終わる世界のその果てに

 ああ、あの空は私の心か。

 星一つ見せやしない、重苦しい空を見上げながら、そんなことを考えた。考えてすぐ、我ながら思春期男子のようだと恥ずかしくなる。顔が熱い。アルコールのせいだと言い聞かせるように、グラスの中身を呷り、空を見上げた。そうだ、全部アルコールのせいだ。思春期男子の思想に陥るのも、顔が熱いのも、筆が進まないのも。

「そんな恰好をして、体が痛くはならないのですか」

 一人きりだった部屋の隅から、文句が飛んできた。椅子に座ったまま、背をそらすような形で上半身を伸ばし、肩から上を窓枠の外に放り出す形で外を眺めていた私は、首をゆっくりと傾け、声のするほうを見る。あ、ちょっと嫌な感覚がした。首の、横の方。ピリッとした。
「あ、えーと、駄目かもしれない」
「言わんこっちゃないです」
 声の主は低いヒールをコツコツと鳴らしながら、俺に近づいた。視界を遮る、少女の顔。つりあがり気味の大きな目にすっとした鼻筋、薄い唇は不機嫌そうに閉じられている。整った顔立ちを飾り付ける額縁のように、黒髪が肩までまっすぐ下りている。まるで、絹糸のカーテンだ。これが描けたらどれだけよいだろうか。触れようと伸ばしたその手を、彼女は強く叩き落とした。
「真っ白のままじゃないですか」
 手を擦りながら、体を起こすと、彼女は立てかけられたキャンバスを見て呆れたと言わんばかりに声を上げた。
「ははは、筆が進まなくてね」
「笑い事じゃないです」
 床に置いた酒瓶を拾う彼女の姿を目で追いながら、苦笑いを浮かべることしかできなかった。ぐうの音も出ません。これは。
「いつ星が降るかもわからないというのに」

 星。彼女の発したその単語は、暗くどろどろとした憎しみを帯びていた。

 二十年前、隕石の衝突によって、この世界は崩壊した。大気圏を突破し無数の欠片となったそれは、地上に降り注ぎ、街を、文明を、破壊した。それはもう、再生ができないほどに。人々のほとんどはこの星を捨てて空の向こうへと旅立った。捨てきれなかった人間と、逃げられなかった人間を置き去りにして。その後も、幾度となく石の礫は空から落ち、星を抉った。空に行けなかった人々は、地中に深く潜り、世界の終わりにおびえながら、日々を過ごした。
 そして二年前。再び空は地上に牙を剥いた。観測し、警戒し、地下と地上の生活繰り返していた人類は、その予期せぬ災害に全く太刀打ちできなかった。地上にあったほとんどの生命が消え、いや、いくつかの場所では星が抉れ、数え切れないほどのものが亡くなった。
 その日から、空は厚い雲で顔を覆い、地上に向かって牙を剥けるときのみ、顔を覗かせ命を奪った。
 地上の人はと言えば、それ以降ほとんど地下へと潜り、地上に出てくることは無くなった。いつ死ぬかもわからない場所で、生活する人間のほうが可笑しいだろう。居たとしても、よほどの命知らずか変わり物だけだ。

「降ったら降ったで、仕方ないだろ。それが締め切り! みたいな」
「本当に書く気があります? そんなんだから、名前通り職なしなんですよ。ムショクさん」
 こちらに背を向けたまま、彼女が言った。言葉が痛い。ちらりとも見てくれないそのしぐさのせいで、余計に痛い。

 ふと、腹を空かせる匂いが鼻腔を擽った。
「アイビー、そういえば私はお腹が空いたのだが」
「先人は言いました。働かざるもの食うべからず」
 そんなことを言いつつも、普段は地下で暮らしている彼女が、こうやって日に三度、私の世話を焼くために、この地上の小屋に来てくれるほど優しい子だということを、俺は知っている。口元が緩みそうになるのをおさえながら、まだ汚れを知らない筆を椅子の上に置き、彼女のもとへと歩いていった。
「そこを何とかしておくれよ。これが最後の晩餐かもしれないんだし」
「いい歳のおじさんが猫撫で声で話しかけないでください」
 私を避けるようにして、彼女は体を翻し、ボロボロのテーブルに料理を置いた。なるべく、文明が生きていた時代に近づけた、終わりかけの世界の料理を。

さあ、宴を始めよう。終わる世界のこの果てで、明日も変わらず在り続けるために。

 


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