を押し返して、距離を取る。
「紫、ごめん。俺……ずっと紫に甘えてた」
「別に、私は構わないけど。そういうところも含めて好きだから」
紫の優しさに、大切に思われることの心地よさに、溺れてしまいそうになる。だけど、俺がここに来た目的をきちんと果たさないといけない。覚悟を決めて口を開こうとした俺を紫は脱衣所に押し込んだ。
「話はちゃんと聞くから。まずはお風呂に入って。ご飯も用意しておくから」
促されるままお風呂に入り、出た後は食卓についた。紫が用意してくれたお茶漬けを夢中でかき込む。紫は俺の向かいに座って、頬杖をついて俺の様子を見守っている。
「私からも話があるの。食べながらでいいから聞いてくれる?」
頷くと、紫はマグカップに手を伸ばし、口をつけた。
「今月で今の仕事はやめようと思ってるんだ。ヨガスタジオに移ろうかと思って。働きながらスクールにも通って、ちゃんと資格取りたいなって」
ずっと一緒にいたはずなのに、紫がそんなことを考えているなんて気づきもしなかった。お茶漬けを平らげ、茶碗を静かにテーブルに戻した。
「だから、大丈夫だよ」
「え?」
「別れようって、言いに来たんでしょ」
紫は瞳に涙を滲ませながらも、優しく微笑んだ。細くなった目から涙が溢れて、頬を伝っていく。紫には敵わないなと思い知る。
「ごめん。やっぱりサヨコのことを忘れられなくて」
「私のほうこそ、ごめん。煌太の本当の気持ち、気づいていないわけじゃなかったのに、ずっと知らないフリしてた。煌太が悩んで、苦しんでるのもわかってて、それでも繋ぎとめようとしてたの」
「紫は悪くないよ。全部俺が悪い」
「サヨコさんのこと、ちゃんと幸せにしてあげてね」
空になった食器をシンクに片付ける。そのままでいいよ、と言われたけれど、申し訳なくてスポンジを泡立たせる。紫は静かに俺の隣に立って、泡を流した食器の水分を布巾で拭った。ふたりで料理した日々を思い出す。間違いなく、楽しかったのに。我慢していたのに、ついに溢れ出してしまった。
「いて……目に泡入っちゃった」
すぐ嘘とわかるようなことを言ってしまって、これなら何も言わないでいたほうがよかったかな、なんて思ったけれどもう遅い。紫は俺の顔を覗き込んで、呆れたような顔で笑った。
「もう。どんな洗い方したのよ。私のほうまで飛んできたわよ」
紫は自分の目元をごしごしと拭う。ふたりでしばらくそのまま泣き続けた。
「これで最後にするから」
紫はそう言いながら俺の背中に腕を回す。これで、最後だから。そう自分にも言い聞かせて、そっと抱きしめ返した。
「もう痛くない?」
俺の身体に巻き付けていた腕を下ろして、紫が囁くような声でそう訊ねてきた。もう終わりなのだな、と思いながら、腕の力を緩めると、紫は俺の顔を見上げていた。
「うん、平気。紫は?」
「私も大丈夫。どうする? 夜遅いし泊っていく?」
「え?」
泣き腫らした目のせいか、寂しそうに見えるその表情に傍にいてあげたほうがいいのだろうかと悩む。
「バカ。冗談に決まってるでしょ。明日もあるんだからさっさと帰りなさい。石崎くん」
紫は俺の背中をバシバシと叩いて、明るい声でそう言った。強がってるんだってわかるけれど、きっと今は優しくするべきじゃないんだ。紫が我慢しているんだから、俺もしっかりしないと。
腕時計をわざとらしく確認する。
「遅くにすみませんでした。終電近いので、急いで帰ります」
荷物を手に取ると、足早に玄関に向かう。靴を履いて、紫の頭に伸ばしかけた手を触れる寸前で引っ込めた。
「気を付けて帰ってね」
「はい。お世話になりました」
静かに扉が閉まる音がした。夜風は冷たくて、ぶるりと体が震える。それなのに、頬がなんだか温かくて、触れてみたらまた涙が零れていた。
なんだよ、さっき十分泣いたはずだろ。
月の見えない夜。星だけが煌々と輝く空は、たくさんの涙を湛えているみたいに見えた。
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