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このまま消えて、無くなるように。

 その日は一人になった瞬間、涙が溢れて止まらなかった。

 誰もいない、携帯もない、バスルームの中。シャワーの中に嗚咽を隠して、ぼろぼろと泣いた。脳裏に浮かんだのは、上司の顔、先輩の顔、友人の顔、さっきテレビで見た芸能人の顔、歌番組のC Mで歌っていたアイドルの顔、最近会えていない好きな俳優の顔。規則性もなく、次々と浮かんでは消えてゆく顔。誰のものともわからない、老婆の顔。

 きっと一過性のものだと思い、ぼろぼろと涙をこぼしながら、いつも通りに過ごした。それだと言うのに、シャンプーの泡を流しても、リンスのぬめりけを流しても、涙は止まらなかった。全身の泡も流し終えた頃、胸の中からどうしようもないくらいの感情が溢れ出した。黒くて、モヤがかかって、重いそれは、私の気管を通って、少しずつ、少しずつ外へと溢れ出す。ちっとも言葉にならないそれを吐き出しながら、ぼろぼろと絶えず泣き続けた。

 どうして大人はみんな、泣き出さないのだろうか。あんなに怒りやすいと言うのに、ちっとも泣いたりしない。「お前はすぐに泣きすぎだ」と、困った顔で言う上司の顔が浮かんで、さらに涙が溢れた。きっとあの人は、どうしようもない恐怖に襲われたことが無いのだろう。理由のない恐怖。正体のわからない恐怖。ただただ、明日が来るのが怖くて、震えたことが。
 私の心は、まだまだ十分に大人になりきれなくて、年齢という時間の経過だけが、見えないルールで縛り付ける。お前は大人なのだからしっかりしなさい、と。きっと、これは叫びだ。大人になりきれない、少女の私の、叫びなのだ。

 明日が来るのが怖い。
 年を重ねるのが怖い。
 どんどん、大人になるのが、怖い。

 そういって心に巣食った少女が泣き叫ぶから、今日も私は、年甲斐もなくぼろぼろと涙を溢してしまうのだろう。
 項垂れるようにして、バスタブの側面に寄りかかる。足元のタイルが、蛍光灯の黄色と陰りの紫を交互に映し出しているように見えた。本当は色なんか変わっていなくて、久し振りにこんなに大泣きしたせいで、視界がおかしくなっているだけなのだろう。そんなことはわかっているけれど、この色の明暗が、私の心の波を写しているようだった。

 涙はまだ止まらない、下を向けば、ぼとぼとと落ちて、床に新鮮な水の足跡をつけていく。
 こぼれ落ちる水滴に色をつけるみたいに、雨音が重なった。

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