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母と2人暮らしのはじまり

2021年12月23日に渋谷から実家の宇都宮へ引っ越しして一か月近く経った。以前、2020年に緊急事態宣言を受けて2か月自粛した時や有休消化で3週間くらい家にいた時よりも今回は一日が終わるのが早い。

それは母と暮らしているから。

一人暮らし二十年にピリオドを打ち、今がある。

母は、脊髄腫瘍の手術をして3か月入院していた。首の骨の上から六番目の骨のあたりから切開し腫瘍を取り除いた。3年近く足の痛みがあって歩けなかった理由が腫瘍のせいだった。腫瘍が首の神経を圧迫し、足や尿の作用にも影響していた。近くのいつも母がお世話になっていた個人病院の先生の判断で救急車をその場で呼んでいただき即入院できた。

2週間後に腫瘍が見つかり手術となった。バリカンで髪を耳下あたりから襟足まで剃り、わかめちゃんカットのようだったが、年老いた母がすると可愛らしさはなく心配な気持ちになったのを覚えている。内視鏡での手術であったが、5時間の手術は無事成功した。

コロナで面会や手術の立ち会いはできなかったが、わたしは東京で仕事をしていたので “東京=コロナの感染者が多い” という認識が栃木の病院にはあるようで、病院へ行くたびにPCR検査を受けて陰性か確認する経緯を3回経験し、あまり病院へ行きたくない気持ちになっていた。

そうゆう流れから宇都宮へ引っ越しすることを決断した。この先、母の様子がわからないまま、私が離れた土地で過ごして行くことに違和感を感じたので。

でも、この20年間離れて暮らす意味がわたしにはあったと一緒に暮らしてみて実感することとなる。

わたしがはじめて家を出たのは24歳の6月あたりだったと思う。3年間、宇都宮の保育園で働いた。あまりにも月給が安くて(今思うと、わたしもちゃんと就活してなかったことを思い出す。就活時期の3月になって、電話帳のあいうえお順から電話して面接受けるという就活だったので…。)

お給料が安くて、奨学金とバイト掛け持ちした方がいいかもという気持ちで辞めて、その時好きだった写真の仕事がしたくてスピード写真の店舗で働いていた時だった。

母と喧嘩して、一緒に暮らして喧嘩することがしんどくなってしまいその時突然、レオパレスへ引っ越しした。家具付きだったから生活に問題なかった。あの時から行動力がわたしにはあった。

2年後、同棲してた人とお別れすることになって落ち込み、実家へ帰りたいと母に相談した時があったが断られた。その時は「ライオンの父みたいだな、おかあさん…」って感じてほんと悲しかった。でも今思うとやっぱり、一緒に住んでたら喧嘩の繰り返しだったと思う。

実際、20年経った今もそうだから。でも、わたしが変わった。極力自分の気持ちをぶつけることをやめた。深い心の話し合いが出来ないことがわかった。

母は今までの人生で、自分の想いを発することをしてこなかったから。だからいつもため息や俯く姿で自己防衛してる。これは20年前からずっと変わってない。わたしと弟はその姿を否定して変わって欲しいとお願いしてきた。

コーチングの研修を受けた時に響いた言葉があった。

ネガティブな人を他人が変えることはできない。本人が本当に変わりたいと思った時に初めて変化が起こる。

コーチングで導いてあげることはできると学んだので、それが少し私には身についているのかもしれません。


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