見出し画像

罪悪感というもの

個人的に、

ペン習字で美しい日記を綴る人の投稿をみることが好きなのだが、

先日、

◆「罪悪感」を忘れてはいけない。無意識に誰かを傷つけているという罪悪感があれば、すべてを許せることができるし、すべてに許されている。

というようなことが書いてあった。

その人がどこの誰かは、知らない。

親が韓国人とかいう記述は見たことがあったかしら。

宗教感などもあるかもしれないが、わからない。

その方の人生背景や環境背景は、一切わからない。

しかし、

この、

罪悪感というものは、ものすごく大変な感情でもある。

取り扱いが、非常にやっかいなのだ。

「罪悪感」

例えるならば、副次的や、副産物として存在してしまうエネルギーのようなものだろうか。ここでは、あえて言わないが、人類が直面している、日本に乱立している施設のエネルギー環境問題と似たような気もする。

人間が生きていると、その過程はとばすが、罪悪感が副産物として産まれる。

それを忘れてはいけない。

と、言いたいのだろう。

では、

本当にそうだろうか??

人間は、生きていると、

本当に、

副産物として、

なにかを

産み出しているのだろうか?

これは

そもそも論である。

いったい、

どこから、産まれた、この「人間=副産物=罪悪感」なのか?

我々は、ここを課題にしていかねば、ならない。

例えば、

産まれたばかりの知恵のない赤ん坊は、

この世に誕生して、「罪悪感」を産んでいるのか?

そして、大切なのは、赤ん坊がこの「罪悪感」を感じているのか?

ということ。

赤ん坊は、「罪悪感」という概念すら、持ち合わせていないだろう。

もしかしたら、前世の記憶を保持しつつ、赤ん坊なのに、まだ喋れないうちから(産まれてきてごめんなさい…)とか、まぁ稀にあるかもしれない。可能性というのは、常にゼロだとは断言できないのだから、確率的に言ったら、無いというのは、ありえない。

しかし、赤ん坊に「罪悪感」という概念が存在していないと仮定するならば、

いったい、我々は、いつ、どこで、それを会得しているのか……??

他者に、

「それはいけない。お前が悪い。悪いと感じろ。」

これが、すべてのはじまりである。

もちろん、営みの中で、必要最低限の「ルール」でもある。

「悪いと感じる」ことが、できなければ、営みというものは、破綻を迎えるかもしれない。

しかし、

しかし、本当にそうだろうか?

人類以外の生命体はどうであろうか?

「悪いと感じながら」、果たして、その生態系を保っているのだろうか?

おそらく、

「罪悪感」にも、レベルがある。濃度というか。
グラデーションのようなものだろう。

ある種の「濃さ」の罪悪感と呼ばれる意識なり感情は、秩序としては、必須である。

が、

ある種の「濃さ」が一定を越えたとき、

個として、人間の内部は、崩壊を始める。

内部崩壊がはじまると、外部も浸食されはじめる。

外部が浸食された様を、他が知覚してはじめて、

「君は病気だ!」と、言われたり。

「私は、病気かもしれない」と、営みに悲鳴をあげる。

では、

この「濃度」。

どうしていこうか?

だれも、「罪悪感の濃度」というものは、まだ、視覚化していない。

つまり、これは、「既知外」のはなしをしている。

「罪悪感の濃度の視覚化」、これについて、万人がわかるようにしなければ、

おそらく、人類の進化というものは、ありえないのかもしれない。

(そして、こんなことすら幻想だから、どうだっていいのかもしれないよ。読んでくれて、生きていてくれて、ありがとう!)

いつもありがとうございます(о´∀`о)💕これからもよろしくお願いします🌈✨🙏