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2世として生きてきた半分

2世ってあの…?

この人はどこかの国の王なのか?と思った方もおられるかもしれませんね。

私は国王でも芸能人でもありません。

両親は私が生まれる前からとある宗教に入信しており、その為私は生まれた時からその宗教に入信しています。

ですので私はいしだ壱成のような2世タレントとかではなく、いわゆる2世信者と呼ばれているものです。

最近、日本を震撼させた事件がありました。犯人の動機に母親がある宗教に入信し、それによって家庭が崩壊。その教団の事が連日報道され色々出てきています。

※この記事は、事件について言及する記事ではありません。

この事件を受けて、宗教とはなんだろうと、改めて考えるようになりました。

私の両親は自分の意思で選択して入信しましたが、私は生まれた時から入信していますので、選択なんてしていません。

宗教そのものを否定するわけではありません。それで救われるなら信仰したらいいと思います。だけど、子供を入信させるってどうなんだろう。しかも生まれて間もない子供を。

ある信者は言いました。

「生まれた時から入信できたのは功徳を積んできたから(両親が)」と。

多分、そんなような事を言っていたと思います。遠い記憶なので1文字くらい間違ってるかもしれません。

その言葉に当時、私はそれを誇らしく思っていました。と同時に、入信していない人に対して憐れみに近い感情が芽生えました。

入信していない人を見ては、笑ってるけどあの人の最後は苦しんで死ぬんだ。テレビで芸能人が病気だと報道されると、この人も苦しんで死ぬんだ。なんて思うようになりました。友達に対してもそんな感情を持ちました。可哀想だと。

そんな感情も薄れていくのを感じたのは進学をして家を出た時でした。距離を置く事で親を客観的に見れた事もあり、この宗教に対して色々疑問を持つ事が増えてきました。

信者同士のいがみ合い。「あの人の何妙法蓮華経があだだーあだだーと聴こえる」とか、「あの人がウチの会社に入社したら大きな顔はさせない」などなど、くっだらない。

こんな人たちばかりではありません。誰かの為に真剣に活動してらっしゃる方もいらっしゃいます。

信者の結婚問題について何故?と思う事もありました。信者同士の結婚なら問題はないけど、相手が信者でない場合は困難になってきます。相手が入信しなければ結婚を認めないという親がいるのです。それが原因で結婚を諦める信者もいます。

成人しているなら親の事なんて関係なく結婚すればいいじゃないかと思うかもしれませんが、できないのです。子供の頃から入信していると、教えを植え付けられているので反対を押しきって結婚なんて恐ろしくてできません。自分も家族も何かあるかもしれないから。なので何も言えません。入信しなければ結婚を認めないなんて言うガチの信者には、何を言っても話が通じませんし。

『世界平和』がスローガンとなっている宗教ですので、信仰を広めなければなりません。例え、子供の結婚が駄目なってもそれが子供の為と思っています。

子供が信者じゃない人と結婚となると、色々言われます。信心が足りないだとか、幹部とか役職がある人なら尚更。入信させたのなら絶賛の嵐ですが。パートナーとなる人の為にやむ終えず入信した人もいらっしゃいます。おかしな話です。

貴方たちは何故その宗教を信仰しているのですか。家族や大切な人がより良く生きる為、幸せになる為ではないのですか。だったら何故強制したり子供に辛い思いをさせているのですか?と言いたい。

そんな思いが頭の中で膨らんでいきました。

こんな事誰にも言えませんし、ましてや友人や同僚にも吐き出す事なんてできません。信者だという事を隠してましたから。

モヤモヤを抱えながら私のように疑問に思ったり苦しんでいる2世信者がいるのではないかとネットで検索しました。それ関連の書籍などがある事を知りました。

私と同じような事を感じている人たちの気持ちに触れる事で少しずつ心が軽くなっていきます。私だけじゃないんだと。

ただ、心配にもなったりしました。勇気を出して発信した人たちの事を。その後は大丈夫だっただろうか。何もなかったんだろうか。罰的な事はなかったのだろうか。と、当時は思ってました。今考えると、そんな事はないのだろうと思いますが、教えというのはこびりついているもので、時々出てくるんです。

例の事件の教団の元信者のインタビューで、脱会した後もフラッシュバックすると。教団を批判する活動をしているけど、もしかしたら罰が下るのではないかと。

私もありました。活動やめたら今の家族に何かあるのではないか、子供が不治の病になったらどうしようとか。そんな風に子供の頃受けた教えはこびりついて、時々出てくるんです。

こびりつきはなかなか取れないもので、深いものは難しい。でも時間をかけて少しずつですが落ちます。

時間が経ちましたがけっこう綺麗になっていると思います。

ただ時間が経ったから綺麗になったのではなく、なんやかんやあったからこそ、綺麗になったのです。

私は信仰に関してはそんなに熱心ではなかったので、こびりつきはあまり深い所までいってなかったのかもしれません。。

子供の頃から、座談会と呼ばれる集まりも嫌だったし、一番嫌だったのは朝晩仏壇の前で座ってやる“勤行”でした。

「勤行」とは、朝晩、御本尊に向かい、法華経の方便品と寿量品を読み、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることです。この「勤行」こそ、日々の生活のリズムの根幹であり、幸福への源泉です。

とある宗教のアレコレ

この、方便品・寿量品を読みとありますが、毎日朝晩やってると丸暗記して本がなくても言えるはずなのですが、私は覚える気もなく、とにかく早く終わらせたい一心で、ろくに見もせずゴニョゴニョとしてたので暗記はできなかったです。今考えると、そのゴニョゴニョがあの時私を…。私はかつて軽…いや、この話はこの記事とは関係ないのでまた、別の機会に。

以前、別の記事にも書いた事があるのですが、私は結婚するまで神社もお寺にも行った事がありませんでした。信仰している宗教以外は全て邪宗と教えられていたからです。

邪宗とは人心をまどわして社会に害毒を及ぼす宗教。邪教。

学研国語大辞典 より

その影響で私は神社、お寺を毛嫌いしていました。宗教からの影響というより、やはり親の影響が大きかったです。テレビに仏像とかお坊さんが出る度に母親が「気持ち悪い!」と言ってテレビを消したり、チャンネルを変えたりするので自ずとそれらのモノをなるべく見ないようにしてきました。

神輿がある祭りに行くのも禁止されていました。盆踊りは大丈夫でした。踊りました。

踊りと言えば、今でもやっているかわかりませんが年に1回だったか『世界平和文化祭』という催し物がありまして、ドームなど大きな会場を借り、世界中の信者が集まって踊ったり歌ったり。私も1度だけ裏方として参加した事あります。イメージとしては北○○黒電話のパレードみたいな。「なんかすげえ揃ってる」という感じです。この日の為に何度練習したのかと思うと…

なんか批判のような事ばかり書いてしまいましたが、悪い事ばかりではなかったんですよ。大きな集まりの時は他の地区の子供たちもいましたから集まり以外の日でも遊んだりしていました。『これ、落としましたよ』『アルバイトしたいんですけど』などのイタズ…遊びをしたり、楽しい思い出もあります。

だらだらと、長いだけのまとまりのない記事になってしまいました。まだまだ色々ありますが、そろそろ足がしびれてくる頃かと思いますので、アレコレはここまでにします。

どの宗教なのか察していらっしゃる方もおられるかと思います。特定の宗教の批判をする為に書いたのではないです。真摯に向き合い、信仰していらっしゃる方もおられます。それは素晴らしい事だと思います。ただ、私の思ったのと違っただけです。

また引っ張り出しますが、例の事件で元信者の話の中で「宗教は考える事を奪われてしまう」とありました。まさにそうなんですよね。答えがあるから考えなくていい。考える事をしなくなったら人は…と想像すると怖いです。確か、誰かがこんな話を記事にしていてたような、してなかったような・・・

記事のテーマがテーマだけに、ガチの人が来るかもしれないので有料記事にしようか迷いましたが、来るもの拒まずの精神なのでそのままにしました。私は丸裸です。

真面目に書こうと思いましたが、やっぱり出てしまうんです。いつものようにちょいちょい変な癖が。

いつものような変な癖が出るという事は、私の中でこのテーマは深刻なテーマではなくなったという事になるのでしょうか。

で、

結局何が言いたいの?

ですって?

ロールキャベツが美味しく出来たとか

FamilyMartに生クリーム系のスウィーツが売ってなかったとか

玉ねぎの値段が落ちついたとか

鮭が高いとか

ベーコンがうめぇとか

日向ぼっこが気持ちいいとか

モフモフとか

楽しいとか

生きてるとか

夫の会社に肉好きが集う肉部があると聞いて

「で部?」
「肉部」
「で部?」
「肉部」
「で部?」
「…」
とか


そんなんでいいんじゃないのかと。

なんやかんやで、こびりつきは落ちますから。


#カビキラーで根元から
#信号
#赤は止まれ
#ナイツの漫才は大好き
#夫は肉部
#なんやかんや
#〆てから長いとか