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カプセル(10095字)

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脇に畳んで置いてあるシーツも枕カバーも無視して、こりゃ、棺か? とつい独り言ちてしまうほど狭いベッドスペースに這い上がり、疲労困憊の立野はとにかく潜りこむ。
仰向けに寝がえりを打ち、手探りでヘッドランプの灯りをつける。電球色のライトが頭痛を抱える立野には眩し過ぎる。一瞬視界を失い、目を凝らすとようやくベッドスペースの天井が見える。無骨な鉄筋コンクリートの梁が手の届くところにあり、田の字の空白の部分には薄い布が張られ、一応建物の中に走るダクトや断熱材の類は見えないようになっているらしい。覗くつもりはないが目隠しの意味はあまり無いと立野は思う。
ヘッドランプが立野の脳天に直接あたるのでやはり手探りで位置を調節しスペース全体が明るくなるようにすると、鉄筋の天井の一部に小さく文章が刻まれているのを見つける。
小さい文字であるがある程度まとまった量の文章らしく、目をこすって、さらに指先でわざわざその文字をなぞるようにして注意深く読むと、どうやら遺書のようである。遺書というほどはっきりしたことは書かれていないが、これを書いた人間がろくなことに遭っていないことは分かった。

不安が過った火曜日の夜。
あの男の人のお腹の中にひとつ寄生虫が住んでいるのを見る。
寄生虫女の腹の中にも人がいる。
生態系と宇宙の旅の行き先は、青いプールの排水溝に落ち着く。
青い水は白銀の月を映している。思い出は日焼けの跡だけだった。
頭髪が流れる。歯が零れ落ちる。私の病気がウエハースで悪化する。
もうダメです。何もかも終わりです。不安に勝てそうにありません。
青い嫉妬を泳ぎ切る勇気がでません。
さよなら、さよなら。

 

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ここに寝ていたのは男か、女か、と立野はしばらく考えた。この無骨な文字を書き込んだのは男であるべきだと思ったが、嫉妬に苛まれて記したような文章は女の手になるもののように見えて仕方ない。
立野はいつかテレビ番組でやっていた脳トレゲームを思いだした。青い字で「赤」とか、赤い字で「黄」とか書いてあって、色に惑わされずに正しく文字が読めるかというもの。男が書いたような字で、女らしいことが書いてある目の前の詩? を読んで、こんなことを考えるのもおかしいかと思ったけれど、思いだしてしまったのだから仕方ない。
間をとって女のような男がこれを書いたのかもしれないと立野は考えた。
男女混合の小さくておしゃれな都会のカプセルホテルだった。狭いベッドスペースは上下二段になっていて、立野のベッドは上の段だった。
全体の装飾として立野の目に留まったのは、打ちっぱなしのコンクリート壁に針金細工で囲まれたホロホロと崩れそうな儚いランプの灯りが等間隔に並んでいるところ。地面には毛の短いカーペットが几帳面に敷き詰めてあるところ。
カーペットを見るとつい触りたくなるのが立野の癖だったが、まだベッドルームも確認していない状況で、フロアに足を踏み入れてすぐその場にしゃがみこみカーペットの手触りを確かめるのはさすがに行儀が悪いと思い、とにかく後にしようと決めたのであった。それに、頭も痛かったので。
しかし不気味な詩を見つけてしまった今となっては、カーペットに先に触っておけばよかったと彼は後悔した。ことによるとこのホテルを出ることも辞さないと思ったからだ。まさか帰り際にサッとカーペットに触れていくなんて負け惜しみみたいなこともできないし、電車の降り際に女性の身体を触っていくタイプの痴漢のような、卑怯な真似はできないのであった。
しかしフロアに足を踏み入れた時点では、どっちにしたってカーペットに触ることはできなかった。それには場が賑わい過ぎていた。
ベッドスペースのほかには12畳ほどの大きさの共有スペースのような場所が設けてあり、男女混合国籍不問のコミュニティが築かれていた。
彼らの姿を見ると、カプセルホテルというよりはゲストハウスと呼ぶ方が相応しいのかもしれないが、膝を立てればつっかえてしまいそうな棺の中、腕組みをして天井に掘られた詩を読む限りにおいて、ここをカプセルと呼ぶのもホテルと呼ぶのも嫌だし、もちろんハウスでもなければゲストになった気もしないと立野は思う。
それにしてもここは実に色々な人が使うのだろう。どんな人がいてもおかしくない。ここで退屈まぎれに退屈な嫉妬の詩を書くこともすれば、後から来た私のような人間を脅かすことを想像して楽しむこともできるだろう。
立野はその詩の続きを書こうと思い、ポケットからボールペンを取り出した。

さよなら、さよなら。
中絶間近の原稿抱え、遊説行脚の旅に出ます。
風評被害を笠に着て、もともと私を知らないあなたの……、緑の箱には……

ここまで書いて、立野は次第にイライラしてきた。この閉所に閉じ込めておいて、5300円もとるくせに、こんな不気味を見せるなんてと思わずにはいられなかった。
満室なのは分かる。右隣は女、下も女、左隣は男。圧迫感の違いで分かる。がさごそ動く音には太もものイメージ。その重さが違うから分かる。共有スペースを見る限りこのカプセルホテルだかゲストハウスだかは盛況で、大勢の客が、と言っても満杯で12人の、男女混合国籍不問の選ばれし民たちが集っているのが分かる。だけど立野は文句を言わないではいられなかった。


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「私の部屋に変な詩が書いてあって大変気分が悪いのだが」と階段を一つ上がったところにあるフロントで言う。
大変失礼いたしましたと言ってフロントの男は、彼についてくる。男はゴミくずを拾うふりをしてカーペットを一度いやらしく撫でたのを立野は見逃さなかった。男はなんてことのない顔をしてベッドスペースまでついてきて、彼の棺に入り込もうとする。階段に足を一歩かけたところで立野は焦る。
このまま中を見られれば、立野がシーツも枕カバーを使わずに部屋を使ったことがバレてしまうかもしれない。寝そべらなければ詩はうまく読めない。ということはあなた、シーツを使ってくれませんでしたね。後から使う人のことも考えずに、無責任な振る舞いをしましたね、と言われるかもしれない。そうなってしまえば、後の人がどういう気持ちになるかなんてことは考えもせずに、身勝手な詩を書く人間も、このホテルの人間も強く責めるわけにはいかなくなる。
立野は固唾を呑んで男性職員のお尻を見守った。男性はシーツが敷かれていないベッドの上にごろんと仰向けに寝転がり、立野がそうしたように文字を指先で追いながら読んでいる様子。
数十秒の沈黙が流れ、男性職員が言ったのは、「立野さま立野さま、これ、このさよならの後、あなたが書き足したでしょう」ということだった。
男性職員の声は弾んでいたが、目元はイライラしているように見えた。微妙なインクの色の違いでバレたか文字の違いで分かったかと冷や冷やしながら白を切るつもりでいたが、続けて言うのは「さよならのあとの詩はリズムと文体が違う、まったく別人だ」という話で、立野は降参して白状するしかすべきことがなかった。
「さよならのあとは無い方が絶対に良いです」と言われれば恥ずかしくて消したくなったが、コンクリにボールペンで書いてしまったのだから簡単には消せないのではないだろうか。立野はその場でもう一泊申し込む。明日の日中消しゴム、あ、砂消し、を買ってこの落書きを消しますとまで言う。
「ええ、ええ、お願いします。しかし明日は満室なのでチェックアウト後に責任を持って消してから帰ってください。さよならの後だけでけっこうですから」と言われたのが立野には相当応えて、頭が痛いのになかなか眠ることもできない。繰り返し詩を読み続け、私の詩のどこがそんなにいけないのか、この詩のどこがそんなに良いのかと考える。


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恥ずかしさと興奮と狭さにやりきれなくなっていると腹が空いたので歯を磨きにのそのそと這い出た。立ち上がると頭痛が激しく感じられたが、とにかく歯を磨いて寝ようと思った。
ところで、夜も9時を過ぎれば絶対に飲食しないと決めている立野は、9時以降に腹が減れば歯磨きをして食の道を絶つことにしている。
立派な心掛けである。ただし歯ブラシを忘れたので再度フロントに行くことにする。フロントの男は先ほどの奴。人懐こい立野はなぜか彼に友情を感じていることに気付いた。正直に私の詩がダメだと言ってくれてありがとうと、負け惜しみでもなんでもなく言いたくなってくる。
彼は男性職員に食事についてのルールを聞いてもらうことにした。
「健康のためにね、9時を過ぎたら食べないことにしているのだ。実はカバンの中にチョコレートでコーティングされたクロワッサンが入っていて、もう少しでそれを食べそうだったが、それを堪えて歯磨きをすることにしたのだ」
立派な心掛けです、普通なら食べてしまっていますよなどと言われるのを期待して、自信満々の顔でそう言ってから、少しはにかんで見せて「しかし私としたほどが歯ブラシを忘れてしまってね。一本譲っていただこうと思ったのだ」と言う。できるだけ紳士のような態度を作って、優雅に、旅慣れている人のように。
「ベッドスペース飲食禁止なんで気つけてくっさいね」
くっさいねに立野は驚く。一刻も早く歯を磨かなければと思う。
「歯ブラシ一本450円になります」
「微妙に高くない?」
立野は紳士然とした態度も忘れて、それどころか男性職員の必要以上に砕けた口調に影響を受けている。
「どうっすかねえ」と男性職員。「別に言われたことないっすけどね」
旅人にとっては普通の値段なのだ! と素直な立野は思った。歯ブラシの値段にケチをつけるような人間は旅慣れた人間ではないと暗に言われているような気がした。しかし歯ブラシは間違いなく微妙に高かった。毛先の細さや束感、そもそも毛に相当なこだわりのある独自ブランドの歯ブラシなのかと思ったが、出てきたのはくすんだビニールに入った古い旅館などでよく見かけるタイプの歯ブラシだった。歯の部分にあらかじめ歯磨き粉成分がついていて、少し水に塗らして歯を磨けば泡が立つタイプのもの。これで450円は高いだろうとさすがに思ったが、歯磨きルールをドヤ顔で晒してしまった以上やっぱり良いですとは言えないし、紳士面をしてしまった以上歯ブラシが高いなんてクレームをぶつけるのも憚られた。もう既に「微妙に高くない?」って言ってしまっていることなんて、立野はとっくに忘れてしまっているのである。
仕方ないから450円出すも何も財布がない。
冷や汗を垂らすか垂らさないかというところで、じゃあ部屋のナンバー控えさせてもらいますね、チェックアウトのときに清算って感じでお願いしますと言って彼はさらさらと手元の紙に何か書いている。
立野が男性職員の手元を覗き込むと、メモ用紙には「詩人微妙に高い歯ブラシを買う」と書いてある。「微妙に高いって書いてるじゃないか」と言わずにはいられなかった。「微妙に高いって自覚があるんじゃないか」
「どうすっかねえ。僕はあんま思わないですけど、ポエ……、あ立野様がそう言ってたから書いただけっす」
ポエマーと呼びそうになる程度には私の詩は認められたのだと立野は思った。
「きみ、詩人のあとに小さく括弧をして、見習いと書き足してくれないか」と彼は捨て台詞を吐いた。
「そうっすね! 失礼しました」とフロントの男が頭を下げたので、立野は満足だった。


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共有の洗面所には一人先客がいる。
いつからいたのか分からないが、立野が来たときには既に落ち着いて歯を磨いているので、ちょっと前からここにいたのだろうということが分かる。
立野は先客の男が450円の歯ブラシを使っていることに気付いた。少し力を入れれば簡単に折れてしまいそうな柄が同じだ。すっごく泡立ってる。口の両脇からきめの細かい泡が溢れている。
しゃこしゃこしゃこしゃこ必要以上と思われる力で、どれだけ磨き続けるのだという勢いで男は磨き続ける。
そうか! と立野は考える。
彼も歯ブラシを微妙に高いと思っていて、いつもより余計に歯を磨いて元を取ろうと思っているのだ!
それにしても立野が気になるのは、その男が洗面台の蛇口を捻りっ放しにしている点である。水かお湯か分からないが男が鏡を見て歯を磨いている間、ずーっと蛇口が開きっぱなしになっている。流れる流れる。もったいないですよ使わない水は止めましょうよと何度言おうと思ったか。自宅でも彼はこうなんだろうか。奥さんに怒られたりしないのだろうか。水道代がやたら高くなったりしないのだろうか。ああ、そもそもこんな男に奥さんなんてものはいないのだろう。腹が出ていて口元のヒゲが汚い。指は太く、足の爪が伸びていて、髪の毛は薄く無造作である。そう考えると男が惨めに思えてくるが、ズゴーっ、ゴクゴク、と大量の水を飲みこみ続ける排水口の音が怖い。立野の心配は止まらない。水が流れ続けること、それを気にせず450円の歯ブラシの元をとろうとしている男の必死さに不安を感じる。まさかこの男は元を取るだけでなくホテルに損失を与えようとしているのかと思わずにはいられなかった。なんて嫌な男だ。
水が流れっぱなしになっているせいで男の歯磨きがすごく長く感じるし、立野の歯磨きが終わりそうだというのにまだ磨いている男の神経が汚らしく感じる。歯はおそらくかなり綺麗になっているだろうが、意地が汚い。そうだこういうときこそ人の振り見て我が振り直せだ。少々自分が損をしても、泊めてくれているこのホテルに敬意を払い、水は節約するし、歯磨きも普通通りにしようと立野は決めた。
それでも男の歯磨きの長さが気になる。流れっぱなしの水のことも気になるが、無心に歯を磨き続ける男の色々が心配になる。やっぱり注意しようか、何か考え事をしているだけで気付いてないだけかもしれないしと立野は考えに考える。洗面台の一番端に紙コップが出る装置があって、ボタンを押して一つ取り出す。水を湛えて口に含む。口の中でよく水を動かす。その間不要になった歯ブラシとその袋をぽいぽいと、ひざ元にあるごみ箱へリズミカルに捨てた勢いでその中に水を吐き出してしまう。吐き出しながらうわーっと言ってしまう。ボドドッという下品な音がして、恐る恐る男の方を振り向くと、ものすごく怪訝な顔で立野を見ている。
何をしてらっしゃるんですか汚いですなあと、その男はわざわざ口をゆすいでからちゃんと言う。
こいつ私が水出しっぱなしよくないですよって言うのにどれだけ躊躇ったか分からないのか、こいつは迷わず思ったことを言うのか、ほんと私のような素直で繊細な男は損をしてばかりだと悲しい気持ちになる。
「それ、後で使う人の気分悪いからきちんとしといてくださいますかな」と言いながら口元を華奢なハンカチで拭い、水道の栓をキュッと締める。
「あんたみたいなだらしない人がそんなキレイにハンカチなんて持ってるのか」と立野は何か仕返しをするかのように罵る。
「ハンカチくらい持ってますよ。ハハ、しかしこれは確かに、私には似合わないかもしれませんな。実は3年前に亡くなった妻の形見でして、女々しいと思われるでしょうが捨てられないばかりでなく、こうして肌身離さず持っていなきゃ気が済まん始末です」
「あ……」と言って立野は黙る。それから数秒、彼はゆっくり自分が口中の水を吐き出してしまったゴミ箱を手に取りながら、小さい声で「失礼した」と言った。
「良いんですよ。これも何かの縁だ。良かったらこのハンカチ、そのゴミ箱をキレイにするのに使ってください。今日で踏ん切ります。妻もそれを望んでいるでしょうし、何より生きていたら、私がこのハンカチを使うのを許してくれなかったでしょう。大事にしてましたからな」そう言って男は、立野の前の洗面台にハンカチを置いて颯爽と去っていく。男が十分に遠ざかったことを確認してから立野はごく小さい声で「使えるか」と言った。
それどころかすごく重荷を背負わされてしまったと立野は思った。ゴミ箱をキレイにするためには絶対に使えないし、だからと言って捨てるわけにもいかない。もちろん立野が使うのも違う。
しかし次の行先が決まった。このハンカチの持ち主の墓にこれを手向けるのだ。
当てのない放浪の旅の中、高尚で紳士的な目的ができたことを立野は喜んだ。気付けば、頭痛も先ほどよりは和らいでいるようだった。


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寝る前にトイレに行った。
個室に入ってやはりまだズキズキと頭が痛むため、両掌でこめかみを揉みながら用を足していると、扉の向うで子どもの声が聞こえる。
「もれちゃうよう、もれちゃうよう」と小さく儚い声で、しきりに訴えている。父親が困り果てた声で、「もう少しだよ、もう少し我慢だよ」と息子を励ましている。
立野は一瞬、自分が譲らなくても横かその横の中の人がじきに出るだろうと思った。しかしそんな様子はない。水を流す音が聞こえることを期待したが、紙を巻き取る音すらしない。個室に入っている人間が全員、息を潜めて誰かが出ることを期待しているようである。
立野は自分の中に正義感が湧き起ってくるのを感じた。今少年を救うことができるのは自分なのだ。自分がまだ微妙にスッキリしない便意を抱えているとしても、少年ほど緊急性が高いわけではないのだから、ここで急いで個室を譲ることはできるはずだ。
躊躇っているのは個室から出るところを必ず親子に見られること。便器を譲ることで確実に印象に残ってしまうことである。それにすぐさま少年がこの個室を使うのであればにおいも気になる。便座のぬくもりも気味悪く思わないだろうか。少年はぬくもりの主の顔を見ることになるのだ。
他二つの個室に引きこもっている人間の気持ちも分かる。この状況で個室を譲るのは、勇気が必要なのだ。
だからこそ私なのだ。私が勇気を出して立てば、少年だけでなく、他二つの個室の主も救うことになる。このあと顔を合わせることはないだろうが、個室の二人も私に感謝するだろう。
立野はそう考えながら紙を巻き取っていた。考えすぎていたようで、手に包帯を巻いているようになってしまった。少し恥ずかしく思いながら尻を拭き、急いでズボンを引き上げドアを開けた。
内股の少年と、少年の背中をさする若い男が目の前にいる。少年はもちろん、親も立野とは目を合わせず、個室に向かう。そう、それでよいのだ。この場合、顔を合わせないことこそがエチケットだ。
そこで立野は便器を流し忘れていることに気付く。
恐る恐る、かつ素早く振り返ると、まだ扉が閉まる直前で、内股で小さく足踏みをする少年が残念そうに便器の中をのぞいている背中が見える。立野は逃げるように自分のベッドに帰り、今度は後ろめたさを覆い隠すようにシーツをしっかり敷く。枕カバーもしっかりと取り付けてから掛布団に潜り天井の詩を読むと、フロントに文句を言いに行ったのが遠い昔のように感じる。
なにも頭が痛い私が慌てて子どもにトイレを譲ることはなかったのだと立野は、今更ながら他の2人のことを恨めしく思った。


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頭痛は一時期よりは和らいだものの、まだしつこく立野を苛んでいた。目頭を押さえながら、先ほどの洗面所での失態、トイレでの失態を思いだすともなく思いだし、散々な旅だと立野は思う。
こんなに恥ずかしいことばっかりで、私はこの先どうすれば良いのだろうか。横になっていればだいぶ楽にはなった。同時に眠気が襲ってくる。緊張状態が長く続いていたことが分かる。自分の家の、自分のベッドが恋しくなったが、もうしばらくは戻るつもりもない。戻らない理由も特にないが、しばらく自分を見つめようと決めたところなのだ。実際、多くの新しい自分や、新しい世界に触れることができている気がする。もちろん望ましいものばかりではないどころか、自分に対して頼りなく感じることの方が多いような気もするが、とにかくあれもこれも人生の肥しになっているという感覚がある。
立野はふと、目の前に小さい文字で書いてあるこの詩を書いたのは、先ほど洗面所で会った男の妻なのではないかと思えてきた。彼の妻はこの詩を書いてから亡くなったのかもしれない。そう考えると、あの男のことが何だかとても恐ろしく思えてきた。彼は妻の痕跡に今にも辿り着きそうではないか。彼の妻のハンカチを立野は持っている。彼の妻の詩を読んでいる。この二つのことが、眠りにつく寸前の彼には恐ろしく感じて仕方がなかった。もし私がこの部屋で、彼の妻の詩を読みながら、彼の妻のハンカチを持っていることを彼に知られたら、どんなことが起きるだろう。彼はもしかしたら妻の手がかりを探して旅をしているのではないか。私は今、それを隠しているという状況なのではないか。また立野は、彼の妻の詩に書き足してしまったこともなんとも取返しのつかないことをしてしまったという感覚に陥った。フロントの男の言う通り、元通りにしなければならない。しかし明日の朝外出して砂消しを買い戻ってくるまでに、彼の妻の詩を汚してしまったことを洗面所の彼に知られずに済むだろうか。
立野は洗面所で会った男の風貌を思いだしては背中をアリのように走る寒気を感じた。彼の伸びた汚い足の爪。口元の汚いヒゲ。溢れだす泡に、流しっぱなしの水。彼を見たときの不安が少し形を変えて、より生々しく立野を襲った。頭痛のせいでこのような被害妄想的な思考になっていることは分かっている。冷静に考えて、洗面所の彼が妻の残した詩を探しているなんて考えられないし、仮に探していたとしても立野になんの影響があるのか。
とにかく落ち着こうと立野は考えた。
今はまだそれほど遅い時間という訳ではないし、まず頭痛薬を買ってこよう。そしてもしドン・キホーテなんかが近くにあれば、砂消しを探して買って来よう。そうしなければとても落ち着いて寝られない。


8/9
立野はまたのそのそと棺を這い出た。カーテンを開けて、梯子をおりる。
振り返ると、洗面所の男がいた。
声を失った立野は、回らない頭を必死で回転させ、なんとかカーテンを閉める。まさか彼から詩は見えないだろうが、もしこのカプセルホテルのどこかに彼の妻の詩が隠れていると思っているのであれば、どこを見ているか分からない。そこまで考えて立野はハッとする。もし洗面所の男が妻の辞世の句を血眼で探しているのであれば、今の立野の行動は不自然極まりない。立野が何かを隠そうしたことは明らかで、実際に彼は詩を隠そうとした。
立野は思わず頭を抱えた。緊張が走ったせいか、頭が急激に痛んだ。こめかみが脈打つ、吐き気を催すような目の前の揺らぎを抑えようと、両の親指を使って目頭を押さえる。
「いかがなさいました?」と洗面所の男は言う。「体調が優れませんか?」
相変らず、見た目に似合わず紳士的な男である。
「もしかして、頭が痛いのですかな?」
「ええ、ええ、酷い頭痛持ちでして、これから頭痛薬を買ってこようかと……」
立野はこんなことを言いたいわけではなかった。これから自分がしばらく不在になるなんてこの男に知られれば、勝手にベッドに上がられて詩が見つかってしまう可能性があるし、詩を隠そうとしたことも分かってしまう。
「もしよろしければ私の使っている薬はいかがですか? 処方薬なので本当はよくありませんが、その状態で今から買いにでかけるよりはよろしいのではないでしょうか。医者も、それほど強くない、よく出す薬だと申しておりましたから、心配は不要と思いますな」
正直、ありがたい申し出だった。首筋が強張って、頭をまっすぐに上げることもできない。洗面所の男が手のひらに持っていたのは直径2センチはあるだろう大きく真っ青なカプセルであった。一瞬、見慣れない薬に怯んだが、こめかみを突き破ろうとするかのような痛みと、目の奥から湧き上がってくるめまいのような感覚が彼の思考を奪った。
カプセルを受け取ってすぐ口に入れ、ベッドスペースの脇に置いてあったペットボトルのお茶で飲み干す。目を細めながら洗面所の男にかろうじて礼を言い、ベッドに這い上がるとすぐに薬が効いたのか、頭の痛みが引いていく気配がした。
心地良い眠気とは裏腹に、彼の思考力が戻っていく。
なぜあの男はカプセルを持っていたのか。もう寝るだけの、素足に室内着のいで立ちで、薬を持ち歩いているのはおかしくないか。
あんな真っ青な薬があるだろうか。
本当に頭痛薬だったのだろうか。
そうだったら良い。そうじゃなくても、まさか死にはしないだろう。
仮にこのまま死んでも、別に思い残すこともない。あ、詩を消さなければ。まあ私の辞世の句ということで良いか。でも、やっぱり今日が最後というのはちょっとやだなあ。あんな薬飲まなきゃよかったなあ。
そうして立野は久しぶりに幸せな夢を見た。

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それから立野は何年もあのときのあの薬は何だったのだろうか? と考えることになり、洗面所の男の妻のハンカチを大事に持ち歩くことになる。

人との縁とはそういうものかもしれないとそのうち考えるようになる。

カプセル(完)

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