映画「君たちはどう生きるか」感想 〜ひと夏の夜の夢の如し〜
※ネタバレありの感想です。
1.宮崎駿監督の「晩年の仕事<レイト・ワーク>」
宮崎駿監督の最新作「君たちはどう生きるか」を見た。
私は、ジブリの良きファンとは言えないが、宮崎駿監督の作品は一通りは見ていて、一番好きなのは、鋭敏な感覚が研ぎ澄まされ過ぎている傑作「となりのトトロ」だが、自覚的に邪道なファンとして、最近の「崖の上のポニョ」や「風立ちぬ」が結構好きだ。最近の宮崎駿監督作品には、黒澤明の後期の作品(「夢」「乱」「まあだだよ」など)を見ているような面白さがあり(褒めてるのか、わからないが)、大江健三郎の言うところの「晩年の仕事<レイト・ワーク>」をまさに体現した作品だと思う。大江健三郎はこの「晩年の仕事」の特徴として、作家はその晩年において自身の死と自身の過去の仕事の振り返りを作品内で行う、ということを書いていたと思うが、まさに宮崎駿監督は迫り来る「死」と、自身の仕事の「振り返り」をそのアニメの中で行っている稀有な例かと思う。その意味でも、今回の「君たちはどう生きるか」も、既存の宮崎駿ファンをぶっちぎって突き放すほどの、真の「晩年の仕事」だと言えるだろう。
2.「8 1/2」「火の鳥」「夢幻三剣士」「王と鳥」
まず見ていて、気になったことや、自分なりに感じたこと、理解したことだけを断片的に記載してみた。
★フェデリコ・フェリーニ監督の「8 1/2」(はっかにぶんのいち)の冒頭の夢のシーンに、足に縄がついたまま空に浮かび、下界の海を見下ろす(知る人ぞ知る有名な)カットがあるが、ほぼ同じカットが、中盤の地獄篇の最初あたりにあった。
後半の「13個の悪意無き石」が宮崎駿の13本の作品を意味しているというのをネットで見かけたが、フェリーニの「8 1/2」が自身の監督作 8本と半分(短編)を意味するのを考えれば、それもさもありなんという気がする。
★はじめて庭の不思議な塔に入ったとき、入り口の暗い穴を進むと、中の出口が半分以上ふさがれていて、出れそうで出れない感じで体がはさまるシーンがあったが、これは「出産」を思い起こさせた。頭や体が骨盤にはまって、難産でなかなか出てこれない子供ようだ。
あの塔も卵型で、話の経緯からしても、あの塔自体が女体であり卵であり、入口の暗い空間は子宮だと考えることもできそうだ。フロイト心理学っぽい言い方だが。
★塔内でアオサギが見せた、ソファに置かれた作り物の母が、「ノクターナル・アニマルズ」の物語内小説で出てくる妻の死体みたいだった。体の向きとか。あのへんはデヴィッド・リンチ感もあった。
★アオサギの口の中から時折姿を見せるアオサギ”本体”が、手塚治虫の漫画によく出てくる、鼻の大きなおじさん(「火の鳥」の猿田一族や、「ブラック・ジャック」の本間先生、あるいは「鉄腕アトム」のお茶の水博士)に似ていた。鼻の質感のぼつぼつした気持ち悪さが、「火の鳥」の猿田によく似ている。
★「アオサギ」のキャラクターは、「ドラえもん のび太と夢幻三剣士」の「トリホー」とも非常によく似ている。のび太らを夢幻の世界へと誘い込む役割であり、最後まで敵なのか味方なのかもわからない、不思議な役どころだ。今回の「君たちはどう生きるか」と「夢幻三剣士」は実はテーマ性においても共通するところがあると感じる。
★宮崎駿監督も影響を公言して憚らない、フランスのアニメ映画「王と鳥」は、間違いなく「君たちはどう生きるか」のアオサギやインコ大王の造形に影響を与えていると思う。
★アオサギの狂言回し的キャラクター設定は、シェイクスピアの「真夏の夜の夢」の妖精パックをも思わせる。
★私でも知っている有名な「死の島」の絵画そっくりの光景=「地獄」が出てきた。そこにたどりつくと門がある。ロダンの地獄の門ではないが、「我を学ぶものは死す」と書かれていた。この意味はわからない。
3.内なる戦争体験 ~ワラワラ、ペリカン~
「君たちはどう生きるか」のラストシーンは、異様にあっけない。
終戦を迎え、疎開が終わったことのみを伝えるながら、屋敷の部屋で主人公が本などを鞄にしまうカットで終わるという、唐突すぎる非常に短い幕切れだった。
この「終戦」という幕切れによって、映画内の夢幻シーン全体が、この主人公にとっての疎開してから終戦までの、内なる戦争体験の表現だったのだと気づかされた。あの夢幻の「地獄篇」のなかに、彼という個人にとっての「戦争体験」がつまっているということなのだろう。
思えば、地獄の底の海で繰り広げられている「生命」の交換は、まさに「戦争」の表現だったと感じる。
「ワラワラ」という白くて無垢なかわいい魂が、人間に生まれるべく、DNAのごとき螺旋を描きながら空を浮上していく。キリコはまるで精霊流しの逆バージョンのように、ワラワラ放流をワイフワークとして支えている。ワラワラは「これから生まれる生命」であり「生まれるはずだった生命」であり「伝えられるべきDNA」なのだろう。螺旋上に浮遊するワラワラたちを、ペリカンが戦闘機のように連隊を組んで襲いかかり、縦横無尽に食べ尽くす。生まれるはずの命を、無慈悲にも食べてしまうのだ。そこに「ヒミ」=「母
」が船から火柱を上げて、まるで艦砲射撃のようにペリカンたちを今度は火に焼きつくす。火で負傷したペリカンたちは落下し、死んでいく。そこは、まさに地獄だ。
私には、戦闘機のように連隊を組む「ペリカン」は、出征していった兵士たちのように見えた。咀嚼しきれない想いを抱えたまま飛んで散っていったのを「ペリカン」と比喩しているのだろうか。彼らは敵の砲撃にも倒れるが、生命を奪われた母たちの怒りの業火にも焼かれる。咀嚼できない想いを抱えたまま、奪いたくない命と生まれるはずだった命を奪い、そして恨みの業火に焼かれながら死んでいく…それが彼らペリカン=兵隊の悲しき運命なのである。。。
ラストでペリカンたちが生き生きと塔から飛び出したときに、主人公・真人
が「君たち生きていたのか」と言っていたのが印象的だった。
シェイクスピアの「真夏の夜の夢」で妖精パックがこのような口上を述べる。これがまさに「君たちはどう生きるか」のためのような言葉なので、最後に記しておく。アオサギが最後にこれぐらい言ってくれても良かった気がする。