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殉教の地・犠牲の血~長崎聖地巡礼記(後編)

残り95

憎しみからは何も生まれません。愛だけが創造するのです。
        --聖マキシミリアノ・マリア・コルベ

■後編-はじめに

このノンフィクション作品は長文にわたるため、前編・後編に分かれています。
こちらは後編のため、まだ前編を読んでいない方は、前編から読んでいただくことをお勧めします。

2008年8月8日から12日日まで5日間にわたって長崎を聖地巡礼したものであり、後編では下記2つのマップで示す聖地を廻った。

後編-全体

【図】後編で周った聖地(1) 全体

後編-長崎市内

【図】後編で周った聖地(2) 長崎市内

【3日目:2008/08/10】

■野母崎へ

2008年8月10日(日)
7:40頃にホテルを出る。
今日は遠出をして、長崎半島の西端の野母崎(のもざき)へ行く。
野母崎の観音寺と熊野神社へ行き、その後に長崎市内へ戻ってカトリックの教会などを廻る予定だ。
長崎市内から20キロちょっとの道のりで、バスで70分ほどかかる。

路面電車に乗り、浜口町から茂里町へ行く。
茂里町電停の近くに、長崎バスのバス停があった。
バスの時刻は、東京にいる時にPDFの時刻表をダウンロードして調べておいた。

予定していた8:00発のバスに、なんとか間に合った。
運転手に、観音寺へ行くかと聞くと、うなづく。
そういう名前のバス停があるのかと聞くと、また無言でうなづく。
バスは長崎市街地を出て、長崎半島の西の海沿いをどこまでも走る。

■観音寺

1時間10分ほどで、最初の目的地がある観音寺前で下車。
バスを降りてはみたが、観音寺がどこだかわからない。
バス停の前の小山が墓地になっている。
そこを上ったところかと思い、上ってみる。
だが、そこには墓地しかない。

墓掃除をしていたおばさんに聞くと、バス停の反対側を指差して、その道をまっすぐ行けばあるという。
しまった。方向を間違えていた。

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【写真】観音寺の門前(百瀬撮影)

バス通りから入った道をまっすぐ3分ほど歩くと、観音寺の正門があった。
寛政10年(1798)に建てられたという円形のアーチ状の石門は、唐の様式を模したものと考えられている。
前日に唐人屋敷跡の観音堂で見た石門に似ている。

観音寺は曹洞宗の寺で、正式には圓通山・観音禅寺という。
御本尊は、聖観世音菩薩
約1300年前の奈良時代、和銅2年(709)に、僧・行基が真言宗の寺として建立したといわれる。
現在は曹洞宗の寺となっている。

ちなみに、私の父方の先祖は父の代まで長野県の諏訪にいて、地蔵寺という曹洞宗の寺の檀家だった。
また、私が師と仰いだ霊覚者である本山博先生の霊視によると、私は前世で百瀬家の次男坊で、禅の修行をしていたようだという。

そういえば、私は小学生の頃に、親が浅草の観音様に連れて行ってあげると言われて楽しみにしていたが、それが何かの事情で中止になった時には、私にしては非常に珍しく、駄々をこねたという。
地蔵寺には観世音菩薩が祀られているが、前世からの記憶があったのだろうか。

行基は、天智天皇7年(668年)から天平21年(749年)に生きた人だ。
行基が建立した寺院というのは全国に多数あり、長崎県下だけでも行基ゆかりの寺は9寺ある。
本当にこんなところまで来て寺を建てたのかという、一抹の疑問が残る。

江戸時代に観音信仰が盛んとなり、この寺も観音詣でで賑わった。
唐人屋敷近くの十人町から続く「みさき道(御崎道)」に沿って、観音参りをする人が多かった。

この寺の十一面千手千眼観音立像は、国指定有形文化財となっている。
正面にある観音堂は、天明年間に建てられたものという。
観音堂の天井には、長崎の絵師川原慶賀や石崎融思らが描いた150枚の花の絵があり、県指定有形文化財に指定されている。
千手観音と天井絵は、毎月18日と8月17日に見ることができる。

山門には、大きな仁王像が立っている。
正面にある木造の観音堂に入る。
堂内は、写真撮影禁止となっている。

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【写真】観音寺の観音堂(百瀬撮影)

十一面千手千眼観音立像は、開帳されていない。
地震沈静、原爆の犠牲者慰霊、民族のカルマ解消の祈りをする。
自動販売機式のおみくじを引くと、2番の小吉だった。

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【写真】観音寺の十一面千手千眼観音立像

観音堂の外に出る。
境内には、お地蔵様とか天部の仏様などの像が集まっているところがある。
どういう趣旨なのかよくわからないが、壮観だ。

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【写真】観音寺の仏像群(百瀬撮影)

■熊野神社

バス停に戻り、長崎行きバスに乗り、野母で降りる。
バスの待合所で帰りのバスの時刻を見ようとすると、座っていた二人のオジサンが「どこまで?」と聞いてくる。
「熊野神社へ行きたいんです」
「……」
「郵便局の近くにあると聞いたんですが…」
「ああ、神社ね」
地元の人も、熊野神社という社名を知らないで、ただ神社として覚えているのだろうか。

おじさんたちは立ち上がって、狭い路地を指し示す。
「ここを行けば、右手に見えるから」
礼を行って、言われた狭い路地を入って行く。
だが、路地は迷路のように入り組んでいて、迷ってしまった。
あとで知ったことだが、路地に平行してもうちょっと広い道があって、わざわざその狭い路地を教えてくれなくたって良かったのにと思う。

その路地を歩いていて、前方を小さなトカゲが横切った。
私が聖地巡礼すると、頻繁に生き物が現れる。
トカゲ、ヘビ、カニ、トンボなど。
特に九州の神社では、よく爬虫類が現れる。
それらは、何かを知らせるために現れる神使いではないかと思っている。

さんざん迷った挙句に、やっと広い道に出た。
昨日ホテルでWebの地図で調べて、紙に書き写しておいたのが役に立った。
その地図に描いた親和銀行が目の前にあった。

親和銀行の左側を通る道を、まっすぐ歩いて行く。
向こうからおばさんが歩いてきたので、確かめてみる。
熊野神社へ行きたいというと、この道をまっすぐ行けば良いという。
「でも、誰もいませんよ」
「だいじょうぶです。お参りするだけですから」

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【写真】熊野神社の鳥居(百瀬撮影)

おばさんに教わったとおりに、階段を上っていく。
すると、鳥居が見えた。
鳥居をくぐって更に登っていくと、丘の上に社殿があった。
小さいが、再建されたばかりのようで、コンクリート造りだ。

鈴はあるが、賽銭箱がなく、普通の神社の外観とは異なっている。
どういうことだろうと思って、恐る恐るガラス戸を開けてみる。
すると、中は座敷で、座ってお祈りできるようになっていた。

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【写真】熊野神社の拝殿(百瀬撮影)

靴を脱いで、中に入る。
壁には、歴代天皇の写真などが貼られている。
祭壇の脇には、皇室の雑誌や本が置かれている。
そこにあった『長崎県の神社を訪ねて 本土編』(村田秀晴、出島文庫、2,200円)という本を手にとって見ると、この熊野神社が紹介されている。

御祭神は、伊邪那美命(イザナミノミコト)、速玉男命(ハヤタマオノミコト)、事解男尊(コトワカヲノミコト)、事代主尊(コトシロヌシノミコト)、須佐男尊(スサノヲノミコト)の5柱の神。

かつて36代孝徳天皇の御代(596~654年)に、紀伊の熊野の猟師夫婦が暴風で野母に漂着、無事を感謝して氏神の熊野明神を居宅の近くの山に祠堂を建てたのがはじまりという。
何気に本を手にとって見たのが幸いして、ここの御祭神がわかった。

祭壇前に正座し、地震沈静、民族のカルマ解消、原爆の犠牲者慰霊の祈りをする。
その後、もう一度先ほどの本を見てみる。

かつては7月17日を浦祭日としていたが、和銅3年(710年)からは9月17日を例祭日とした。
現在は8月16日に「浦祭り」を行っているとある。
その祭りは、長崎県無形民俗文化財に指定されている。

8月16日ということは、6日後ではないか。
だが、あとで調べたところ、現在では8月13日前後に行われているらしい。
私の聖地巡礼では、巡礼した神社の重要な祭礼の直前にお参りさせられることが非常に多い。
もう一度祭壇の前に座り、祈ることにする。
浦祭りの際には、けが人など出ずにつつがなく祭りが行われますように、と。
これも今回の野母崎巡礼の目的の一つだったのか。

この神社は良く拝まれていて、地域の住民から大切にされているという印象を受ける。
このような神社があることを、嬉しく思う。
遠路はるばる来て良かった。

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【写真】熊野神社境内から野母港を見下ろす(百瀬撮影)

境内から、港や西の海が見える。
東京からはるか遠くに来たものだという実感が沸いてくる。
日本列島の西の果てで祈る目的は、何なのだろうか。
やはり地震災害の祈りのためか。

後で知ったが、mixiの長崎県出身のあるマイミクさんが、ちょうど1週間前に長崎に来て、観音寺と熊野神社にお参りしたという。
本当に「奇しくも…」という感がある。
その人は、南島原は、まだ行けそうもないと言っていた。
つまり、霊的にキツイ所ということだ。
自分で祈る場所をよくわかっているのかもしれない。

■カトリック本原教会

野母のバス停に戻り、長崎行きバスに乗る。
バスは海沿いの道を走り続け、長崎駅前で降りる。
次の目的地は、カトリック本原教会だ。
長崎駅からは、金比羅山を東の方から回っていった反対側あたりにある。
駅前から県営バスの循環バスに乗る。

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