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殉教の地・犠牲の血~長崎聖地巡礼記(前編)

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
         --イエス (ヨハネによる福音書15:13)

【はじめに】

このノンフィクション作品は、私がSE(システムエンジニア)として派遣で働いていた頃に、夏休みを取って長崎へ聖地巡礼した時の記録だ。

私は、自分を「神さまの操り人形」だと思っている。
聖地巡礼を行う際には、かならずペンデュラムを地図上にかざして、マップダウジングの手法で、うしろについている(と言われる)存在に、どこへ行くべきかと「お伺い」を立てる。

この時には、2008年8月8日から5日間で、長崎へ聖地巡礼するようにとの指示が下りた。
すると、以下に書くように、なるほど確かにこの時期に長崎へ行くのは何重もの重要な意味があることに気づいた。
やはり振り子がデタラメに振れているわけではないのだと納得したものだ。

恥ずかしい話だが、2020年5月にこの作品を改訂していて、涙が滲んできたことが何度もあった。
自分にとっては思い入れが大きな作品だが、かなり膨大な量となったので、前後編に分割することにした。

前編-01

【図】前編で周った聖地

長崎には、様々な宗教の、すばらしい聖地が多い。
クリスチャンでも、そうでない人でも、この作品を読んで何か「大いなるもの」について想いを馳せていただければ、筆者としてそれ以上の喜びは無い。

■この作品で特に訴えたいこと

この作品で、特に強く世に訴えたいと思うことを、以下にまとめる。

【前編】
・処刑前にも笑みを浮かべた二十六聖人たちの信仰心
・死んだ赤子を背負う「焼き場に立つ少年」
・戦争と原爆の惨さ・愚かさ
・長崎に残る海の女神・媽祖信仰
・弾圧された隠れキリシタン「発見」の奇跡
・半分だけの鳥居の意味を忘れてはならない
・「万灯流し」に見る平和への切望感

【後編】
・なぜか禅寺と観音様に導かれる不思議。
・日本は被害者の前に「加害者」だった。
・島原に流れた殉教の血・戦いの血
・民衆を人間扱いしなかった藩主
・「あそこだけは行くな」と止められた南島原。
・「からゆきさん」たちの短い生涯
・アウシュビッツで亡くなった聖コルベ神父の「身代わりの愛」
・九州にもある「ルルド」にも奇跡が起きる。
・「己の如く人を愛せよ」を実践して亡くなった永井隆医師

【1日目:2008/08/08】

■発端

2008年8月8日(金)から8月12日(火)までの5日間、夏休みを取って長崎聖地巡礼の旅に出た。
夏休みに長崎へ行くようにとの、ダウジングによる「うしろの存在」からの指示は、その年の6月15日に初めて出た。

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考えてみると、今回「なぜ長崎か?」ということについては、複合的な要因があるように思う。
この巡礼では、だいたい次のような目的があるのではないか。

*原爆犠牲者の慰霊(8月9日を中心に)
*2008年四川省大地震犠牲者の慰霊(8月12日で3ヶ月目)
*2008年北京オリンピックの安全無事(8月8日に開会)
*島原の乱の犠牲者供養
*殉教したキリシタンの供養
*地震災害沈静の祈り
*土地のカルマ・民族のカルマの解消

なぜ中国かというと、長崎は日本列島の西の果てにあり、中国とは目と鼻の先だからだろうか。
2008年5月12日、中国南西部の四川省を震源とするマグニチュード8.0の地震が発生し、7万人近くの犠牲者があった。
この地震の震源は、日本でいうと鹿児島県の大隈半島の南端あたりと緯度が同じくなり、長崎とも近い。

■巡礼地の決定

前述のように、いつものようにマップダウジングの手法によって、地図帳の上で水晶ペンデュラムをかざす。
そして、振り子が振れるところを巡礼地とする。
日を置いて数回のダウジングを行なう間に、当初の予定から若干変更があったが、結果的に以下の聖地を巡ることになった。
前日にホテルでダウジングを行い、最終的に決まった場所もある。

浦上天主堂
鎮西大社諏訪神社
日本二十六聖人殉教地
原爆落下中心地
平和公園
崇福寺(媽祖堂)
媽祖堂(唐人屋敷跡)
観音堂(唐人屋敷跡)
大浦天主堂
大浦諏訪神社
山王神社
弁財神社(曙町)
観音禅寺(野母崎)
熊野神社(野母崎)
カトリック本原教会(マリアの山)
長崎原爆資料館
島原城(島原市)
江東寺(島原市)
祐徳院稲荷神社(島原市)
弁財天堂(島原市)
福済寺(長崎観音)
聖福寺
カトリック本河内教会(ルルド、聖コルベ記念館)
八幡神社
長崎原爆死没者追悼平和祈念館

今回は、非常にバラエティー豊かな(?)、有意義な巡礼になりそうだ。
ふつう私の国内の聖地巡礼では、巡礼先として神社が中心となり、中には仏教寺院も含まれるが、キリスト教の教会へ行くことはあまり多くはない。
だが今回は、カトリック関係の聖地が5箇所も含まれているという異例の巡礼となった。

長崎は歴史的に、キリシタン殉教、島原の乱、そして原子爆弾と、多くの血が流されてきた土地だ。
非常に深い土地のカルマもあるだろう。
「かなりの覚悟が必要かもしれない」と思ったものだった。

■長崎へ

2008年8月8日(金)
5:00起床。
昨夜はなかなか眠りにつけずに、2時間も寝ていない。
5:30頃に花小金井駅から西武新宿線に乗り、7:30頃に羽田空港に着く。
京浜急行の改札を出たところに、ANAのチェックインカウンターがある。

今回はじめて、おさいふケータイを使ったスキップサービスを利用してみた。
チケット購入と座席指定を、あらかじめWebで済ませておけば、チェックインから搭乗まで、完全チケットレスでできてしまうというもの。
ドコモの場合、あらかじめiアプリをダウンロードして、設定を済ませて登録しておく必要がある。

ディスプレイの前でケータイをかざすと、ポロリンと音がして、ディスプレイに自分の名前などが表示された。
確認ボタンを押して、これでおしまい。
画面には、搭乗口107番へ進むようにとの表示が出ただけ。
あまりにも呆気ない。

7:40頃に、107番ゲートに着く。
出発は8:20で、まだ40分近くある。
スキップサービスならば、出発の30分ぐらい前に羽田空港駅に着けば、なんとか間に合うだろう。
搭乗が始まり、チケットを挿入するところでケータイをかざすと、搭乗券と書かれた薄っぺらい紙が出てきた。
お盆で空港の滑走路が渋滞していてバスの到着が遅れ、出発は20分ぐらい遅れた。

■長崎市内

ANA661便は、定刻より少し遅れて、長崎空港に到着する。
エアポートライナーという長崎市内までのバスのチケットを買う。
片道800円だが、2枚綴りの回数券を買うと1,200円になる。
長崎新地バスターミナル経由の長崎駅行きに乗り込む。
長崎駅行きでもいくつかあって、これが一番早く着くと、係りの人に教えてもらった。

窓の外に、長崎の山並みが見えてくる。
九州はこれで3度目。長崎県は初体験だ。
いつも思うのは、九州では低い山々が連なっていて「イスラエルと似ているな」と感じる。
イスラエルへは、仕事の出張で4回も訪れたので、自分にとっては見慣れた光景だった。
もし仮に古代イスラエルの民が九州に上陸していたら、そこが故郷と似た地形であるために、ここに住みたいと思うかもしれない。

終点の長崎駅前に到着。
JR駅前のコインロッカーにショルダーバッグを預ける。
改札近くにある観光案内所で、路面電車の1日乗車券を購入。
長崎電気軌道の路面電車は、どこまで乗っても100円だが、1日6回以上利用する場合は、500円の1日乗車券を購入した方が得になる。

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長崎駅前の電停から路面電車に乗り込む。
路面電車は、道路の中央を複線で走っていて、線路上は車が通行できない。
交通渋滞の元だろうが、長崎市内では欠かせない交通機関だろう。
これに乗れば、市内の主要な場所はだいたい行けてしまう。

■キリシタンの弾圧

松山町電停で降りる。
ここは、1945年8月9日に長崎に玄白が投下された際に、爆心地から100メートルほどのところだ。
原爆落下中心地公園と平和公園の入口がすぐ近くにある。
だが、今日の最初の目的地は浦上天主堂だ。
2つの公園の間を通る道路を、東へ700mほど歩いたところにある。
東京で買っておいた『まっぷるマガジン長崎』の地図を見ながら歩き出す。

浦上は、戦国時代の末ごろからキリシタンの村だった。
キリシタン(切支丹)とは元々、古いポルトガル語のキリスト教徒を意味する「クリスタン」(Christan)から来ている。

無限の富を有する黄金の島と信じられていたジパングは、ヨーロッパの憧れの的だった。
だが、その正確な位置は、海外では誰にも知られていなかった。
天文年間(1532~1554年)の半ば頃に、ポルトガル人たちが日本島を「発見」するまでは。

それから数年後の1549年8月15日、イエズス会のフランシスコ・ザビエルらが鹿児島に上陸した。
その日はちょうど聖母マリア被昇天の祭日であったため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた。

ちなみに、カトリック中央協議会のWebサイトによれば、聖母マリアに捧げられたこの国では、歴史的な出来事が聖母マリアの祝日に重なることが多いという。
たとえば第2次世界大戦が終戦したのは1945年8月15日の被昇天祭日だった。
またサンフランシスコ講和条約が調印されたのは、1951年9月8日の聖母マリアの誕生日のことだった。

その後の長崎開港を経て、長崎はイエズス会の布教の中心地となっていった。
数十年の布教活動により、キリシタンの数は急増していった。

だが、天正15年6月19日(1587年7月24日)、時の関白豊臣秀吉は、突然に「伴天連(バテレン)追放令」を出した。
バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreに由来する。
キリスト教聖職者を意味する呼び名だった。

この追放令は、ポルトガルの黒船の来航は奨励するが、キリスト教の布教は禁止するというものだった。
体制の側からすると、キリスト教を禁制とするには、他にも理由があった。
その一つは、南蛮人たちによる奴隷売買だ。
この頃、多くの日本人、特に若い女性たちが、奴隷として人身売買されていった。

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