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朗読の言霊。

私がTwitterを始めたきっかけとなったのは、YouTubeの、とある怪奇朗読なんですよ。
(あれ?ここでチャンネル名書いていいのかな?)

ちなみに私は、その方の朗読をもう何年も拝聴させて頂いているのです。とにかく心地が良くて。仕事以外の時間はずっと聴いてきました。それはもう、車を運転する時も、家事をする時も寝る時も。怪奇朗読ともあって恐ろしいはずなのに、やはり聴いていて心地が良い。そのチャンネルのリスナーさんもコアなファンの方が多いようです。

で、他のチャンネルの朗読も聴いてみた。
皆さん、良いお声でらっしゃって、そして面白いなーと思いながらも、やはり好きなお声の方の元へ戻ってゆく。これはもう恋に近いなーと思いましたね。

そこで、何故だろうと私なりに考えてみました。

ここで話は変わりますが、
先日、仕事の会議中、詩の朗読を聞く羽目になったというか、業務上、仕方なくというかで、それはもう私の中では我慢大会でしたね。作家さんの詩ですから、内容は本当に素晴らしいんですよ。

だけど、読み手によってもこんなにも変わってしまうものかと、内心辟易としながら最後まで耐えました。全くもって作家さんへの冒涜だろうと怒りさえ覚えてしまう始末。

刻まれているものが浅いんですよ。
音読させて頂くのもおこがましい。100年早えー。

ちなみにその詩を読み上げた何人かは、皆、若かった。
朗読としては決して下手ではないんです。だけど、やっぱり浅い。経験値というか、骨子となる精神の刻まれているものが断然薄っぺらいんですよ。だから、聞き手の方には何も伝わらない。(これは年齢関係ない)せっかくの詩を台無しにしやがって。その詩を書いた作家さんの精神が全く伝わってこない!(と、いつまでも続く文句)

あ、でも、今、思うと、逆に聞いて良かったかも。
それが分かったもんな。と前向きに考える。

で、ここで話しを戻します。
先に申し上げた朗読の方は、この事と真逆なんですよね。

どのような物語でも、全てが素晴らしく感じてしまうのです。怪談朗読をずっとされて来られて、お話された内容も千差万別。作品の中には本当に素晴らしいものもあれば、逆に「えーっ(´・д・`)」思うものもありますが、その方が朗読されると、別物になるんです。

今まで、歩まれてこられた事が、朗読の言葉ひとつひとつにまぶされているというか。優しいお声でありながらも、物語の描写を全て表現されている。だからでしょうか、初見読みでありながらも、聴く側としては不思議と映像が浮かぶんですよ。

元となる精神がしっかりと刻まれているのが言霊だと思います。

それを優しく表現されるあのお声。
これからも、あの方の朗読を聴いてたいです。
(↑告白みたいな言い回しで怖い)

ちなみに、私は音読が苦手です。
(↑朗読なんて言ったら、おこがましい位に) 
伝える意志だけは強いんですけど、ね。
だから、下手すると凶器にもなりかねないんです。笑



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